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幸田露伴の小説「貧乏」

貧乏
(明治期の東京下町の長屋住まいの夫婦の話)

その一

「アア詰らねえ、こう何もかも不一致(ぐりはま)になった日にゃあ、俺ほどの者でもどうもならねえッ。いめえましい、酒でも喫(くら)って遣(や)れか。オイ、おとま、一升ばかり取って来な。コウㇳ、もう煮奴豆腐(にやっこ)も悪くねえ時候だ、ついでに豆腐でもたんと買え、田圃(たんぼ・吉原)の朝というつもりで堪忍をしておいてやらあ。ナンデエ、そんな面(つら)あ為(す)ることはねえ、女ッ振りが下がらあな。」
「おふざけでないよ、寝ているかと思えば眼が覚めていて、出しぬけに床ん中からお酒を買えたあ、何の事(こっ)たえ。そして何時だと思っておいでだ、もう九時だよ、日が当たってるのに寝ている者があるもんかね。チョッ不景気な、病人くさいよ、眼がさめたら飛び起きるがいいわさ。ヨウ、起きてお仕舞いてえば。」
「厭(や)あだあ、かあちゃん、お眼覚(めざ))が無いじゃあ、坊は厭あだあ。アハハハハ。」
「ツ、いい虫だっちゃあない、呆れっちまうよ。さあさあお起きったら起きナ、起きないと転(ころ)がし出すよ。」
と夜具を取りにかかる女房は、身長(せい)の少し高過ぎるのと、眼の廻りの薄黒く顔の色一体に冴ないのが難(なん)だが、面長(おもなが)にて眼鼻立ちは悪くない、粧(つく)り立てれば粋にも見えよう三十前の満更でない女なり。
今まで機嫌よかった亭主は忽然として腹立声に、
「よせエ、この阿魔あ、俺が勝手だい。」
と云いながら裾の方に立寄る女を蹴りつけようと、掻巻(かいまき)ながらに足をばたばたさす。女房は驚いてソッとそのまま立ち離れながら、
「オヤおっかない狂人(きちがい)だ。」
と別に腹も立てず、少し物を考える。
「あたりめえよ、狂人(きちがい)にでもならなくって詰るもんか。アハハハハ、銭(ぜに)が無い時あ狂人(きちがい)が洒落てらあナ。」
「お銭(あし)が有ったらエ。」
「フン、有情漢(いろおとこ)よ、オイ悪かあ無かったろう。」
「いやだネ知らないよ。」
「コン畜生め、惚やがった癖に、フフフフフ。」
「お前少しどうかお仕かえ、変だよ。」
「何が。」
「調子が。」
「飛んだお師匠様(おっしょさん)だ、笑わせやがる。ハハハハ、まあ、いいから買って来な、一人飲みゃあ仕めえし。」
「だって、無いものを。」
「何だと。」
「貸はしないし、ちっとも無いんだものを。」
「知恵がか。」
「いいえさ。」
「べらぼうめえ、無えものは無えやナ、おれの脱穀(ぬけがら)を持って行きゃあ五六十銭は遣(よ)こすだろう。」
「ホホホホ、いい気前(きぜん)だよ、それでいつまでも潜(もぐ)っているのかい。」
「ハハハハ、お手の筋だ。」
「だって、後はどうするエ。一張羅を無くしては仕様がないじゃあないか、エ、後ですぐ困るじゃ無いか。」
「案じなさんな、銭があらあ。」
「妙だねえ、無いから帯(おび)や衣類(きもの)を飲もうというのに、その後になって何が有るエ。」
「しみったれるなイ、裸百貫、男一匹だ。」
「ホホホホホ、大きな声をお出しでない、お隣りの子が起きると、おかみさんの内職の邪魔になるわネ。そんならいいよ買って来るから。」
と女房は台所へ出て、まだ新しい味噌漉(みそこし)を手にし、外へ出(い)でんとす。
「オイオイ此品(これ)でも持って行かねえでどうするつもりだ。」
