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時代劇『せかいのおきく』阪本順治~糞まみれでも美しい「せかい」~

画像(C)2023 FANTASIA 

糞まみれの映画である。糞に始まって糞に終わる。江戸時代の循環型社会。食って、出して、それで畑を耕し、作物を作り、それを食ってまた出す。その繰り返し、循環。金持ちも貧乏長屋の庶民も出すものは同じ糞は糞。「長屋の貧乏人と違っていいもん食っているんだから、もっと高く買い取れ」とお屋敷で言いがかりをつけられるが、糞であることに変わりはない。糞に身分の差なんてない。死の世界とか闇とか糞尿とか汚らわしいものが、まだ世界の中で目に見えるものとしてあった時代。清潔な現代では、汚らわしいもの、忌まわしいもの、闇の部分はすべて見えなくなっている。隠されてしまっている。だから、人間は自分が清潔で、清廉潔白であると勘違いするようになってしまった。その暗部がまだ身近にあるのが、死と糞尿なのかもしれない。

映画は全編、糞の臭いで覆われている。白黒の美しい映像でなければ、とても見られたものではない。糞の形状や糞を柄杓で掬う音が表現されるたびに、臭いが漂ってきそうである。白黒映像でなければ映画として成立しなかっただろう。章立てで物語が展開されるが、章の最後のカットだけカラー映像になるのが、またドキッとする。

2023年の日本映画ベストテンで、キネマ旬報ベストワンなど数々の賞を獲得し評価された作品。「100年後の地球に残したい「良い日」を「映画」で伝える『YOIHI PROJECT』が製作した第1弾劇場映画」と説明されているので、SDGsが叫ばれる今の時代じゃないと成立しなかったかもしれない。 『YOIHI PROJECT』 とは、美術監督・原田満生氏が発起人となり、気鋭の日本映画製作チームと世界の自然科学研究者が連携して、地球環境を守るための課題を「映画」というものづくりを通して次世代に伝えるものということらしい。

雨が降りしきる中、厠の前で雨宿りをする3人。紙屑拾いの中次(寛一郎)と、下肥買いの矢亮(池松壮亮)、そして寺子屋で子供たちに読み書きを教えているおきく(黒木華)。しばらくして我慢できなくなった黒木華が、男たちに「どこかへ行って」と言いつつ厠に入っていく。どんな美女も糞をする。そんな当たり前のことが微笑ましく描かれている。

「汚わい屋」と呼ばれる職業があった。家々の糞を集めて買い取り、農家に肥料として売りに行く仕事だ。寛一郎と池松壮亮は、糞まみれになって桶で必死で糞を運んでいく。舟に糞を積み川を下り、荷車で糞を運ぶ。大雨が降って貧乏長屋の厠の糞があふれ、あたり一面が糞だらけになって、住民たちが臭いで顔をしかめ大騒ぎになる場面がある。そんなときも貧乏長屋の住民たちは、おおらかでどこか楽しげだ。つまらない駄洒落をいつも言いつつ、「今は笑うとこだぜ」と寛一朗に言う池松壮亮。バディものと言える二人のコンビもいい。

黒木華の父役に佐藤浩市(寛一郎と親子共演)。江戸時代末期、明治維新へと激動の時代へと向かう中で、落ちぶれた武士は争いに巻き込まれて死んでいき、娘の黒木華も喉を切られて喋れなくなる。後半は無声映画のような趣きだ。習字を子供たちに寺子屋で教える黒木華は、「忠義」という字を好きな男(寛一郎)の名前「ちゅうじ」と書いてしまって、自分で照れるシーンが可愛らしい。雪がしんしんと降る中、中次(寛一郎)の住む長屋に勇気を振り絞ってやってきたおきく(黒木華)。桶に雪が積もっていくことで時間経過を示しながら、不器用な二人がお互いの愛を確かめていくシーンも、無声映画のように美しい愛の場面になっている。

 果てがない「せかい」。鎖国の閉ざされた世界から「果てのない広がり」を感じるようになった時代。坊さんが「せかい」を説明する言葉、「あっちの方に向かって行けば、必ずこっちの方から戻って来る」という丸い地球の「せかい」の循環。ぐるぐる回る循環。その果てしない「せかい」で、愛する唯一無二の存在を見出す奇跡。地べたを這いずり回っている最下層の者たちのささやかで美しい奇跡が、この映画では描かれている。雨や雪、空、木々や川、白黒映像の自然の美しさも見逃せない。毎朝、空中のあちこちに向かって柏手を打つ佐藤浩市、そしてその動作を繰り返す娘の黒木華。「果てのないせかい」のささやかな幸福を願っている庶民の日常がそこにある。黒木華は時代劇の着物がよく似合う。

2023年製作/89分/G/日本
配給:東京テアトル、U-NEXT、リトルモア

監督・脚本:阪本順治
製作:近藤純代
企画・プロデューサー:原田満生
撮影:笠松則通
照明:杉本崇
録音:志満順一
美術:原田満生
編集:早野亮
音楽:安川午朗
キャスト:黒木華、寛一郎、池松壮亮、眞木蔵人、佐藤浩市、石橋蓮司

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