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幸田露伴の小説「春の夜語り」

春の夜語り

 人というものが存在する限り、自然の大法則の中で恋というものが、無くなることはありません。恋と云うことを動物的に解釈しても解釈出来ますが、それが全部ではない。また心霊的にも恋を解釈できますが、それで全部ではない。自然は幾通りもの解釈を容れて余りあるもので、解釈は或る時代の或る地方のある性質の或る境遇を持った人がするので、結局は個人的な性質のものです。恋の解釈は全ての人間の個人的解釈を総合したものでなければなりませんが、しかし、自然は大きく個人は小さいので、恋と云うことについても個人の解釈は幾通りもあります。そこで心霊的な人は之を心霊的に解釈し、動物的な人は之を動物的に解釈する。ただ余り心霊的に解釈すると解釈は空疎となり、余り動物的に解釈すると解釈は野卑になって、何れも我々を正しくない不利益な境地に立たせるものと思われる。何れかといえば、解釈は両極端の中央、即ち右端でも無ければ左端でも無いのが本当のところと云いたいですが、それより寧ろ両極端をも包含する解釈が本当のところであると云いたいのです。
 我が国の婦人は自然に我が国の婦人という一般的特質によって、外国の婦人とは異なった思想や感情や知能や体躯を有して居ります。外国婦人は外国婦人でそれぞれの国の特質に従って、それぞれの心身を有しています。そこで恋愛の物語もそれぞれの国に随って、それぞれの趣が有るようです。我が国の古い歴史を調べると、その中に沢山の恋物語を発見しますが、神代はしばらく措いて、人の世となってからの恋物語で最も強く我々を刺激し、如何にも日本的であるように感じられるのは、雄略天皇時代の赤猪子(あかいこ)の恋物語です。
 赤猪子は大神(おおみわ)の朝臣(あそん)の支流の引田部(ひきたべの)の赤猪子と申しました。何分にも古い昔の話なので伝わって居りませんが、何れにしても引田の系統は後世まで伝わっていて、時々引田の姓を名乗る人が歴史上に見えるところから考えても、決して低い卑しい階級の人ではありませんでした。この赤猪子が若い頃、ある時美和川で衣(ころも)を洗って居りました。美和川は即ち初瀬川の流れで大和の国(奈良県)にあります。そこは赤猪子の家の近くであったことでしょう。引田は即ち三輪の引田でして美和も三輪も同じことなのです。どのような日であったでしょうか、思うに風和らぎ柳芽ぐむ春の日でもあったでしょうか。赤猪子は無心に、緩やかに流れる川水で衣を洗って居りました。支那(昔の中国)の西施の話を思い出しますが、若い女性が無心に、清らかな流れに臨んで衣を洗って居るのは、まことに女性らしくて、それ程でない女性でも好く見えるものです。そこへ一人の若い貴人が通りかかりました。
 古代は高貴な御方も甚だ簡略であられたので、偶然通りかかられて、今しも余念なく衣を洗っている赤猪子を御覧になる。清らかな水の流れに雪もあざむく白い腕ふくよかに、うららかな日の光を浴びて、洗濯に余念ない乙女の顔の色は花のように美しく、眉匂やかに、眼清く、如何にも端麗なのを御覧になって、貴人は引き付けられたようにその傍へ御近づきになって、「汝は誰が子ぞ」とお尋ねになった。この御方は如何にも直情径行のお方で、随分荒々しい御方であると人に思われる程の御方であったことは、お狩りの時に猪を蹴り殺されたり、井西氏を恐れて逃げた舎人(とねり)を切り捨てようとされたことなどでも明らかですが、その代わり極々淡泊であられた、その御心の奥は仁慈(なさけ)深くあられたことも、身辺近く仕える舎人の御諫めの歌を赦されて、「我は善言を得たり」と悦ばれた事などでも明らかです。このような性質の御方で、しかも当時は御年若ですから、今日から考えると有りそうにもない話ですが何の不思議もないことでした。赤猪子は傍近くに貴人が見えたのでさぞ驚いたことでしょう。振り仰いで見ると如何にも普通でない御端麗な御方なので、自然と胸も轟いたでしょうが、「私の名は引田部の赤猪子と申す」と申しました。さては大神の引田部の者かと、卑しくない氏素性を合点されたことでしょうか、そこで貴人はこの乙女を愛らしく思われた余りに「汝、嫁がずにあれ、やがて召してむ」と仰せられてお帰りになられた。驚いたのは赤猪子ですが、貴き御方と知ったので、何ともお答えすることもできないで顔を染めて差しうつむいたままであったことでしょう。思うにその時の赤猪子の年齢は召されるには早過ぎたのでありましょう。しかしこのような御言葉を賜った乙女の純白な心では何でそれを等閑(なおざり)に出来ましょう。赤猪子はそれからは明け暮れにつけ御方を思い奉って居りました。
 貴人の方は政務の事も忙しく、また多くの人が御傍近くに仕えており、取り紛れることも多いまま、御情が薄かったという訳では無かったでしょうが、時々は御思いになる時もあられたにしろ、そのうちに年月が経って、その事が遠ざかるにつれ、終に殆ど御忘れになってしまわれました。赤猪子にとっては何という悲しいことであったことでしょう。
 赤猪子は御言葉に対して、一旦黙々の間に御意に従おうとしたのでありますから、一年経ち二年経ち、花であれば咲くであろう年齢になってきましたが、他念無く、ただただ御召しのある日を待って居りました。しかし御召しの御沙汰はありませんでした。それからまた、一年経ち二年経ち、花であれば盛りであろう年齢になりました。しかし燕が美和川の水の面にひるがえる春が過ぎても、雁が三輪山の空に鳴き渡る秋が来ても、一年一年また一年、花はやや老いて、鶯の声はやや枯れて来ましたが、今日は今日はと御召しのあるのを待ち暮らして、終に空しく歳月は過ぎてしまいました。
 今日の人であれば、夫婦の間でさえ訴訟を起こして争うほどですから、何かと方策を講じて気持ちを表わすことでしょうが、赤猪子は只々心の奥底深く思うばかりで、何も申し出ることはありませんでした。
 赤猪子は胸中に御言葉を秘めて抱いて、他に嫁ぐということもせずに、一年又一年、十年又十年、心に全てを収めて、ついに処女の生涯を送り徹して、憐れ、美和川の春の日の御一言も幻に、八十年を待ち暮らして、今は九十余歳老婆になって終いました。貴人は御長寿にして健やかに御座(おわ)すけれども、我が身は既に朽ち果てようとしている。この心を表わすことなく土となるのは悲しい。とついに百取(ももとり)の机代(つくえしろ)の物を持って、「畏れ多かれども赤猪子と申すもの、これを我が貴人に献(たてまつ)らん」と申し出たのであろます。夥しい献上物をする者があるのに貴人も怪しんで「汝はどこの老女か、なにゆえ参り来たったのか」と面接を許されて理由を問われた。美和川の昔は照り輝くばかりの乙女も、今は痩せ衰えた老婆であれば、貴人も思い出されることもなく御座(おわ)した。そこで赤猪子は、八十年の長き歳月を胸の内に秘めていた一部始終を涙ながらに申し出たので、流石に勇健剛毅の御方も、愕然として大いに驚いて、感動されることひとかたでなく、憐れなことをしたと悔やまれて、「汝、志(みさお)を守り命令を待って、いたずらに盛りの年を過ごしたこと、いといと悲し」と哀しみ給いて、

