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孤独の鏡に映る芸術: 変わりゆく共存の輪郭

 孤独という感覚は好きな人もいれば死ぬほどきらいな人もいて、ここ近年の世界のありようからすると孤独を感じている人の方が多いように思うし、国家の政策、地方自治体の政策でも孤独を促す方向性に行っている。ことが事だから致し方のない面もあるが、孤独が死ぬほどイヤな人からするととても辛い期間だろう。孤独が好きというか、程度にもよるかと思うんですが、「死ぬほど」ではない人からしてもまったくの孤独を感じ続けるのには厳しいものがある。

 人間は他者と共存し、他者がいるからこそ自立したり支え合ったりしながら生きていく。その中で地位を確立したり、貢献したりすることで自分にも他社にも存在を示そうとする。そういった欲求があるから仕事もするし、他者とコミュニケーションをとろうとするのだろう。そう考えると、孤独の中にもコミュニケーションは存在して、その形ややりようが変化しつつあるときなのかなとも思う。

 オリンピックのような、この状況下で特別視されたものは別として大きな集団で集まることは慎まなくてはいけない状況です。これまで集まることができた集団も散り散りになっていて、だからこそなのかもしれませんが、ブツブツ言っていたわりにはオリンピックを観た人は多かったのでないかと思います。

 集団で同じものを共有し、共存していることを感じることが乏しくなるから、せめてオリンピックでも観て共有したい。同調を強制するものでもなく、孤独という感覚に飽きてしまって、孤独から逃れたい、共存共生したいという願望から現れ出たもののように思います。

 四柱推命の星の中に華蓋という星があります。この星は孤独と芸術を現す星です。この星はとてもおもしろいものだなと思っていて、芸術がどうして孤独なのか?です。芸術は誰にも理解されないからこそ芸術。理解者が少ない。誰にもわかってもらえない。だからこその芸術。孤独というものとは常に一体化していて、芸術であるがゆえの孤独。一般化され、大量生産されないがゆえの芸術です。ついつい孤独に負けてしまい、共存とか共生とかに甘んじてしまう。それを拒んで孤独でいるからこそアートは賛辞されるのかもしれないな。とりとめのない内容になってしまいましたが、共感を強要するものが芸術なはずがないし、こういった孤独と共にいる現在だからこそ多くの芸術が生まれてくるんじゃないのかな?とも思っている。


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