と呼びかけて亭主がいうのに、ちょっと振りかえって嬉しそうに莞爾(にっこり)笑い、
「いいよ、黙って待っておいで。」
たちまち姿は見えなくなって、四・五軒先の鍛冶屋の鎚(つち)の音ばかりトンケンコン、トンケンコンと残る。亭主はちょっと考えたが、
「ハテナ、近所の奴に貸した銭でもあるかしらん。知人(なじみ)も無さそうだし、貸す風(ふう)でも無(ね)えが。」
と独語(ひとりご)つところへ、うっそりと来かかる四十ばかりの男、薄汚ない衣服(なり)、髪垢(ふけ)だらけの頭したのが、裏口から覗きこみながら、異(おつ)に潰れた声で呼ぶ。
「大将、風邪でも引かしったか。」
両手で頬杖しながら匍匐臥(はらばいね)にまだ臥(ふし)てる主人(あるじ)は、懶惰(ぶしょう)にも眼ばかり動かして一ㇳ眼見たが、身体はなお毫(すこし)も動かさず、
「日瓢(にっぴょう)さんか、ナニ風邪じゃあねえ、フテ寝というのよ。まあ上るがいい。」
とは云ったが上って貰いたくも無さそうな顔なり。
「ハハハ、運を寝て待つ積りかネ、上ってもご馳走は無さそうだ。」
「違(ちげ)えねえ、煙草の火ぐらいなもんだ。」
「ハハハ、これではお互に浮ばれない。時に明日の晩からは柳原の例のところに○州屋の乾分(こぶん)の、ええと、誰とやらの手で始まるそうだ、菓子屋の源(げん)に昨日そう聞いたが一緒に行きなさらぬか。」
「往かれたら往こうわ、ムムそれを云いに来たのか。」
「左様さ、お互いに少し中(あた)り屋さんにならねばならん。」
「誰だってそう思わねえものは無えんだ、御祖師様(おそしさま)でも頼みなせえ。」
「からかいなさるな、罰が当っているほうだ。」
「ハハハ、からかいなさんなと云って貰いてえ、どうも言語(ものいい)の丁寧な中(うち)がいい。」
「ガリスの果てと知れるかノ。」
「オヤ、気障(きざ)な言語(ふちょう)を知ってるな、大笑いだ。しかし、知れるかノというノの字で打壊(ぶちこわし)だあナ、チョタのガリスの御果(おんはて)とは誰が眼にも見えなくってどうするものか。」
「チョタとは何だ、田舎漢(いなかもの)のことかネ。」
「ムム。」
「忌々しい、そう思われるが厭だによって、大分気をつけているが地金(じがね))とかく出たがるものだナ。」
「ハハハ、厭だによってか、ソレそれがもういけねえ、ハハハ詰らねえ色気を出したもんだ。」
「イヤ居(お)れば居るだけ笑われる、明日(あす)来てみよう、行かれたら一緒に行きなさい。」
と立帰り行くのを見送って、
「おえねえ頓痴奇(とんちき)だ、坊主っ返(けえ)りの田舎漢(いなかもん)の癖に相場も天賽(てんさい)も気が強(つえ)え、あれでも矢張(やっぱ)り取られるつもりじゃあ無え中(うち)が可笑しい。ハハハ、いい業ざらしだ。」
と一人(ひとり)笑うところへ、女房おとまぶらりっと帰って来る。見れば酒も持たず豆腐も持たず。」
「オイどうしたんだ。」
「どうもしないよ。」
矢張り寝ながらじろりっと見て、
「気の抜けたラムネのように異(おつ)にすますナ、出て行った用はどうしたんだ。」
「アイ忘れたよ。」
「ふざけやがるなこの婆(ばばあ)。」
「邪見な口のききようだねえ、阿魔だのコン畜生だの婆(ばばあ)だのと、歴(れっき)とした内室(おかみさん)をつかめえてお慮外だよ、兀(はげ)ちょろ爺(じじい)の蹙足爺(いざりじじい)め。
