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幸田露伴の紀行「突貫紀行」

 露伴先生若干二十才、二年間の余市電信局勤務に見切りをつけ一路帰京の途につく。これはその時の記録です。(訳者注)

突貫紀行

 身に疾(やまい)あり、胸に愁いあり、悪因縁は逐えども去らず、未来に楽しき到着点は認められず、目前には痛き刺激物あり、慾あれども金なく、望み有れども縁遠し、ヨシ突貫してこの逆境を抜け出さんと決したり。五六枚の衣服を売り、一箱の書籍を質に入れ、我を愛する人二三に別れを告げ忽然と出発する。時は正に明治二十年八月二十五日午前九時。桃内(ももない)を過ぎる頃、馬上にて、
  
   きていたるものまで脱いで売りはてぬ
        いで試みんはだか道中

 小樽で名高き旅館「キト」に宿り、夜涼に乗じ市街を散歩するに、七夕祭とて人々おのおの自己(おの)が故郷の風習に従い、さまざまな形をした大行燈(おおあんどん)小行燈(こあんどん)に火を点じ歌い囃して街中(まちなか)を引き廻せり。町幅一杯ともいうべき竜宮城に似せた大燈籠の中に幾十の灯火を点ずるものなど、火光(かこう)美しく透けて殊に目覚ましく鮮やかなり。
 二十六日、枝幸丸(えさしまる)という舟に乗り薄暮の岩内港に着く。この港は嘗て騎馬で一遊した土地なれば、我が思う人は有りや無しや、我が顔を知れる人も有るなれど、海上は煙が込めて浪穏やかならず、夜も暗く頼りなければ、船に留まることにして上陸せず。都鳥に似た「ごめ」という水鳥だけが黒み行く浪の上に暮れ残って白く見えるに都鳥が偲ばれて、父母住み給う東京の地、振り捨てて来し小樽の地を流石に思わぬこともない。海気は衣服を撲って眠り美ならず、夢は半夜誰が家をか廻る。
 二十七日正午、舟は岩内を出発し、午後五時寿都(すつ)という港に着く。この地はこの辺りの舟泊りの地であるが、地形は美ならず、市街も物淋しく見える。夜泊る。
 二十七日の夜ともいうべき二十八日の朝早くに出港したが、浪風荒く雲乱れ、後には雨さえ加わる。福山すなわち往時(むかし)は松前と云った城下に暫時碇泊するに、旧城下だけあって北海道には珍しく流石に白壁造りの家など目に入る。この地は長寿の人が他所に比べて多く、女性もこの地生れは品良く色麗わしく、心ざま言葉つきも優しき人が多いとのこと、気候水土の美のためなるべし。上陸して逍遥したきは山々なるが雨に妨げられて舟を出ず。やがてまた吹き出した強い順風に乗じて船はこの地を出発し暮れる頃函館に着く、直ちに上陸してこの港の「キト旅館」に宿る。建築半ばであるが室広く器物清く、待遇悪しからずいと心地よし。
 二十九日、市中を散歩するにわずか二年余り見ないうちに、著しく家並みも良く道路も美しくなり、大町や末広町など殆んど東京にも劣らない。公園だけは寒気の強い所なれば樹木の勢いは良くなく、山水の眺めも有りながら何となく飽き足らない心地がするが、一切の便利は備わり商家の繁盛云うばかり無し。客窓の徒然(つれづれ)を慰める手段(よすが)にと眼にとまったジグビー、グランドを、文魁堂と云う店で買って帰る。午後、我がした狼藉行為(小樽脱出)のため、憚る筋の人(電信局の説得人?)に捕えられて様々に説諭を加えられる。しかし聊か思い定める理由が心中にあり頑として屈せず、慰留の好意を断り、帰るや否や直ちに三里ほど離れた湯の川温泉に到り、そして手紙を友人に送りこの地に来たことを報じおく。罪ならば罪を得よう、人間の加え得る罪にどれほどのものが有ろう。事を決するとは元より腫瘍(できもの)を切るようなこと、多少の苦痛は耐えるしかない。この地の温泉は今年の春からこのように大きな旅館なども設けられるようなり、函館と相関連して今後とも繁盛すべき好位置に在り。眺望はこれと指して云うものも無いが、函館からこの地まで、あるいは海浜に沿い、あるいは田圃を通る道にも趣きがあり、空気は特に心地良く自然と愉快を感じる。林長館と云う宿に泊まりしが客あしらいも軽薄でなく、いと頼もしく思いたり。
