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幸田露伴の随筆「水の上」

(大正時代のエッセイです)

水の上

 「夏は何と云っても小室の閑座などより大川の上や遠洋の中で遊んで居たい。冬であっても茶座敷の中でうずくまって居るのなどは、余り智恵や勇気のある姿ではない。思うことの出来る身分でいながら別に何の研究をするのでもない奴がストーブの傍にばかり居るのは褒めたことでは無い」と、ある冬の寒い日にある男が、大きなお世話であるのに、ある家の煙突から白い煙が贅沢らしくホヤホヤと立ち昇るのを見て私に語った。そしてその男は、「おれは立派な家の煙突から空を暖める煙の立ち昇るのを見るたびに、あの煙を出しているストーブの傍に、好い煙草などをふかして高慢なことを云って居る奴が居ると思うと、なぐり殺してやりたい気がする、」と云った。
 私は笑って、「おそろしい人だな、幸せに君は貧乏人だからいいが、間違って君が金持ちにでもなれば君は君になぐり殺されるかも知れないぜ、」と云ったら、変な顔をして私を睨んで、「じゃあ君はモ少し楽な身なら、ストーブの傍で居眠りをしていようと云うのだナ、」と云った。「勿論の事サ」と、噛んで吐き出すように云って退けると、「貧者の敵、大多数者の敵、モ少し楽になってみろ、友達じゃ無くなるかも知れないぞ」と、猛り立った。自分は腹の底からムクムクとおかしさがこみ上げて来たので、ハハハと笑い飛ばさずにはいられなかった。「馬鹿、何を下らないことを云って居るのだ、貧者にもストーブぐらいあたらせたがいいじゃないか、大多数者もストーブにあたって居られるようにしたらいいじゃないか、貴様は何時までも大多数者は風がヒューヒュー吹き通す汚い部屋で火鉢を抱いて居るもののように考えているんだナ、貴様はややもすると、金持ち階級や学者階級などは、大多数者を下等な者のように彼等の脳の中で既成画にしているからいけないと云うが、貴様の頭の中も大多数者を既成画にしてしまって居るんだナ、下らねエ、だから世慣れた金持ちの鋭い奴らに、ナーニ、彼等は優者に対して自分等の劣等なことを知って居るので社会組織など論じるのだなどと、甘く見られてしまうのだ。貴様等の感情は鍛錬してカスを残さないようにしないと、随分打ち込まれる隙があって、結局貴様等の不利益になるぞ、」と云ってやったら、「イヤ貴様こそ誤解しているのだ、」と云った。
 そんなことは十年も昔の事で、今はそんな下らないことを云う者もいないだろうが、とにかく冬は貧富の差をクッキリと描き出す傾向がある。ところが夏は有難い。温帯国の嬉しさは腹巻一ツで居られるのだから、金の無い奴の方が威勢がいい位のものだ。冬なら金持ち連中の衣服が三百円で貧乏人のが三十円とすれば、眼前二百七十円の差を双方の瞳の中へイヤでも押し込まれるのだが、夏になると楽な奴でも百か百五十円、苦しい者が三円か五円、その差が大いに小さくなるのだ。分数にして論じて見ると割合は何も貧乏人に軍配を上げている訳では無いが、ただ差額の大小を論じる時は、大いに夏は冬より少ない。感情というものは元来あまり賢いものでは無いから、差額が多いと激動し、少ないとサホド衝動しない。おまけに日本婦人は中々円満に発達をしているから、貧乏人でも少し気の利いた女房の居る者はカカア大明神の御利益によって、銭はかからないでも小ざっぱりした意気ななりをして気持ちよさそうにしている。却って肌襦袢を下に着て、上へ絽の羽織、アルパカの夏外套なんぞという重っ苦しい紳士面(しんしづら)より、余程自然に順応していて、英姿颯爽の賛辞を平民的打紛(いでたち)の方へ奉りたい位だ。そこで夏になると平民の方がアベコベに威張って、「アルパカの外套ぞうろぞうろ也」なんかと思いヤラカシテイル位のものだ。
陸(おか)でさえこうだ。まして水の上と来た日には、フンドシ一つシャツ一枚、どんなもんだいと、スットコかぶりかなんかで、あばれ次第遊び次第だから、遠慮も梨(無し)の丸かじり、ビールのぐい飲みと洒落るのもよく、「余る力を加減して船端たたく涼みの興、この人数なればこそ」と其角の云った通りの大勢でも、そんなに苦にならないのが嬉しい。夕風がソヨソヨと吹いて来て、苫の毛がサラサラと鳴る時分、おてんと様アバヨ、また明日ネなんかと戯れて、身体中に石鹸(シャボン)をなすくりドブンと飛び込んで流れに背中を流させる心持ち、少し寒い位になってからあがって、キチンと坐った頃を、水が膨れたような気配の中をデッカイお月様がニコヤカに出て来てくれるなんかと来た日には、渋茶の一碗に高慢キンキン、永代の橋杭に掛花生をした天明時代の洒落は無くても、ちょいとオサマッテ楽しみ極り無しであろう。
(大正十年八月)

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