と少し甘えて言う。男は年も三十一二、頭髪(かみ)は漆のごとく真黒(まっくろ)で、いやらしく手を入れ油をつけなどしないで、短めに刈ったままだが人優(ひとすぐ)れて見好い。なので兀(はげ)ちょろ爺(じじい)と罵(ののし)ったのは特別(わざと)なので、蹙足爺とは何時までも起き出さない故(ゆえ)だろう。男は罵(ののし)られても激しくは怒らず、かえって茶(ちゃ)にした風(ふう)に、
「やかましいやい、真(ほん)に酒はどうしたんでエ。」
「こうしてから飲むがいいサ。」
と突然(だしぬけ)に夜具を引剥(ひっぱ)ぐ。夫婦の間とはいえ男はさすが狼狙(うろた)えて、女房の笑うのに我からも噴飯(ふきだし)ながら衣類(きもの)を着る。その酒屋の丁稚(でっち)、
「ヘイ御内室(おかみさん)ここへ置きます、お豆腐は流しへ置きますよ。」
と徳利と味噌漉を置いて行くのは、此家(ここ)の内儀(かみさん)にいいつけられたものか。
「さあ、お前はお湯(ぶう)へいっておいでよ、その間にチャンとしておくから。」
手拭と二銭銅貨を男に渡す。片手には今手拭を取ったついでに取った帚(ほうき)をもう持っている。
「ありがてえ、昔時(むかし)からテキパキした奴だったッケ、イヨ嚊(かかあ)大明神。」
と小声で囃(はや)して後でチョイと舌を出す。
「シトヲ、馬鹿にするにも程があるよ。」
大明神、眉を皺(ひそ)めてちょいと睨んで、思い切って強(ひど)く帚で足を薙(なぎ)たまう。
「こんべらぼうめ。」
男は笑って呵(しか)りながら出で行く。

その二

浴後(ゆあがり)の顔色冴々しく、どこに貧乏の苦があるかという容態(ありてい)で男は帰って来る。一体に苦走(にがみばし)って眼尻にたるみ無く、一の字口は少し大きいがきっと締ってかえって男らしく、娘には如何(どうか)だが浮世の鹹味(からみ)を嘗めて来た女には好かれる肌合なり。あたりを片付け鉄瓶に湯も沸(たぎ)らせ、火鉢も拭いてしまった女房おとま、片膝を立てながら疎(あら)い歯の黄楊(つげ)の櫛で邪見に頸足(えりあし)のそそけを掻き憮でている。両袖がまくれて流石(さすが)に肉付の悪くない二の腕まで見える。髪はこの手合にお定(き)まりのようなお手製の櫛巻だが、身だしなみを捨てない、小官吏(こやくにん)の細君などが四銭の丸髷を二十日(はつか)も保(も)たせたるよりは遥かに見よげなのは、何処かに一時(いちじ)は磨き立てた光の残りの助けであろう。亭主の帰り来りを見て急に立ち上り、
「さあ、ここへおいで。」
と座を与える。男は無言で坐り込み、筒湯呑(ゆのみ)に湯をついで一杯飲む。夜食膳と云いならわした卑しい式(かた)の膳が出て来る。上には飯茶碗が二つ、箸箱は一つ、猪口が二ツと香のもの鉢は一ツと置きならべられてある。片口は無いと見えて山形に五の字の描かれた一升徳利は火鉢の横に侍坐(じざ)させられ、駕籠屋の腕と云っては時代違いの見立だが、文身(ほりもの)の様に雲竜(うんりゅう)などの模様がつぶつぶで記された型絵の燗徳利は女の左の手に、いずれ内部(なか)は磁器(せと)ぐすりのかかっていようという薄鍋(うすなべ)が脆(もろ)げな鉄線耳(はりがねみみ)を右の手につままれて出て来る。この段取の間、男は背後(うしろ)の戸棚に寄りかかり、ぽかりぽかり煙草をふかしながら、腮(あご)のあたりの飛毛(とびげ)を人さし指の先へちょと灰をつけては、いたずら半分に抜いている。女が鉄瓶を小さい方の五徳へ移せば男は酒を燗徳利に移す、女が鉄瓶の蓋を取る、ぐいと雲竜を沈ませる、危うく鉄瓶の口へ顔を出した湯が跳(おど)り出しもしないで引っ込んだり出たりしている間に鍋は火にかけられる。