 三十日、清閑独り書を読む。
 三十一日、微雨、いよいよ読書に妙なり。
 九月一日、館主と共に近くの海岸に行きイワシ漁の様子を観る。海浜の浜小屋というもの、東京の長屋のように一列に建てられているのを初めて見る。
 二日、無事。
 三日、午後箱館に至り旅館「キト」に一宿す。
 四日、初めて耕海入道と名乗る紀州の人と知る。年齢は五十を超えているようだが矍鑠(かくしゃく)として殆んど伏波将軍の気概あり、これより千島に行くと云う。
 五日、いったん湯の川に帰り、引返してまた函館に着き仮寓を定める。
 六日、無事。
 七日、静座読書。
 八日、おなじく。
 九日、市中を散歩してこの地には居ない筈の男に行き逢う。何故に父母を捨て流浪しているかと問えば、情婦の為なりと答える。帰後独座して感慨を久しくする。
 十日、東京に帰ろうと欲すること急なり。されど船にて直航するには懐中が足りず興味も薄く、陸を行けば苦しみ多かろうが興味はあるべし。懐中の不足は同じ事なれど、仙台にはその人無ければそれまでだが、在れば我が金を得られる事情の筋あり、且つ聊かでも見聞を広くし経験を得るには陸行の他(ほか)なし。ついに決断して青森行きの船の出るに乗じ突然この地を後にする。別れを告げれば妨(さまた)げ多いことを慮(おもんばか)り、ただわずかに一書を友人に遺すのみ。
 十一日午前七時青森に着き、田中某を訪う。この旅路は風雅のためでもなければ詩歌に首をひねる事もなく、追手を避けて逃げるでもなければ、急いで足を引きずる苦しみもなし。されば真(まこと)に弥次郎兵衛の一本立の旅路にて、二本の足を動かし、三本足らぬ智恵の毛を見聞を広くする功徳で補おうとする、フザケタことなり。
 十二日午前、田中某の送別の宴を受けるまま、動きもせずに飲み耽(ふけ)って、昼食を終って出発する。安方町に善知鳥(うとう)の昔を忍び、外の浜に南兵衛の面影を思う(歌舞伎演目、「奥州安達原」)。浅虫と云う所まで村々は皆磯辺にて、松風の音、岸波の響のみなり。海の中に「ついたて」のような岩があり、その他記すべきことなし。小湊で宿る。この辺り朝の獲り入れで、忙し気な乙女のなまじ紅染めの腰巻したるもおかしく、いと可愛いい。小女の鉄漿(かね)黒々と染めた者の多いのも昔風で珍しい。見るもの聞くもの味わうもの触れるもの皆うっとうしい。「笥(け)にもる飯(いい)を椎の葉に」などと上品な洒落を云う所にあらず。浅虫に出湯(いでゆ)有るとのことなれども、道半ばであれば入らず。途中帽子を失うが買う余裕なければ、洋服には「うつり」が悪いが手拭で頬冠りをする。犬の吠えること甚しければ自ら無冠の太夫と洒落る。旅宿(やど)は三浦屋と云うに定めたが、宿衣は堅くて肌になじまず、戸は風漏れて夢覚めやすし。来し方行く末をおもい続けてウツラウツラと一夜を明かす。
 十三日、明けて糠(ぬか)臭い飯をロクに喰わず、脚半(きゃはん)を穿いて走り出る。清水川と云う村から野辺地まで又も海岸なり、野辺地の本町は御影石の幅三尺ばかりなのを三四丁に亘って敷き連ねてある。いかなる心か知らぬが立派なり。戸数は九百ばかりなり。とある家に入って昼食を食べると吸い物の中にキノコあり。椎茸に似て香りなく色薄し。されど味は悪るくなく、喰い尽して半里ほど歩くとやがて腹の痛むこと大方ならず、涙を浮べて道ばたの草を褥(しとね)にするが、路上で座禅を学ぶにあらず、かえって跋提河(ばっだいが・釈迦終焉の地)の釈迦にちかし。一時ばかりして人より宝丹を貰い受けて心地ようやく確かになる。恐ろしくして駄洒落もなく七戸(しちのへ)に疲れて宿るに、行燈の油は山中なのに魚油であろうか、臭い。殊更に雨が降り出して、秋の夜の旅の哀れもいや勝りければ、

   さらぬだに物思う秋の夜を長み
       いねがてに聞く雨の音かな

 食うものいとおかしく、山中なのに魚の膾(なます)はキノコの例に懲りて手もつけず、椀の中の泥鰌(どじょう)の五分切りも片腹が痛く、豆腐の固さは芋より固く余りに情けなければ、

