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幸田露伴の史伝「頼朝⑤生死の関1」

生死の関

義朝は不破の関に掛からずに小関に掛かったが、頼朝は小関に掛からずに生死の関へ掛かった。二十八日の夜の雪道で父や兄とはぐれて仕舞って、ただ独り人跡絶えた山中をさ迷ったのである。雪が無ければまだしもの事であったが、霏霏紛々と降る大雪は、道を埋め、小川を埋め、万物を埋め尽くして、憐れこの心細くも塒(ねぐら)を求める凍え雀のような頼朝を、埋め去ろうとするのであった。枯れ木の雪折れの音や寒林のフクロウの声は、どんなに稚い頼朝に断腸の思いをさせたことであろう。襟や裳裾に吹き入る雪、足も手も凍る冷たさ、寒気はどんなに公達育ちの頼朝を苦しめた事であろう。食事はそもそもどうしたであろうか。腹淋しさもまた少なからず頼朝を悩ませた事であろう。憂愁の情、飢寒の苦、あらゆる果敢ない情けない思いを頼朝はしたのである。それでも幸に路を間違えずに目指す青墓へ着けば宜しいのだが、知らない道を、まして夜の雪路のこと、方向さえ分かりかね、小関の方へは行かないで小平の方へ行って仕舞った。(小平はコダイラと訓(よ)んでいるが、或いはショウヘイでは無いかと憶測する。)夜も明け方になってとある小屋に立ち寄ると、小屋の主人と思われる奴がその女房に向って、「此の雪では落人共もサゾ弱っていることだろう、運好く一人でも二人でも捕らえて平家に突き出して褒美にあり付きたいものだ。」と云う声を聞いて、これは堪らないとビックリしてそこを逃げ出し、しばらく歩いて或る谷川の畔の石に腰を下ろして一ト休みしたが、サテ考えれば何事も絶望だ。父はどうなったか兄はどうなったか、ドコがドコだか分からないこの様な山路の雪に凍えて、やがては山賊や里人に捕らわれて、縄目の恥を受け、打ち首の最期を迎えるような事になりそうだ、と思うとドウしても辛抱が出来なくなって、自害しようと思わず小刀の柄へ我が手を掛けた。人間もただ辛い悲しい目を見ている中は辛いだけ悲しいだけで何のことも無い。却って気の持ち方によっては、この苦しい瀬を泳ぎ越しさえすればと思ったり、この我慢仕難い冬を過ごしさえすればと思ったりすると、萎え切った筋骨に力が湧いて来て、縮みきった肝っ玉も確固(しっかり)として来りするものである。しかしその辛い悲しい目も無暗に永く続くと弱ってしまう。人間は何と云っても「生身」の悲しさ、食わないで居れば百日も堪えられない、睡らないでいては十日も堪えられない、辛い悲しい目に堪えられるのも凡そ限度が有るので、いよいよ堪えられなくなると堪えながら死んで仕舞うのである。病んで衰弱して斃死したり、猛暑で死んだり、極寒に死んだり、憂愁の余りに悶死したりするのがそれである。けれどもそれ等は辛い悲しい目に堪えながら死ぬのだから、死ぬ直前までは辛い悲しい目にも堪える意欲を持っているのであるから、まだまだ辛い極点や悲しい極点では無い。辛い悲しい極点と云うのは、散々に辛さ悲しさに堪えに堪えて、辛さ悲しさに堪え得る力も殆んど尽きかけた時に、フと気が付いて見ると、このように死力を出して辛さ悲しさに堪えて見たところで、結局は何の役にも立たないだけでなく、却って益々不幸を大きくして、この以上無い情けない運命に陥るだけだと悟った時であろう。多くの自殺者はどうもそういう場合に自ら命を絶って仕舞うらしい。頼朝のこの場合などもそれである。二十七日の夜は、暫らくの間は父と塩津の庄司の許(もと)で休息したが、二十八日の一日は、その夜一夜を苦しみ抜いているのだから、心身ともに疲れ切っている上に残酷な言葉を聞いたのだもの、たとえ十三四の少年でなくとも死にたくなるのも当然である。可哀そうに頼朝は十三や十四で「生死の関」に掛かったのである。昔の英雄や豪傑や大事を為し大功を立てた人々で、生死の関に掛からなかった者が有ろうか。皆生きるか死ぬかの恐ろしい関を通って、そして次第に一人前の旅行者になって、行けるか行けないかは別にして各々その志すところへと歩いたものである。