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#2 紺碧のトライアド

#2

「フォルテはこのように弾く」

 べヒシュタインのグランドピアノがレッスンルームに鳴り響いた。週に一度、中田先生のレッスンを受けることになっている。

「力強く鍵盤を押せばよいというものじゃない。ピアノはどうやって音を出しているか知っているかい?」

 当たり前のことを聞かれた。小学生だって分かる。

「ハンマーが弦を叩くからです」

「そう。叩くから音が出る。このように――」と、左手の甲を右手で叩いてみせた。

「このときにハンマーを弦に押し付けたら音は響かない。決して押し付けない。ハンマーのリバウンドを最大限にするんだ」

 中田先生は本学の准教授であり、クラシックのリサイタルも開くプロでもあった。大げさではなく、彼のフォルテは私の三倍の音量だった。

 課題曲として私はベートーヴェンの悲壮ソナタを選んだ。有名な2楽章に続く3楽章の表現について中田先生は語った。彼の言っていることは分かる。けれど、私のピアノを大勢の前で――それもきちんとクラシックが分かる人たちの前で、演奏できる機会などやってはこない。せいぜい学校の合唱の伴奏か、始業式終業式の校歌くらいだろう。誰もピアノには耳を傾けない。

 再度の演奏を終えたとき、彼は小さくため息をつき、厳しい表情を見せる。

「君はこの曲をどう弾きたいの?」

 思わず黙り込んでしまう。

「何も発言しないのが一番良くない。君は人を教育する立場になる人間なんだろう?」

 小さく頷く。

「音楽教育は――すべての教育も同じだけど、相互コミュニケーションによって成り立つものではないのか?受け身では何も進まないよ」

 答えに窮する私を見て、呆れたという風に肩をすぼめられた。

「目指している音楽が見えない。僕は何を教えればいい?」

 それは私が聞きたい――プロになれない私にはどうだっていいことだ。

***

 レッスンルームから出て、防音用の重い扉を締まったことを見届けてから、ふぅとため息をついた。踵を返すと、別の部屋から出てきた女性と目があった。たしか彼女は音楽専科の学生だった。

 「あら、レッスンの終わり?」

 声をかけられた。

 「ええ、中田先生の――」

 戻る方向が一緒のため、自然と同行することになる。

 同じように音楽を学ぶ学科でも、学校教育科と音楽専科は半分以上カリュキュラムが異なる。そのため、その2つのグループはあまり接点がない。事実、彼女とは話したことはなかった。

 共通の話題がない――気まずい帰り道だ。しかし、ここで距離を空けるのも不自然だ。

「こっちは佐藤先生のレッスン。こういってはなんだけど、あの人はもう――落ち目でしょう」

 曖昧にうなずいた。

「あーあ。何で中田先生は、学校教育のほうを受け持っているのかしら?」

 それは私も疑問である。中田先生のレッスンを希望する音楽専科の学生は多いらしい。ただ、彼女の言葉には、それだけではない意味が込められているように感じた。

 その予感はあたった。彼女の言葉には続きがあった。

「まったく羨ましい――というか贅沢よね」

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