   塩辛き浮世のさまか七の戸の
      ほそきどじょうの五分切りの汁

 十四日、朝早く立ち行く間もなく雨はシトシト降り出す。共寝の朝ならばやらずの雨とも云うべきだが、旅では辛いこと限りなし。三本木も夢路に過ぎて、五戸(ごのへ)で昼飯とする。この辺り牛馬が特に多い。名物だが喰うこともできず、土産(みやげ)にもできず、嬉しくなく思いながら、三戸(さんのへ)までどれ程の道のりかと問うと、三里と答えければ、いざ一走りと息せき立てて進むに、峠一つ有り、登ることやや長けれども尽きず、雨はイヨイヨ強く顔も上げ難く、足に出来た「まめ」はついに破れて脚も折れそうになる。並木の松もここでは始皇帝を慰め得ず、独り立ちの椎はいたずらに藤原藤房の悲しみに似る。トンネルに一休みする。この時また道のりを問うと、先方の答えは五十町一里なり。兎角(とかく)して涙ながら三戸に着く。床の間に刀掛けを置いてあるのは何の為か、家造りいと古びて興味あり。この日はじめて鮭を食うに味は美なり。
 十五日、朝、雨気有るが思いきって出る。三戸、金田一、福岡と来たが、昨日は昼食を食べはぐれて苦しんだので、今日はムスビを二ツ貰って来る、いざ食おうとするに際し玉子売る家あり。値を問えば六厘と云う。三つばかり買って猶も進み行くと、路傍に清水の出るところあり。椀さえ添えて腰掛もある。草を褥(しとね)とし石を卓として、渓流の流れ廻り、雲烟の変化するのを見ながら食うも好し、かつ値も廉(れん)にして妙(たえ)なりなぞと喜びながら、仰いで口中に卵を受けると、臭(にお)い鼻を突き味は舌を刺す。驚き吐き出すと腐っている。嗽(すす)ぎ嗽げども胸悪し。こんどは水を椀に取って見るに又同じ、次も同じ。これにて二銭を無駄にする。腹を立てて飯だけを喰う。