「下の抽斗(ひきだし)に鰹節があるから。」
と女は云いながら立って台所へ出たが、つと外へ行く。
「チョツ、削(か)けといやあがるのか。」
と不足らしい顔つきして女を見送ったが、何が眼についたか急にショゲて黙然(だんまり)になって抽斗を開け、小刀と鰹節(ふし)とを取り出した男は、鰹節が亀節(かめぶし)という小さなものなのを見て、
「ケチびんなものを買っときあがる。」
と独言(ひとりごと)しつつそこらを見廻して、やがて膳の縁(ふち)へ鰹節(ふし)をあてがって削(か)く。
女は直ぐに帰って来たが、前掛けの下より現われて膳に上(の)せた小鉢には蜜漬けのラッキョウが少し盛られて、その臭気(におい)は烈しく立ち渡る。男はこれに構わず、膳の上に散った削(か)いた鰹節を鍋の中に摘まみ込んで猪口を手にする。注(つ)ぐ、呑(の)む。
「いいかエ。」
「素敵だッ、やんねえ。」
女も手酌で、きゅうと遣(や)って、その後徳利を膳に置く。男は愉快気(ゆかいげ)に重ねて、
「ああ、いい酒だ、サルチルサンで甘え瓶づめとは訳が違う。」
「ほめてでももらわなくちゃあ埋(うま)らないヨ、五十五銭と云うんだもの。」
「何でも高くなりやあがる、ありがてえ世界(せけえ)だ、月に百両じゃあ食えねえようになるんで無くッちゃあ面白くねえ。」
「そりゃあどういう理屈だネ。」
「一揆がはじまりゃあ占(しめ)たもんだ。」
「下らないことをお言いで無い、そうすりゃあ汝(おまえ)はどうするというんだエ。」
「構まうことあ無えやナ、岩崎でも三井でも敲(たた)き壊して酒の下物(さかな)にしてくれらあ。」
「酔いもしない中(うち)からシドイ管(くだ)だねエ、バアジンへ押込んで煙草三本拾う方じゃあ無いかエ、ホホホホ。」
「馬鹿あ吐かせ、三銭の恨みで執念をひく亡者の女房(かかあ)じゃあ汝(てめえ)だってちと役不足だろうじゃあ無ねえか、ハハハハ。」
「そうさネエ、まあ朝酒は呑ましてやられないネ。」
「ハハハ、いいことを云やあがる、そう云わずとも恩には被(き)らあナ。」
「何をエ。」
「今飲んでる酒をヨ。」
「何故サ。」
「何故でもいいわい、ただ美味(うめ)えということよ。」
「オヤ、おハムキかエ、馬鹿らしい。」
「左様(そう)じゃあ無えが忘れねえと云うんだい、こう煎じつめた揚句に汝(てめえ)の身の皮を飲んでるのだもの。」
「弱いことをお云いだねエ、ガラに無いヨ。」
「だってこうなってからというものァ、運とは云いながら為(す)ること為ることドジを踏(ふ)んで、旨(うめ)え酒一つ飲ませようじゃあ無し、面白い目一つ見せようじゃあ無し、おまけに先月あらいざらい何も彼(か)も無くして仕舞ってからあ、コオロギの悪く啼(な)きゃあがるのに、よじりもじりのその絞衣(しぼり)一つにしたッ放(ぱな)しで、小遣銭(こづけえぜに)も置いて行かずに昨夜(ゆうべ)まで六日(むいか)七日(なのか)帰(けえ)りゃあせず、売るものが留守に在ろう筈は無し、どうしているか知らねえが、それでも帰(けえ)るに若干銭(なにがし)か握(つか)んで家へ入(へ)えるならまだしもというところを、銭に縁のあるものァ欠片(かけら)も持たず空腹(すきっぱら)ァかかえて、オイ飯を食わしてくれろッてえんで帰(けえ)っての今朝(けさ)、自暴(やけ)に一杯(いっぺえ)引掛ようと云やあ、大方男児(おとこ)は外へも出るに風帯(ふうてえ)が無くっちゃあと云うところからのことでもあろうが、プッツリとばかりも文句無しで自己(おの)が締めた帯を外して来ての正宗(まさむね・酒)にゃあ、さすがのおれも刳(えぐ)られたァ。