見出し画像

たーちゃんとアメリカと夢 11 いっぱい聞けて、いっぱい喋れるの巻

1993年、たーちゃんは外国に行きたい一心で、せっかく就職できた会社を辞めて、その後幸運にも採用していただいた英会話学校で働き始めました。その英会話学校の名前は

HOEインターナショナル

アメリカに来て、
「私、HOEインターナショナル で働いてたんだ〜。」
と言うと、
「え?」
とびっくりされ、
「Are you serious?」(マジで?)
と言って笑われます。

HOE は、普通にエイチ・オー•イーと読むのですが、アメリカではホーと読まれて、鍬という意味もありますが、殆どの人がHOE という単語を見て連想するのは、whoreが変化した、「あばずれ」なのだそうです。つまり、
「たーちゃん、あばずれインターナショナルで働いてたんだ。」
そう言われたらそりゃ色んな妄想してしまうよね。

ちなみにたーちゃんは、「ディックファイナンス」という金融会社のコールセンターのお仕事もした事がありまして、その後、黒い過去を持つ女という噂が流れました。もちろんジョークです。

話を元に戻しましょう。
HOE インターナショナルは
Hiranomachi
Office
English
の頭文字を取って付けられたそうです。その学校の外見は「たーちゃんとアメリカと夢 10 ある意味で奇跡の巻」で少し話ました。おそらく英会話学校を目指して、たどり着いた時、
「これが英会話学校…」
と言ってしまいそうな、とっても昭和な雰囲気の漂う佇まいです。

学校は今はお亡くなりになられた、山本正昭校長先生と、常任のビル先生と、和子さんの3人で営まれており、そこにパートタイムの講師の方が7〜8名代わる代わる来られていました。私は、ご結婚される和子さんの代わりに採用されました。実質3人なので、たーちゃんの仕事は、学校に着いたらお掃除して、生徒さんと講師のスケジュール管理、銀行に行ったり、必要であれば講師のビザの申請に付いて行ったり、個人レッスンのお茶を出したり、買い出しに行ったり、”教える“ 以外のことはたーちゃんの仕事でした。

駅前留学と言う言葉がテレビから何度も聴こえてくる程、英会話学校が流行っていた当時、この小さなHOEインターナショナルは何とも素敵な人達の集まる、不思議な空間でした。

山本先生は、英語落語を世界に広める事に長い間情熱を注がれていました。その夢に桂枝雀さんが賛同されて、お二人で古典落語を英語に訳して演じられたり、オリジナル英語落語のスクリプトを制作されたり、それを数々の英語圏の国で公演されて来たそうです。

私が働いていた頃には、山本先生と枝雀さんに影響を受けた、ビル先生も落語を勉強されていて、素敵なハンサムなアメリカ人の先生が枝雀さんと落語をする事が注目されて、しょっ中テレビや新聞の取材が来ていました。

1995年に大阪で行われたAPECのパーティーで英語落語を披露した際、講師や生徒さん総出の大イベントとなりました。

HOEで働く講師の方々もとても個性的な方が多くて、イベント会社を経営されてて、枝雀さんの英語を助けていたDavid先生や、ドラマーのDonald先生はアメリカで数多くの有名アーティストのバンドで演奏されていたらしいです。スコットランド人のバグパイプを抱えた人を採用して、暫く経ったある日、
「お休みの日に、道頓堀橋でバグパイプ演奏したら、投げ銭を数万円稼ぐ事ができるので、講師の仕事は辞めます。」
って事もありました。
「今日空港に着いて電車に乗って来ました。泊まる所も何も決めずに来たんだけど助けてくれない?」
と言う電話をかけて来たAmy。自転車で探しに行ったけれど、地名も日本語も知らない外国人と電話で所在を確認して、そこに居てもらう事の難しさ。今考えても、エイミーの行動力と度胸はびっくりです。彼女はHOEで人気の先生になり、たーちゃんの仲の良い友達になりました。

色々な外国人講師の方々と一緒に働き、海外の事も英語も少しずつ慣れて来て、外国で働くとこんな感じかな、とか想像しながら本当に楽しく働かせていただきました。
サンドイッチやハンバーガーを食べながら出勤してくる人にもビックリしなくなりました。真冬に半袖も普通です。ちょっとだけ風邪気味でも、しっかり休むし。トイレ行ってくると言って、その古いビルの和式トイレを見て、トイレがないんですけどと言いに戻って来るのは100%。

留学前の準備期間にそんな環境で働けたお陰で、海外に行く不安が少し少なくなった気がします。英語もろくに話せず、事務仕事もした事がないたーちゃんに、そんなチャンスを与えて下さった故山本正昭先生に感謝です。

山本先生と桂枝雀さんのご冥福を心よりお祈りしてます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?