或いは年の若い時に通る者も有り、或いは晩年に通る者も有るが、少なくとも大事を為す者でこの関に掛からない者はマズ一人も無い。何れも泣きの涙や血の涙や切歯や火の出るような眼をしてその関をくぐるのだ。しかもまた志す道の種類によっては、一度ならず二度ならず三度も四度も五度も六度も、幾度となく生死の関をくぐる者も有るのである。生死の関に掛かっても詰らない凡人で終る者も有るが、大事を為す者で生死の関に掛からない者は少ない。見方と云い方によっては大事を為す者と云うのは、つまり大きな旅をする者なのであって、平凡な人と云うのはそのような長旅に出るよりは、家庭に居て庭先の梅や裏の桃に三春の景色を見て安楽に暮らそうと云うのだから、どうしても生死の関などに掛かることは少なく、大事を為すほどの者は幾度も生死の関に掛かりがちになる。世にはまた自然に運命の鞭に追い立てられ追い立てられて、厭でも応でも生死の関に掛からなければならないようにされて居る運命の者も居る。頼朝などは思うにそれであって、何も頼朝が好んで美濃の山に涙ながら彷徨した訳では無い、「造物主の脚本」と云うものがモシ有るとすれば、頼朝は正にその脚本の為に厭でも応でも「生死の関」に通り掛からされたのである。しかし「造物主の脚本」の為にそのような目に逢わされたとすれば、そういう目に逢わされた者は生命さえ取り止めれば、後々に於いては大抵は立派な役が付きがちなもので有るから、人がもし自分から仕出した事の為で無い「生死の関」に掛かったら、造物主がその脚本によって自分を重用しようとするものであると思って、間違っても自棄することなく十二分に自重して宜しいのである。ただし個人の幸福を基準に論じれば、造物主に重用されなくても、また名を成さなくても、功績を立てなくても、「生死の関」などに掛か駆らないで一生を送った方が遥かに結構なことで、そしてまたソウ有りたいと願う方が人間の本来かも知れないが、とにかく山もあれば谷もあり、苦しめられる者もあれば苦しめる者もあり野次馬もあるので、自然と生死の関に差し掛からなくてはならないように追い立てられる者も出て来て、生死の関に臨むのも、これも又やむを得ない世の姿である。頼朝も十三才で最初の生死の関へ臨むのだ。実に死にたく思った事であろうと思われる。その時に鵜飼の親父が出て来てこれを助けたとも云い、草野庄司と云う者に助けられたとも云い、太夫属定康と云う者に助けられたとも云うのであるが、吾妻鏡によればマズ定康として置いて宜しいのである。(吾妻鏡は実録ではあるが、早合点して読んではいけない、文章が捻じれ歪んで居たり、瑣事を大げさに書いたりしている事は争えない。山木判官兼隆を襲う場面は仰々しく、この定康に助けられる場面は文理が捻じれている。)或いは定康が草野庄司であって、鵜尉が頼朝を介助して庄司の定康のところへ連れて行ったのかも知れない。その詳しい事は知ることが出来ないが、家来筋であったか何であったか知らないが、何しろ源氏に由縁の有る定康と云う者に助けられたのである。それで、助けられたことは助けられたが、平家の捜索が厳しいのでノンビリして居る訳にもいかない。貞安は頼朝を自分の寺の大吉堂の天井裏に潜ませて、院主の阿願坊と云う者や納所坊主に警護させたと云うことだ。大吉堂の天井裏に居たなどは甚だ縁起が好いけれども、まるで鼠のようで頼朝の名が忠太郎などで無くて幸せなことだった。捜索が少し緩やかになったところで定康の宅に移り、平治元年の翌年の即ち永歴元年の春までそこに居て、それから青墓の延寿のところへ辿り着いて、その家に二月の初めまで忍んで居たので、父の妾の延寿やその母の大炊やその他の遊君共にも、主筋であるから大切にされ、妹の夜叉御前と云うのと朝夕を一緒に暮らして居たのである。話変わって頼朝の父の義朝の方は、頼朝に別れ朝長を斬って仕舞ったその夜のうちに、果たして宿の者共二百人余りが、朝敵の親玉を生け捕って手柄にしようと云うので押し寄せて来た。