今ちょいと外面(おもて)へ汝(てめえ)が立って出て行った背影(うしろかげ)をふと見りゃあ、暴(あば)れた生活(くらし)をしているたァ誰(た)が眼にも見えてた繻子(しゅす)の帯、マッチの箱のようなこんな家に居るにゃあ似合わねえが過日(こねえだ)まで贅(ぜい)をやってた名残りを見せて、今の今まで締めてたのが無くなっている背(うしろ)つきの淋しさが、厭やあに眼に浸みて、馬鹿馬鹿しいがホロリッとなったァ。世帯もこれで幾度(いくたび)か持っては壊し持っては壊し、女房(かかあ)も七度(ななたび)持って七度出したが、こんな酒はまだ呑まなかった。」
「何だネエ汝(おまい)は、朝ッぱらから老実(じみ)ッくさいことをお言いだネ。」
「ハハハ、そうよ、異(おつ)に後生気(ごしょうぎ)になったもんだ。寿命が尽きる前にゃあ気が弱くなるというが、我(おら)アひょっとすると死際(しにぎわ)が近くなったかしらん。これで死んだ日にゃあいい意気地無 しだ。」
「縁起の悪いことお云いでないよ、面白くもない。そんなことを云っているより勢いよくサッと飲んで、そしていい考案(かんがえ)でも出してくれなくちゃあ困るよ。」
「いいサ、飲むことはこの通りお達者だ、案じなさんな。児を棄すてる日になりゃア金の茶釜も出て来るてえのが天運だ、大丈夫、銭(ぜに)が無くって滅入ってしまうような伯父(おじ)さんじゃあねえわ。」
「じゃあ何(なん)かいい見込みでも立ってるのかエ。」
「ナアニ、ちっとも立ってねえのヨ。」
「何様(どう)したらそう好い気になって居られるだろうネ。仕様(しよう)が無いネエ、何様(どう)かしておくれで無くっちゃあ妾(わたし)も既(もう)仕ようもようも有りゃあしないヨ。」
「ナアニ、いよいよ仕様が無けりゃあ、またちょいと書く法もあらア。」
「何様(どう)お仕なのだエ。」
「強盗と出かけるんだ。」
「智慧が無いねエ、ホホホホ。詰らない洒落ばかり云わないで真実(ほんと)にサ。」
「真実(ほんと)に遣付(やっつけ)ようかと思ってるんだ。オイ、三年の恋も醒めるかナッ、ハハハ。」
「冗談を云わないで真誠(ほんと)に、これから先をどうするんだか話して安心さしておくれなネエ。茶(ちゃ)かされるナア腹が立つよ、ひとが心配しているのに。」
「心配は廃(よ)しゃアナ。心配てえものは智慧袋の縮(ちぢ)み目の皺だとヨ、何にもなりゃあしねえわ。」
「だって女の気じゃあ幾らわたしが気さくもんでも、食べるもん無し売るもん無しとなるのが眼に見えてちゃあ心配せずにゃあいられないやネ。」
「ご道理もっとも千万(せんばん)に違えねえ、これから売るものア汝(てめえ)の身体(からだ)より他(ほか)にゃあ無えんだ。おれの身体(からだ)でも売れるといいんだが、野郎と来ちゃあ政府(おかみ)へでも売りつけるより仕様がねえ、ところでおれ様と来ちゃあ政府(おかみ)でも買い切れめえじゃあねえか。川岸女郎(かしじょろう)になる気で台湾へ行くのアいいけれど、前借(ぜんしゃく)で若干銭(なにがし)か取れるというような洒落た訳にゃあ行かずヨ、どうも我ながら愛想(あいそ)の尽きる仕義だ。」
「そんな事をいってどうするんだエ。」
「どうするッてどうもなりゃあしねえ、裸体(はだか)になって寝ているばかりヨ。塵埃(ほこり)が積(た)かる時分にゃあ掘出し気のある半可通(はんかつう)が、時代のついてるところが有り難てえなんてえんで買って行くか知れねえ、ハハハ。白丁奴(しろちょうめ)軽くなったナ。」
