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打撲の正体

ぼくは学生の頃サッカーをしていました。小学生から大学、専門学校に至るまでずーっとサッカーをしていました。

途中、学校のサッカー部やクラブチームのコーチをしたこともありましたが、鳥取県に移り住んでからもしばらくの間はサッカーチームに入り、サッカーをしていました。そのチームの都合というか、そのチームがなくなってしまったので実際にサッカーから離れてからはずいぶんと経ちました。

サッカーというのは割りとボディコンタクトもあって、転倒したりっていうこともしばしばです。

捻挫もすることがありますし、打撲なんかはしょっちゅうです。

実際に相手のシュートに自分の身体を投げ出してゴールを守ったり、空中にあるボールに跳びかかっていって相手とぶつかったりなんてこともあります。

そんなかっこいい場面ばかりでもなく、普通に足を踏んだり踏まれたり、つんのめって転んだりもあります。

さて、この初夏や梅雨という季節になりますと、こういった過去の打撲が表に現れてきます。

この季節になるとひざが痛いだの腰が痛いだの言いだす。これは過去の打撲が再燃するからである。

そうはいっても本人としたら痛くもないものだから、そういった打撲があったことすら忘れてしまっている。だいたいこの季節になると同じようなことを言うのだが、季節が過ぎると痛くなくなるので、勝手に治ったと思い、痛くないのものだから忘れてしまう。

そしてこの季節が巡ってくると、痛い痛いと言い出すのだ。

とくにこの過去の打撲は関節に出てくることが多い。この季節になると、膝が痛い、といっている人は関節炎がどうとか言うのもあるかもしれないが、ただ単にむかし自転車で転んだだけかもしれないし、部活のバレーボールでレシーブをしようとして膝を床に打ち付けた名残かもしれないのだ。

そういって病院に行き、レントゲンを撮ってみるのだが、大きな異常は見当たらない。この先生はわたしの膝がこんなにも痛いのに、何にもないと言う、ひどい医者だ、と。

医者からしたらたまったもんではない。ただ本人が忘れているだけのことなのに。

実際にこうやって過去の打撲が再燃した場合、多少の腫れと熱感は伴うようだ、しかしそれも一概には言い切れないのだが。

整体ではこういった打撲の箇所をどのように処理するかというと、打撲した部位をたたくことだ。

打撲したのにたたくのだ。シクシクと痛い部分をたたく。

だいたいこういった過去の打撲の場合、なんとなくこの辺り全体が痛い、っていう感覚になる。その、なんとなくこの辺り全体をたたく。

そうすると徐々にほんとうに痛いところがわかってくる。
そこまでいってようやく過去の遺産と再会である。

はて、この痛みはどこでもらったのか?わからないまま今日まで持ってきたことになる。

この打撲というものはおもしろいもので、身体の打撲もそうだけど心の打撲も同様に現れる。

人間というものは身体にも心にも打撲を負っている。

その大切に隠し持っていた過去の打撲が初夏梅雨の季節に現れてくるのだ。

そう考えると人間というものはつくづく欲が強いものだ。打撲の跡なんかさっさと捨て去ればいいのに、そんなものさえ大切にしようとするから断捨離に代表されるような片付け術が流行るんだろうな。

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