それを佐渡の大輔重成が義朝と名乗って身代わりとなって討ち死にした。その間に義朝は鎌田と金王丸と三人で落ち延び、平賀四郎と再挙の参会を約束して暇を遣り、大炊の弟の鷲栖の玄光と云う荒法師を道案内にして、柴を積んだ船の底に隠れながら杭瀬川を尾張の国へと落ちたが、船頭は無論玄光法師だった。そして首尾よく尾張へ落ちて、鎌田の妻の里方の長田庄司父子を頼ったが、人情の移り変わりは恐ろしいもので、長田忠致と景致の父子は相談の上、永歴元年正月三日、義朝を風呂へ入れて置いて、鎌田は座敷に、金王丸は浴衣を取りに出たその隙に、大力の橘七五郎と手利きの弥七兵衛と浜田三郎の三人に、素肌で無防備な義朝を襲わせたから、如何に鬼神も恐れる義朝でも、一旦運が尽き命が窮まれば、木の人形が火に遇い土の人形が水に遇ったようなものだ、「鎌田は居らぬか、金王は・・」と呼びながら殺されて仕舞った。浴衣を取って帰った金王丸はこの有り様を見て、獅子のように怒ったが追い付かない。敵の三人を斬り伏せたが取り返しがつかない。鎌田は打たれて仕舞った。金王と玄光とは荒れに荒れて斬り回ったが、相手は多勢で長田父子を討つことが出来ない、仕方ないので厩に走り入って馬を奪い取って、金王は義朝の三人の子がいる京都の常盤御前の方へ注進を兼ねて力になろうと思って走り、玄光はウヌ等に後ろは見せないとばかり、馬に逆さに乗って馳せ帰ったと云う事である。頼朝の十四の春である。定康の家でこれを聞いたか、大炊のもとでこれを聞いたか知らないが、人も有ろうに、平家の侍にでも討たれたのであればまだしもの事、敵の大将重盛よりも重く見て、兄の義平が乱戦の中で助けて遣った程の鎌田政清の舅小舅で、源氏の家来筋の長田父子に騙し討ちにされたと聞いた時は、頼朝の小さな胸にどんなに高波を湧き返らせたことだろう。頼朝は年こそ行かないが現に様々な経験を積んで辛い目も見ている。しかし人間がどうにも下劣で、酷薄で、さもしく、あさましく、油断ならない、憎く、厭な、蹴殺して遣りたいようなものであることを骨身に浸みて味わったのは、思うにこの時を最初とするであろう。一切の運動は相対的である。潮は引いただけ満ちて、満ちただけ引くのである。振り子は右に動いただけ左に動き、左に動いただけ右に動くのである。静かに横たわる百貫目の石は百貫目の力が加わることで動き出すのである。千貫の石、万貫の岩石、万々貫の大岩石は、千貫の力、万貫の力、万々貫の力が加わって之を動かす事で初めて動き出すのである。そして之が動き出すと百貫の石は茅萱や熊笹を何の造作もなく圧し潰したりヘシ折ったりする。千貫の石は篠竹や荊棘(いばら)を圧し潰す、万貫・万々貫の岩石は桧の小枝や椎の小枝や老樹大木をも、蜘蛛の糸が牛の角に触った程にも感じずに圧し潰したり折敷いたりするものである。人も動物もその通りで、可愛がられれば可愛がりたく、罵られれば罵りたく、打たれれば打ちたく、された事をしたくなる傾向があるものである。犬は家畜の中でも最も人に狎れ馴染むものであるが、安南国では人も犬を愛さない代わりに犬も人に狎れないで、ソッケ無い様子をしているそうだが、愛情無く育てられた者は自然と愛情に疎いのである。それと同じ理屈で、動物園の象やラクダが意地の悪い飼育員に取り扱われると意地が悪くなるように、悪い者の為に余りに酷い目に遇うと人もまた残忍過酷になりたがるのである。そしてその人物が五貫目や十貫目の石のような小さな人物であれば大した事も仕ないのであるが、千貫・万貫・万々貫の岩石のように大きな人物である時には、それが一旦動き出すとその進路に当たった者は無造作にヘシ折られ圧し潰されて仕舞うのである。大人物の大事をした後を見ると丁度大岩石が転がった跡を見るようで、可哀想に罪も無いのにヘシ潰されたりヒシ潰されたりしているものが沢山有る。一例を挙げれば前に挙げた頼朝の娘の大姫の婿となる約束で有った清水冠者義高などは、何の罪も無かったのであるが、ただ邪魔だったからヘシ折られたのである。大姫だって矢張りそうで、義高を恋い慕っているものを、能保の子の妻にしようした親の為に無残にもヒステリーとなって病死して仕舞った。