見出し画像

山は山らしくあること

山は山らしくあること。
水は水らしくあること。

これが最近特に印象に残っていることです。
私たちは自分らしく生きていたいと思っています。私たちそれぞれが自分のやりたいことや夢をかなえ、社会に貢献できる、毎日を楽しく暮らしていくことができる、幸せになるために毎日を削っています。

たとえほかの誰かから羨ましがられるような才能があっても、私なんかはそのような才能があればそれだけで十分だとは思いますが、ご本人のよしとするところではないとすると、その才能は適わない。こういったケースは多々あるようです。
隣の芝生は青く見えるという言葉が存在するのも、頷けます。

AIに聞いてみたら隣の芝生は青く見えるの類義語は、

比較にならない、遠目に見れば素晴らしく見える、気持ちが高ぶる、憧れる、欲しい物ほど輝いて見える、あこがれの的

そう考えますと、いつもいつも私たちは同じことを繰り返しています。
隣の芝生は青く見えるのは、今に始まったことではありませんし、誰かを羨むのも昨日今日の話ではありません。隣の芝生は青く見えるという言葉はおそらく相当昔からあるのだろうと、AIに聞いてみましたところ、

起源は古代ギリシャに遡るとされています。当時、ギリシャの詩人エウリピデスの作品の中で「他人の持ち物を羨む」という意味で使われていたことが確認されています。
その後、この言葉は中世ヨーロッパでも知られるようになり、1546年には英国の文豪トマス・ヘイウッドによって「The Proverbs of John Heywood」という著作の中で記録されています。
日本語への翻訳も古く、1689年に出版された井原西鶴の『好色一代男』にも「隣人の錦に嫌がる人」という表現が見られます。

私たちは古代ギリシア時代から何も変わっていませんでした。
文明は発展したけど、誰かを羨んだり蔑んだりすることは変わっていない。
いくら高潔になろうとしても変わることはないのだと思いました。いつの時代もいつまでも同じことをしています。現代でも古代でもです。

そう考えると、自分らしさを探すための目論見ってほぼ確定的に適わない。
自分らしさというものから少し離れた方がいいのかもしれません。

山は山らしくあること。
水は水らしくあること。

山が山らしいのか、水が水らしいのか、山と水がどのように思っているのかはわかりませんが、山はどしっとしていて、ちょこまかと動き回るものではありませんし、その雄大さゆえにシンボルともなり得ます。水は高きから低きへと流れ、その形には囚われがありません。四角い容器に入れば四角くなり、丸い池に流れ込めば丸くなります。止まるも動くも自在です。捉えどころがないといったら、そうなのでしょう。

山は平地にはありませんし、あまり波打ち際にもないような気がします。水は海とか低地にあり、バシャバシャと動いています。地理的に観ても内陸部には山があり、海岸線には水があります。

風水にも山と水があり、それに応じた場所に設置するのがよいとされています。私たち人間はどこに置いたらよいのでしょうか。どこに置いたら私たち人間は自分らしさを発揮することができるのでしょうか。古代ギリシア時代からの課題のようです。


読んでくださってありがとうございます。とてもうれしいです。