「ほんとに人を馬鹿にしてるね。わたしを何だとおもっておいでのだエ、こっちは馬鹿なら馬鹿なりに気を揉んでるのに、何もかも茶(ちゃ)にして済ましているたあ余(あんま)り人を袖にするというものじゃあ無いかエ。」
と少しつんとして、じれったそうにグイと飲む。酒の廻ったため面(おもて)に紅色(くれない)さして、一体醜(みにく)くない上に年齢(としばえ)も葉桜の匂い無くなりしというまででなければ、女振り十段も先刻より上って婀娜(あだ)ッぽい好い年増也。
「そう悪く取っちゃあいけねエ。そんなら実(ほん)の事を云おうか、実(じつ)はナ。」
「アアどうするッてエの。」
「実はナ。ほんとうの事を云やあ、ナ。」
「アアどうするッてエのだッていうのにサ。」
「エエ糞(くそ)ッ、忌々(いめえ)ましいが云ってしまおう。実は過日(こねえだ)家を出てから、もう到底(とても)今じゃあ真当(ほんと)の事ア遣(や)ってる間がねえから汝(てめえ)に算段させたんで、合百(ごうひゃく)も遣りゃあ天骰子(てんさい)もやる、花も引きゃあ樗蒲一(ちょぼいち)もやる、抜目なくチーハも買う富籤(とみ)も買う。遣らねえものはマッチの賭博(かけ)で椋鳥(むくどり)を引っかける事ばかり。その中(うち)にゃあ勝ちもした負けもした、いい時ゃ三百四百も握ったが半日たあ続かねえでトドのつまりが、残ったものア空財布の中に富籤(とみ)の札(ふだ)一枚(いちめえ)だ。こいつあ明日(あした)になりゃあ勝負がつくのだ、どうせ無益(むだ)にゃあ極ってるが明日(あした)行って見ねえ中(うち)は楽みがある、これよりほかに当ては無えんだ。オイ軽蔑(さげすむ)めえぜ、馬鹿なものを買ったのも詮じつめりゃあ、相場をするのと差(ちげえ)はねえのだ、当らねえには極まらねえわサ。もうこうなっちゃあ智慧も何も、有ったところで役に立たねえ、有体(ありてい)に白状すりゃこんなもんだ。」
女房は眉を皺めながら、
「それもそうだろうが汝(おまい)そうして当らない時はどうするつもりだエ。」
「ハハハ、どうもならねえそう聞かれちゃあ。生きてる中(うち)はどうかこうか食わずにゃあ居ねえものだ、構うものかイ。だから裸で寝て居ようというんだ。愛想(あいそ)が尽きたか、可愛想な。厭気がさしたらこの野郎に早く見切をつけやあナ、惜いもんだが別れてやらあ。汝(てめえ)が未来(このさき)に持っている果報の邪魔は俺は仕ねえ、辛いと汝(てめえ)えがおもうなら辛いつきあいはさせたくねえから。」
とさすが快活(きさく)な男も少し鼻声になりながらなお酔いに紛(まぎ)らして勢いよく云う。味わえば情も薄くない言葉なり。女は物も云わず、修行を積んだものか泣きもしないで、ジロリと男を見たばかり、怒った様子もなく、ただ真面目(まじめ)になったのみ。
男なお語をつづけて、
「それともこう云っちゃあ少しウヌだが、貧すりゃ鈍(どん)になったように自分でせえ思うこの俺を捨ててくれねえけりゃア、真(ほん)の事(こっ)たあ、明日の富(とみ)に当らねえが最期おらあ強盗になろうとも最(もう)うこれからア栄華をさせらあ。チイッと覚悟を仕直してこれからの世を渡って行きゃあ、二度と汝(てめえ)に銭金(ぜにかね)の苦労はさせねえ。まだこの世界(せけえ)は金銭(かね)が落ちてる、大層くさく何処(どこ)へ行っても金(かね)金(かね)と吐(ぬか)しゃあがってピリついてるが、俺の眼で見りゃあ犬(いん)の屎(くそ)より金(かね)は沢山にころがってらア。ただ犬(いん)の屎を拾う気になって手を出しゃあ摑み取(ど)りだ、真(ほん)の事(こっ)たあ、馬鹿な世界(せけえ)だ。