即ちヘシ折られて仕舞ったのである。岩石が転がる道にある木や草が訳もなくヒシ潰されヘシ潰されて仕舞うように無残と云おうか不憫と云おうか、何時の歴史を見ても大きい人物の周りには、大した罪も無いのに無造作に訳もなくヘシ潰されて仕舞った人物が有る。我々が蚊や蠅を殺す時と、猟銃などで仕留めた半死の温血動物を殺す時では、正直のところ心中の状態が違う。蚊や蠅に対しては甚だ気の毒であり且つ不道理千万な言葉だが、実際私の中年以後の経験を白状すると、温血動物を殺す時には私の心は一種の痛みを感じるが、獲物を得たと云う一種の快感の為にその痛みを圧し伏せて、強いてその憐れむべき動物を絶命させるのである。これに反して蚊や蠅を殺す際には、別に快感が有るのでも何でも無く、殺さなくても済む場合にも、心に痛みを殆んど感じることなく簡単にこれをヒネリ潰すのは、どうも蚊や蠅が我等に比べて甚だ小さい為に、知らずしらずに之を卑視し蔑視してあるいは之を無視して、そして貴重には違いない彼らの生命を簡単に奪うのでは無いかと思うのである。言葉を換えれば、蚊や蠅は我等の心を痛ませるだけの物を持っていないから、即ち我等の心に感じさせるだけの力や美や質が無いから平気で之を殺して仕舞うのであると云う事になる。この理屈は考えて見ると余り立派な理屈では無いが、しかし確かに有り触れた事実であって、仏教の堅固な信者以外は、蚊や蠅などを殺しても罪でも何にも無いと思っている。蚊の命は蚊のものであり蠅の命は蠅のものであるに違いないが、蚊や蠅は詰らない虫だから無暗に殺しても差し支えないと云うのなら、鶉(ウズラ)や鶫(ツグミ)や雉や兎なども、之を殺しても何とも思わない人は之を殺しても宜(よ)い訳で、また野蛮人は人に似た猿を殺しても宜く、文明人は野蛮人を殺しても宜く、非常な英雄豪傑はその恐ろしい意力や智力から見れば蚊や蠅のように微小な詰らない人間などを殺しても罪にならないと云う事になる。そんな不道理な事が有る訳も無い。けれども世の中の実際を見ると、蛙が蚯蚓(ミミズ)を食う、蛇が蛙を食う、鱒や鱸や猛鳥が蛇を食う、人間が猩々を殺す、文明人を誇る人間が火薬や蒸気や電気を用いて未開人を攻め殺す、資本家と云う者がその富から云うとナルホド蚊や蠅にも等しい労働者を絞りクビにする、それらの事実が不思議でも何でも無く行われているように、歴史を見ると昔の豪傑と云う奴は、自分が馬鹿に大きくて他の者が之に比べて蚊や蠅のように小さいからかも知れないが、楽々と簡単に丁度我々が蚊や蠅でもヒネリ潰すように人を殺している。頼朝一人の為に何人殺されているか知れない。秀吉一人の為に何人殺されて居るか知れない。殺す方は可(よ)いかも知れないが、殺される者にとっては迷惑千万な事だ。悪い性質の変な奴が、何かの事情に動かされて狂犬的に暴れ出すと、鯵切り包丁や鰻割き包丁を振り廻して無理心中などを仕出かす。つまりそれは小さな石が動き出して小草を引き敷くようなものであるが、器量の大きな人物が動き出すと、相当に確りした者までが蚊や蠅が殺されるように簡単に殺されて仕舞う。つまり大岩石が動き出すと篠竹や老樹が訳なくヘシ折られて仕舞うようなものである。貫目が大きいから自然とそうなるのであるが、考えて見ると大人物などと云う者は、雉や山鳥にとっての猟銃を持った大紳士のようで、凡庸な者から云えば迷惑な者である。しかし、どんなに貫目の有る人物で有ろうとも、その人物が情け容赦もなく動き出すことが無ければ、それは大岩石が大空の下に偉観を示して、夏は旅行客に日影を与え冬は寒風飛雪を遮るようなことで、人の帰依信頼するところとなり、人の迷惑などになるものでは無い。また一旦動き出しても、自らその「立場」を定め、「踏まえ処」を定めて。少しもそこから動かなくなった人物は、頼りになっても迷惑になどなるものではない。宗教上や学問上での偉人や中年以後の信玄や家康公などは即ちその例であって、それが巨大で貫目が有るだけ、それだけ凡庸な者に取っては頼もしくもまた悦ばしいのである。