  引田の若栗栖原に若くへに率寝(いね)てましもの老いにけるかも

 という御歌と、猶また一首の御歌を賜った。若栗栖原の御歌は、「汝も若く我も若くあれば睦み語ろうものを」との御心を表わされたものである。ここに赤猪子は、積年の鬱屈した思いも今日晴れて、悦びの涙止まらず、赤染の袖も濡れ徹ったということであります。貴人と赤猪子との贈答四種の歌は、この事実と共に古代史に明記してあるから、古代を考えて見たい人はこれを見るとよいでしょう。
 赤猪子の恋のようなことは、実に神聖な恋と云ってもよいと思われる。しかも、その八十年を持続して内面に秘めた恋慕の強い一念に対し、八十年を沈黙した外面の謙抑の態度は、如何にも古日本婦人的である。これに対して国異なれば恋も異なる古インド婦人の恋物語を対照させて見よう。
 
 古インドの婦人の恋物語が仏教の経典の中に見えるのは決して少ない数ではない。例えば仏弟子の阿難(あなん)に懸想した摩鄧伽(まとうが)の話や、また仏弟子の難陀(なんだ)を現世の栄華の中に長く留まらせようとした孫陀利(そんだり)や、非肉欲愛情の持主であった迦葉(かよう)の妻や、あらゆる人に愛された維摩(ゆいま)の娘など、それらの類の話は甚だ多い。中でも難陀の妻の話などは如何にも現世的で、今の人から言えばもっと千万な話なのである。
 孫陀利は夫を酷愛し難陀もまた妻を酷愛していたので、特に難陀は国の最上位の身分の者で、富貴この上なく何不足なく生活していたのである。しかし、難陀の心の底には、同族から仏陀を出した悦びと、仏陀となった釈迦の教えを少なからず信仰する気持ちがあった。そこへある時、仏陀の行のために布施を乞いに、併せて布施者に福の種子を播かせるために釈迦が訪問した。難陀はその時孫陀利の部屋にいて睦まじく語らっていたが、釈迦の訪問を受けたことを聞いて、慌てて宮門へ迎え出ようとした。孫陀利は釈迦の大勢力大威力大神力が、あるいは大切な吾が夫を感化して、現世の栄華を軽んじさせて無為の道に入らせるのではないかと恐れたので、難陀が釈迦に会いに出ることを好まなかった。しかし、これを止める理由もなかったので、何とも仕方なく心配の余り、今しも部屋を出ようとする夫を捉まえて、「貴方、間違っても釈迦の教えなどに従ってその信徒になるようなことをしないでください。私は貴方を深く愛しているのですから、決して私の気持ちを無にしないでください。」と云うと、難陀は「勿論だよ、其方(そなた)の愛はよく分かっている」と答えた。孫陀利は難陀の首に左の手をかけて引き寄せ、右の手で難陀の額に吾が香水を点じ、「それならば貴方、この香水が乾かぬうちにお戻りください」と申したのは、俗に云う虫の知らせとも云うものであろう。難陀は頷いて立ち出でて釈迦に布施を致しましたが、釈迦に接しその教化を受けるに及んで、孫陀利の事も何もかも忘れてしまって終にそのまま釈迦につき随って王宮を出てしまいました。孫陀利の失望と悲哀と怒りはどんなでありましたでしょう。そこで孫陀利は、自分の立場で出来ることは何でもやったに違いない。難陀は一旦は最愛の孫陀利を棄てて出家したものの、孫陀利のことを忘れることが出来ませんでした。道を求める修行は中々苦しい事でした。昨日の密のように甘い境涯を思い出さない訳にはいきませんでした。香水は既に額に乾ききって終ったが、孫陀利の指の温もりは新入道者(難陀)の柔らかい心の上に強い思いを遺したので、日増しに孫陀利の恋しさは募りに募りました。直情径行の難陀は堪えられなくなって、厳粛清浄な精舎の壁へ恋しい孫陀利の像(すがた)を描いたという話があります。
 現在の人に言わせれば孫陀利や難陀に無理はないようですが、それは人間世界を中心とした思想ではそうなるので、仏陀などの人間世界をそれほど尊いとしない思想から云えば、孫陀利や難陀は迷える者としか云われないのです。