「訳が解わからないよ汝(おまい)の云うことア、やっぱり強盗におなりだというのかエ。」
「馬鹿ア云え、強盗になりゃアどうなるとおもう。」
「赤い衣服(あかいきもの・囚人服)を着る結末(おち)が汝(おまい)のトドの望みなのかエ、お茶人過ぎるじゃあ無いか。」
「赤い衣服(きもの)ア善人だから被(き)せられるんだ。そんなケチなのとアちと違うんだが、おれが強盗になりゃ汝(てめえ)はどうする。」
「厭だよ、そんな下らないことを云っては、お隣家(となり)だって聞いてるヨ。」
「隣家(となり)で聞いたって巡査が聞いたって、談話(はなし)だイ、構うもんか、オイどうする。」
「おふざけで無いよ馬鹿馬鹿しい。」
と今は一切受付けない語気(ごき)。男はこの様子を見て四方(あたり)をきっと見廻わしながら、火鉢越しに女の顔近くに我(わが)顔を出して、極めて低い声でひそひそと、
「そんなら汝(てめえ)、おれが一昨日(おととい)盗賊(ぬすみ)をして来たんならどうするつもりだ。」
と四隣(あたり)へ気を兼ねながら耳語(ささやき)告げる。さすがの女もギョッとして身を退き、四隣(あたり)を見まわしてさて男の面(おもて)をジッと見、その様子をつくづく見る眼に涙をにじませて、恐る恐る顔を男の顔へ近々と付けて、いよいよ小声に、」
「金さん汝(おまい)情無い、妾(わたし)にそんなことを聞かなくちゃアならない事を仕てお呉れかエ。エ、エ、エ」。
「ム、ム、マアいいやナ、仕ても仕ねえでも。ただ汝(てめえ)の返辞が聞きてえのだ。」
「どうしても汝(おまい)聞きたいのかエ。」
女の唇は堅く結ばれ、その眼は重々しく静かに据(す)わり、その姿勢(なり)はきっと正され、その面(おもて)は深く沈み必死の勇気に満みたされている。男は萎(しお)れきった様子になって、
「マア、聞きてえとおもって貰らおう。俺(おら)ァ汝(おめえ)の運は汝(おめえ)に任せてえ、俺(おら)が横車を云おう気は持たねえ、正直に隠かくさず云ってくれ。」
女はグイとまた仰飲(あお)って、冷然として云い放った。
「何が何でもわたしゃアいいよ、首になっても列(なら)ぼうわね。」
面(おもて)は火のように、眼は耀(かがや)くように見えながら涙はぽろりと膝に落ちた。男は臂を伸ばしてその頸にかけ、我を忘れた如く抱き締めて、
「ムム、ありがてえ、アッハハハハ、ナニ、冗談だあナ。べらぼうめえ、貧乏したって誰が馬鹿なことをしてなるものか。ああ明日(あした)の富籤(とみ)に当りてえナ、千両取れりゃあ気息(いき)がつけらあ。エエ酒が無えか、さあ今度アこれを売って来い。構うもんかイ、構うもんかイ、当らあ当らあきっと当らあ。」
とヒラリと素裸(すはだか)になって、寝衣(ねまき)に着かえてしまって、

  やぼならこうした うきめはせまじ、

と無間(むげん)の鐘の長唄(めりやす)を、どこで聞きかじってか中音(ちゅうおん)に唸り出す。

(明治三十年十月)

注釈

・ぐりはま:
 蛤(はまぐり)は二枚貝でピッタリ合わさっているが、はまとぐりを逆にして、一致しない、うまくいかないことを表わす。
・田圃(たんぼ)の朝:田圃とは吉原田圃のことか。吉原の遊びも明けて朝になれば後は帰るだけ、接待は無い。

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