   鳥目(ちょうもく)を種なしにした残念さ
      うっかり買(こう)たくされ卵子に

   やす玉子きみもみだれてながるめり
       知りなば惜しき銭をすてむや

 これより行く手に名高き浪打峠にかかる。末の松山をこの地という説もあり。いずれに行くとも三十里余りを経なければ海に遇うことは成り難かるべし。ただし、貝の化石が湯田という所から出るとのことで処々に売る家があり、なかなか値は安からず。かくて進むほどに山道に入りて、鬱蒼とした樹、サラサラと流れる水の他は人にも遇わず、しばらく道に座って人の来るのを待ち、一戸(いちのへ)まで何程(どれほど)あるかと問うと、十五里ばかりと答える。愕然として夢か覚(うつつ)か狐に騙されたかと思うが、なお勇気を奮って進むと、答えた男急に呼びとめて、どちらへ行くかと云う。不思議に思って、一戸に行くと生返事すると、彼笑って、アアお主(ぬし・貴方)、迷って損をした、福岡の橋を渡らなければならないと云う。我ここに於いていよいよ落胆する。されどそのままではならず、日も高いので急いで行くと、二時(ふたとき)ばかりにして一戸駅へと云う道標に遇う。またまた怪しむこと限りなし。再び貝石売る家の前に出て値を問うにいと高ければ、いまいましさの余り、このハマグリ一升、天保銭位ならば一石も買おうと云えば、亭主それを食うのかと問う。元よりと答える。煮るかと云うのに、いや生こそ特(こと)に旨しなぞと口より出まかせに饒舌(しゃべ)り散らせば、亭主、さらば一升差し上げよう、食い給えと云う。その顔つきいと真面目なれば逃げようとしたけれども、フト思い付いて、まず殻を取って給われと答える。亭主噴飯(ふきだ)して、さてさて可笑しいことを云う人よと云う。可笑しさはこれだけではない、我は今日二時間ばかりで十五里歩いた、可笑しくないかと云えば、亭主、いやいや、吾等は老いてはいるが二時間に三十里は歩くと云う。だんだん聞くと六町が一里で大笑いとなる。昼めし過ぎて小繋まではモクラモクラと足引(あしびき)の山道いと慰め難く、暮れて怪しい家に宿る。キノコずくめの膳部に悉(ことごと)く閉口する。
 十六日、朝いと早く暗き中に出で、沼宮内も突々(つつ)と抜けて、一里ばかりで足を痛め、一寸余りの長さの「まめ」三個できれば、歩き難いことこの上ないが、休みもせず、終(つい)に渋民(しぶたみ)の九丁ほど手前で水を飲み飯をしたため、涙ぐんで渋民に入る。盛岡まで二十銭という車夫あり、北海道の馬より三倍安い。ついに乗って盛岡に着く。久しぶりに女子らしき女子をみる。一体土地の風俗は温和で卑しからず。中学は東京の大学に似ているが、警察署はキリスト教会に似ている。ともかくも青森よりは遥に宜しく、戸数も多い。肴町や十三日町の賑わい盛んなり、八幡の祭礼とかで殊更(ことさら)なので、見物したいが足が痛くて出来ない。この日岩手山を見る、また北上川の源(みなもと)に沼宮内以来また逢う、共に奥州では名勝なり。
 十七日、朝早く起き出したが足が痛く立つこと出来ず、心を決め車に乗じて馳せる。郡山、好地、花巻、黒沢尻、金が崎、水沢、前沢を経てようやく一ノ関に着く。この日行程二十四里。大町など相応の賑わいがある。
 十八日、朝霧いと深い。未明に狐禅寺に着き岩手丸で北上川を下る。両岸の景色面白い。いわゆる一山飛んで一山来るとでも云う景色にて、眼忙(せわ)しく心暇(ひま)なく、句も詩も無いは口惜しく、淀の川下りの弥次郎兵衛より遥かに劣るが、流石に弥次郎兵衛よりは高い情を持つ故なりとは負惜みなり。登米を過ぎる頃、女の子が餅を売りに来る。幾らかと問えば三文と答える。三毛かと問えばハイと云い、三厘かと云えば又ハイと云う。なおも諄(くど)く問えば憮然として、面膨(つらふく)らかして去る。暫くして石巻に着す。それより運河に添って野蒜に向う。足はまた腫れ上り、一足ごとに剣を踏むごとし。苦しさは耐えがたいが、金は無くなり道なお遠し、勤行と云う修行、忍耐と云う観念はこの時に入用なりと、歯を食いしばって進むに、やがて草鞋(わらじ)の底が抜ける。小石原にていよいよ堪え難く、雨は降り来たり、日は暮れんとしている。やむをえず背負える靴を取り下ろして履いて歩むに、一軒家に草鞋を下げてあるのを見つけ、嬉しやと立寄り一ツ求めて十銭札を与えるに取らず、通用が近日中に廃止されるものゆえ厭い嫌いて、この村では通用しない旨の断りも無理はないが、事情の困難を話して頼むのに、いじわる婆め更に聞き入れず。泣く泣く買わずにまた五六町過ぎて、サテモサテモ旅は悲しきものと思い知る。鴻雁翔天の翼有れども栩々なく、丈夫千里の才あって里閭に栄少し(雁は翼有れど速く飛ぶ悦びを得ず、我は千里の才あれど村里に苦しむ?)、十銭通用せず銅貨に卑しめられるなどと、難しい愚痴の出所(でどころ)はこんなものとお気に付かれたり。ようやくある家にて草鞋を買い得て勇を奮い、八時半頃野蒜に着く。白魚の子の吸い物いと旨く、海の景色も珍らし。
 十九日、夜来の大雨ようよう勢い衰えたるに、今日は待ちに待ちたる松島を見ようと勇気も日頃に増す。イデやと毛布(けっと)深く被り、エイサエイサと高城に差し掛かれば早や海原も見えるに、ひた走りして、遂に五大堂・瑞岩寺・渡月橋等うち廻わる。乗合船に乗ろうとするも、あいにく客は一人もなし。仕方なく財布の底をはたいて船を雇えば、引き違いに客一人あり、忌々しいこと限りなし。されど面白き景色を愛でて煩悩も軽く、いと好し。松島の景と云えばただただ、「松島やああ松島や松島や」と古人(芭蕉)も言いしのみとかや、「一ツ一ツやがて暮れけり千松島」と続けた技量は知らないこと、我々が鉛筆を一ダース二ダースと使ってもこの景色をいい尽せるとも思えず。東西南北、前後左右、或いは大きく或いは小さく、高いあり、低くいあり、みの亀の尾を曳きたるようなもの、臥したる牛の首あげたるようなものあり、月島・星島・桂島、踞(うずくま)る如きが布袋島なら立てるが如きは毘沙門島で、勝手に船頭が云い散らす名も相応に多かるべし。松吟庵は閑にして俳人が髭を撚(ひね)るところ、五大堂は寂びて禅僧の尻を据えるによし。況んやまたこの時、秋風のざわめく空に亮々たる琴声を聞き、細雨は絶え間なく袂(たもと)に滴々たる翠露を懸ける。過る者は送るが如く、来る者は迎えるに似たり。赤き岸や白き渚があれば、黒き岩や黄なる崖もある。杜甫や李白の才、蘇東坡や柳州の筆でなければ如何にかこの光景を捕捉しえよう。さてそれより塩竈神社に詣でて、蒙古の碑、壺の碑前を過ぎ、芭蕉の辻に着き、青葉城は日が暮れたれば明日の見物とする積りにて、知る人の許(もと)に行く。塩釜で残金ただの一銭となりければ、それを神に奉納して、