 それはさて置き、今語ろうとするものは具足艶吉祥童女の事で、そのもとづくところは華厳経です。具足艶吉祥童女は大過去劫の人で、その時の王を財主王と云いました。この王の勢力は甚大でその時の世は、皆々幸福に暮らして居りました。財主王の妃は蓮華吉祥蔵と云う徳のある美しい人でしたが、この王と妃の間には威徳主という太子がありました。太子は実に端正稀なる人で、如何なる人も太子を拝すると幸福を感じるほどに美貌と徳相の兼ね備わった方でありましたが、ある時太子は父の王の教えを受けて、男女の臣下を従えて光明雲峰大香牙園という園へ遊覧に行かれました。装飾の美しい車に乗り、龍のような馬に牽かせて、清らかな広く平坦な道路をゆるやかに練り行かれたのでした。
 時に善現という寡婦の娘に具足艶吉祥童女というのが居りました。この童女は非常に美しくて、しかも声までも麗しく、知恵は聡明で、万般の技芸に通じ、弁才も長け、それでいて質直柔和で少欲多感でありました。この具足艶吉祥童女が母と共に人々と散歩をしておりましたところ、太子の一行が通行なさるので、道を譲ってその行列を拝観していました。太子は既に尊い位にあってしかも天賦の美質を有して居られたので、その立派なことは申しようもありません。具足艶はこの時太子を見ると、畏れ多い事でありますが恋愛の心を生じたのであります。さてそれからは恋慕の情已み難く、ついに母の善現にむかって具足艶は吾が胸中を打ち明け、「何卒、母上の御計らいによって彼(あ)の方に仕える身になりたいのです、もしこの願いが叶わなければ、私は生きて行けないように思います。」と申しました。母の善現はこれを聞き、「それは畏れ多いことを思ったものである。そのようなことを思ってはいけない。他の人ならばとにかく、国王の太子様を御見染めしてもどうなるものでは無い。御身分は高く、円満なお生まれで、やがては転輪王の位を継がれる筈、転輪王となられる時は七つの宝が出現すると言い伝えられている。その第五の宝は女宝であるが、太子が転輪王となられる時は、何処からとなく女宝が自然に現れ、飛行して空に上がり大威徳を有するという。それが太子の配偶となるべき人である。私やお前は種族が卑賎なので、とても太子の配偶などにはなれない。そういうことは決して思ってはいけない。」と国柄や家柄や世の様(さま)人の様について説いて聞かせました。
 母にこう言われましたが、具足艶は恋を棄てませんでした。その心は決心するところが有って、堅く太子のことを思って居りました。
 時に香牙園の側らに法雲光明という道場がありまして、勝日身という如来がその道場で悟りを得まして既に七日が経ちました。具足艶はうたた寝の夢にその如来を見ましたが、覚めた後にまた虚空の中に、「汝の夢見た如来は勝日身如来である、香牙園の側らの法雲光明道場で悟りを得て、始めて七日が経ち、諸菩薩天龍夜叉等や全ての主及び男女眷属等が、見仏聴法のために皆悉く来集している。汝も親近礼敬するがよい」という声を聞いた。そこで具足艶は母と共にその道場へ行ったところ、恋しいと思っていた威徳太子もまた見仏聴法の為に来会されていた。具足艶は母の説得も身分の相違も忘れて、恋の一念の誠と平等無差別の仏の功徳によって、その日頃の思い、太子を敬慕して已まない思いを、畏れることなく太子の前に申し出たのである。
 具足艶は太子にむかって、「人々は私を見て皆執着しますが、私はそれ等の人々に執着の心を感じたことはありません。常に清浄に一切の憎愛もなく、愚かな怒りや恨みからも離れて、ただ清浄に暮らしておりましたが、太子をお見掛け申してからは、お慕いする心を抑えることが出来ません。何卒私をお仕えさせて頂きたい」と申し出た。ところが太子は好色者でも無く、婦人問題は男子に取っての煩悩苦悶の種子になることが多いことを理解している人であったので、そこで、自分の婦人についての意見を詩でもって示された。その詩の大略はこうである。