しかし、大岩石のような大人物に容赦無く動かれては、実に草や蚊や蠅のように小さくて力の無い者に取っては迷惑千万な事である。しかしながら、その岩石が大きいことやその人物が大きいことは、望んでそうなったのでなくて、自然に大岩石大人物なのであって、そしてその巨大で貫目の有る事で酷いことを仕出かすのであるから、罪を着せて之を責めるとなると、その巨大で貫目の有るものを動き出させたものが有ったからと云う事になる。一切の運動は相対的なので満ちただけ引くのである。振り子は左へ動かされただけ右に動き、千貫・万貫・万々貫の岩石は千貫・万貫・万々貫の力が加えられた後に、千貫・万貫・万々貫の巨大な重い体が動くのである。であれば、頼朝が治承四年に挙兵して、その巨体を動かし始めてからは随分と、大岩石が草木をヘシ折って転がるように種々の人をも傷め、まさか我々が蚊や蠅をヒネリ潰すと云う程では有るまいが、易々と情け容赦なく敵も味方も殺して、平家一門は云うに及ばず、同じ源氏でも範頼・義経・行家・義憲、それから木曽義仲・義高、一條次郎忠頼・安田三郎義定、奥州の藤原泰衡・國衡等、旧御家人の大庭景親・海老名季貞・上総介広常等、名の有る者だけでも百四十余人を殺しているのだから、生まれると直ぐに安達新三郎に命じて由比ガ浜に抛り込ませた義経と静御前の間に出来た児のようなのまで勘定に入れたら、どれほど殺していることか、数えることも出来ない程なのである。勿論、蛭ヶ小島の一流人から起って、日本総追捕使になって六十余州を一手に握って政体を一変させた位であるから、その位の事は仕なくては済まなかったかも知れないが、そのような恐ろしいことを仕出したのも、本づくところはそう云う酷いことをするように頼朝を動かした力が有ったからだと云いたくなるのである。運動は実に相対的なものであるから、人も動物も振り子も同じようなものであって、左へ五寸動かされれば右へ五寸動き、人に可愛がられれば可愛くなり、罵られれば罵りたく、打たれれば打ちたく、人に残忍で過酷な目に遇わされれば残忍過酷な事を人にも加えたくなる傾向がある。そこで、頼朝がそのような恐ろしいことをした事に就いては、頼朝と云う大岩石を情け容赦もなく動き出させたものが有ったからだと云う話になると、長田庄司父子は疑い無く頼朝にある力を加えた随一の者であると云える。如何に父の義朝が朝敵になったと云っても、長田は何だ、源氏の家来では無いか、兄の義平が忙しい戦の中で救ってやった鎌田政清の妻の親や兄弟では無いか、であるのに、人は世に従う習いで、落人になった父の義朝を匿(かくま)うのは無益だとして、雨の日の椎の木のように頼みに思って近寄るのを、寄せ付けずにヨソヨソしく応対すると云うのならそれも仕方ないが、親切顔をして引き入れて置いて、謀(はか)りに謀って湯殿で刺し殺して手柄に仕ようとは、余りにも惨たらしい。十三四の頼朝に取って長田父子が与えたこの衝撃は、どれほど烈しく強いもので有ったことだろう。この時までの頼朝は父に他の兄弟を超えて可愛がられて居たのである。何一つ世の中からも人からも酷い目には遇わされては居なかったのである。保元の戦で一族の中に惨事が無かった訳では無いが、その時の頼朝は僅かに十才であったし、また頼朝の方が酷い目に遇ったのでは無かった。であるから、長田のこの心汚い振る舞いは、頼朝に取っては物心を覚えてから初めて受け取った大衝撃であって、これまで静かであった振り子が、この時ドンと突き動かされたのである。頼朝は、当時は年も稚いし力も弱かったから、長田に酷い衝撃を与えられても直ぐには動きだせなかったが、恐ろしい衝撃を受け取ったに違いない。イヤ、稚い汚れの無い心が受け取った色彩濃厚な筆力勁抜な書簡で有ったから、永くもまた永く、深くもまた深く、頼朝の心に染み付いた事であったろう。清盛と云えば義朝に取っては敵である。その清盛でさえ長田を憎み嫌ったのである。筑後守家貞は清盛の家来である。