   からからとからき浮世の塩釜で
      せんじつめたりふところの中

 はらの町にて、

   宮城野の萩の餅さえくえぬ身の
       はらのへるのを何と仙台

 二十日、朝、曇り。午前九時知る人を訪ねしに、言葉の聞き違えにて、いと知り難かりければ、

   いそがずはまちがえまじを旅人の
       あとよりわかる路次のむだ道

 二十一日、この日もまた我が得られるべき筋の金を得ず、今暫らく待ちてよとの事に逗留と決しける。
 二十二日、同じく閑窓読書の他なし。
 二十三日、同じく。
 二十四日、同じく。
 二十五日、朝、キリスト教会堂に行きて説教を聞く。仏教もこの教えも人の口より聞けば有難からずと思う。
 二十六日、どうしたことか頭痛激しくしていかんともしがたし。
 二十七日、同じく頭痛する。
 二十八日、少しの金と福島までの馬車券とを得れば、ぐずぐずと日を費やすよりは苦しくとも出発せんと馬車にて仙台を出発し、日なお暮れざる中に福島に着く。途中白石の町はその昔民家の二階立てを禁じたとかで、うち見たるところ今なお聳え立つ家無し。片倉小十郎(白石城主)は面白き制度を布(し)きしものかな。福島で問い質(ただ)すに、郡山から東京までは鉄道が既に通じて汽車が往復しているとのこと。その乗車券の値を問うにほとんど懐中の金銭と同額であれば、今宵この地に宿って汽車賃を食い込んで、明日また歩み明後日また歩み、いつまでも順送りに汽車へ乗れない身となるよりは、苦しくとも夜を込めて郡山まで歩み、明日の朝一番で東京に至る方が極めて好きなり、身に邪熱あり足は猶(なお)痛めど、夜道を取らなくては以後の苦みいよいよもって大であると、ついに草鞋穿きとなって歩み出す。二本松に着けば、はや夜半近くで、市(まち)は祭礼とのことにて賑やかなれど、我が心の淋しさ云うばかりなし。市を出外れる頃から月明らかに前途を照し来たるが、同伴者も無くただ一人、町で買いたる餅を食いながら行く心の中、いと悲しく、金が有れば金が有ればと思いつつようよう進むに、足の疲れはいよいよ甚しく、時には犬に取り巻かれ人に誰何(すいか)されて、辛くも払暁(あけがた)郡山に達しけるが、二本松と郡山の間にては幾度か憩いけるに、初めは道の傍の草在るところに腰を休めなどしたが、次には道央(みちなか)に蝙蝠傘を投じてその上に腰を休むようになり、終には大の字となって天を仰いで地に身を横たえ、額を照らす月光を浴びて、他年のたれ死をする時あれば大抵かかる光景であろうと、悲しき想像などを起すようになる。
 二十九日、汽車の中に困悶(こんもん)して僅かに睡り、午後東京に辛くも着く。久しく見なければ停車場より我が家までの間の景色さえ変りて、愴然たる感のいと深く、父上母上は我が思いなしにか甚(いた)く老い給いたる、祖母上(ばばうえ)はこの四五日前より中風とやらに罹り給えりとて、身動きも出来たまえず、病床に苦しみ居給えるには、いよいよ心も心ならず驚き悲しみ、弟妹等の生長するばかりはヤヤ嬉しき心地すれど、いたずらに齢(よわい)のみ長じて好からぬことのみ為出したる我が、今も往時(むかし)ながらの愚か者なるに慚愧の情が身を責めれば、他を見るにつけても、これにすら悲しさ増して言葉も出(い)でず。
(明治二十年八月)

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