 世間の人の多数は、女子を崇拝している。一切の苦悩や種々の疲労も、家庭の楽、妻の安慰によって忘れるのは、例えば毒暑において甘雨に逢うようなものであると思っている。世間というものは婦人によって出来ていると思っている。渡世の勤苦も平和な諸善も、婦人によって成り立つもののように思っている。しかし、吾が智者の説くところはこれと異なっている。世間の過失の大部分や悪業・煩悩の大部分は婦人によって成り立つ。智短くて迷い深いは婦人の性である、それは大地のように堅く変わらない。このような婦人によって五通の仙人も威徳を失う。婦人の心は実に知り難い。その欲は強く、その欲が満たされない時においては悪は止めどなく増す。火が薪を焚いて常に足ることなく、海が川の流れを飲んで満つること無いように、女人の欲心の深いこともまたこのようである。女人は欲の満たされない時は、必ずしもその夫にのみ心を懸けぬものである。野牛が自在に行って常に新しい草を食おう思っているようなものである。たとえ事足り満ちてもそれほどには夫の恩をも感じず、或いは夫と家族との間を離れさせ、親族擁睦の美を損なうものである。仏道を選んだ人がもし女人を思えば、常に智者の為に笑われその仏道は成らない、これゆえに智者は、寧ろ熱鉄を飲むことあっても女人の為に心を乱すことのないようにと思っている。女色に心を奪われては、貴族は乞食となり強国も亡国となる。大海の水の多少を測り知る者でも、女人の差別の意(こころ)を知り得る者は無い。女心の定まらないことは、疾風のように迅雷のように、喜怒が忽ち変わるゆえに智者は親近しない。有徳を敬わず、無徳をも軽んじず、貧を憎み富を楽しんで貪欲に従い、美言敬養すれば高慢を増し、資財欠乏すれば顧みること無く、小事巧みに是非すること多く、恩を思うこと少なくして恨みを懐くこと長く、まことに遇し難いは女人にて、その善を破り悪を成すは、例えば激しい流れが両岸を崩すように、女人の志向の低さは接近する者の善法を衰えさせる。このようなことで智者は女人を崇拝せずに、もしそれ女人に対する時には、ただ吾が慈悲心を以ってして、母のように姉のように妹のように思って接するのみである。