その家貞さえも長田を憎んで、「あの長田の忠致メ、あわれ彼奴(きゃつ)のニ十本の指を二十日で切り、首を鋸で引き切って、末代までの懲らしめにしたい。」と清盛にそう云ったほどである。まして義朝の子である稚い頼朝に取ってどれ程憎かった事であろう。家代々の家来の分際で主を零落の最中に騙し討ちにして、己(おのれ)の出世を求めると云う浅ましくも恐ろしい世の人情を、実地教育として受け取った頼朝が、どうしてこれを忘れることが出来よう。長田憎しは骨身に浸みて居たに違いないし、そしてまた「どのような者も油断できない」と云う事は、長田忠致の教訓として常に之を反復し体得して居たに違い無いのである。虚実は知らないが、頼朝は随分人を殺しているにも関わらず、「一條次郎忠頼・範頼・上総介広常、この三人を殺したのだけは頼朝の罪業だが、その他は何れも自業自得である。」と云ったと云う事であるが、忠頼・範頼・広常を殺したのも、モシや恐ろしいことをするのでは無いか‥と云うところから殺したので、実は忠致の教訓の薬が効き過ぎたのだと云ってもよいくらいなのである。家代々の家来の騙し討ちで最期を遂げた父や、愛妻の親兄弟に殺さて仕舞った鎌田を見て居ては、少しでも様子の疑わしい者を見ればコレはと用心するのも不思議では無い事で、酷い目に遇えば酷くもなり、浅ましい目に遇えば浅ましくもなり、羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹くようにもなるのである。それでも頼朝の天分が小さければ為したくても出来ないで終って仕舞うのだが、何しろ大岩石なのだから、道に有るものはヒシヒシと圧し潰されて仕舞ったのである。長田庄司父子が義朝を匿ったところを平家の侍が数百騎で押し寄せて、長田父子が防ぎに防ぎ矢種が尽きて討ち死にしたと云うのであれば、たとえ義朝が助からなかったとしても、頼朝の人を理解する眼は確かに違っていて、或いは範頼や広常を殺すこと無く済んだのではないかと思われるが、その代わり又どんな奴に謀られて浴室で殺されたかも知れない。針一本でも秤は動く、悪口一ツ云われても人間の顔は悪くなる。その道理を思うと大なり小なり他人の心に傷を付けて、その傷口から人間の美徳を流れ失わせて仕舞いたくはない。他人の頭を打ってその打撃の為に角のようなものを生じさせ、鬼のように成らせたくないものであるが、サテこの人間界は五道交会の地だから仕方ないが、とにかく長田父子は頼朝に対して恐ろしい力を加えた第一人者であった、振り子を衝き動かした第一人者であった、大岩石に動く力を加えた第一人者であった。試みに頼朝になって見れば解る事である。誰だって穏やかでは居られない心持になるであろう。長田に傷を付けられて、頼朝の胸から優しさがどれ程流れ去った事だろう、長田に強く打たれて頼朝の心には恐ろしい瘤が出来たのである、そしてその瘤は他人には正しく鬼の角のように恐ろしく見えるものになったのである。この長田父子の教訓を受けた頼朝は、天下を取った後に長田父子を、大地に大板を敷いて、左右の手足に竿を付けて大の字に釘付けにして、面の皮を剥いで四五日晒して嬲(なぶり)り殺しにする、比類稀な「土磔(つちはりつけ)」と云う峻刑に処したのは、余りにも酷い事では有るが、ソウ仕そうな事で、しかも長田父子が義朝を殺そうと思いながら三四日は饗応した報いに、「よく働け、働いたらならば恩賞を与えよう」と云って、義経・範頼の下に付けて、木曽征伐の時から一の谷の戦まで、汗みずくになって働かせて置いて、その挙句に、御褒美として美濃・尾張を賜ると云う御丁寧な駄洒落まで添え下さって、野三刑部成綱と云う者に搦(から)め捕らせて、そして土磔と云うので、長田父子一期の栄華は終って仕舞ったのが、丁度三十三年後の建久元年十月二十九日であった。粉骨を折らせて働かせた上に土磔などとは、流石に「氷は水より出て水より冷ややかなり」で、長田に仕込まれた頼朝公は、長田より一段上を行かれたものである。⑥に続く

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