 このような詩を説いた後に、威徳太子は具足艶吉祥女に対して、「汝は誰の娘である。誰の擁護を受けている身である。」と反問し、それからまた、「汝は婦人の通有する諸種の過失から遠ざかることを真実願っているか、貧窮の人を見て真実慈心を起こすか、すべての善友を真実恭敬するか、父母師長を尊重するか、汝よく非法を遠離するか、汝悪道の衆生を見て広大な慈悲心を生じるか、汝無辺の劫海に諸々の善行を修めて心身の疲労倦怠を厭わざるか、」等の諸問を発せられた。
 具足艶の母の善現は、ここに於て具足艶の生い立ちから、平生善に赴き悪から遠ざかり、心競り躁ぐこと無く常に従順であることを言って、願わくはこの娘を太子に奉らんと申し出た。太子は母子の誠実であるのを認めて、「我は正に広大慈悲心を起こそうとして、我もし人に物を与えて惜しまない時、汝慳吝(けんりん)の心を起こすこと無いか、我もし我が身を施すに当って、我が頭を施し手足肢体を施しても、汝乞者を憎み嫌うこと無いか、我財を施し身を施す時は、汝の心は憂悶しよう、我もし道の為に汝を捨てて出家する時は、汝の心悔恨しよう」と問い詰めた。
 具足艶はこれを聞いて、我が君が広く愛し深く悟る修業の為に困難を能く行い、忍び難きを能く忍び給う、このような場合には、私も正に随順して精勤し、修習し親近して捨てず、影が形に従うように我が君の願うところが皆叶うように、私は主と共に修業しますと答えた。そこで太子は五百の摩尼宝華を童女の上に散じ、冠せるに吉祥蔵尼宝髻を以ってし、着するに褥色火焔摩尼宝華を以ってした。時に童女は端心正念にしてかつ搖動すること無く、また浮いた喜相も無く、ただ一心に合掌して太子を仰ぎ見て、正念にして目暫くも捨てずにいた。勝日身如来は太子の根本が既に成熟したのを知り、太子の為に普眼灯門修多羅を説き、太子をして大悟するところあらしめた。太子の父の王も大いに悦び、太子に位を譲り、出家学道し、太子は七つの宝の自然に至ることを得て、転輪王となったのです、
 七つの宝というのは、兵宝、蔵宝、女宝等の七つであるが、兵宝と云うのは軍事の最上知識最上威力をいうので、蔵宝というのは経済の最上知識最上自在をいうのであって、具足艶吉祥童女は無論のこと女宝であったのです。このようにして人民は愈々幸福に、威徳主と具足艶はめでたく栄えたというのです。
 この話の背景には、釈迦とその妻であった瞿波とその母の善目夫人があることを思うべきです。瞿波と釈迦との間には威徳王と具足艶との間のような事情が真実存在したかどうか知らないが、この具足艶の物語は如何にも階級制度の強い、そしてその反面に平等思想の燃えていたインドの話であることを表わし、かつまた、世間の欲楽を崇拝することの強い、その反面に解脱思想の燃えていたインドの話であることを表わしていると云っても差し支えないと思われます。赤猪子の話に比べて、国が異なれば恋の物語も異なると観て、双方を比べて見るとそこに一種の面白味を感じずにはいられません。
(大正五年五月)

注釈

・舎人:警備や雑用などに従事していた役人
・百取りの机代の物:百に及ぶ机上の結納の品
・若栗栖原:クリの若木が多く生えている原

・仏陀:仏道の悟りの境地に達した者
・釈迦:実在した仏陀、俗名は瞿曇
・阿難:釈迦の弟子
・難陀:釈迦の弟子
・迦葉:釈迦の弟子
・維摩:釈迦の在家の弟子
・大過去劫:遥かな大昔
・摩尼宝華:霊験あらたかな華

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