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JOLにさよなら 

作 人間六度(2016年頃書いたもの)
絵 あじたま


 ハッピーハロウィン! と誰も彼もが路上で魔女やゴーストなどの格好をしながら喚き散らしているというわけでもないけれど、その日はそれなりに世間が沸き立つものだ。それがどの国から持ってこられた風習であろうと、お菓子を売る会社はこれを都合よく加工し、また服を売る会社はこれを合理的に縫合し、そしてマスメディアがこれらの努力を意図せずとも集約する。
 企業が世間に対して消費を促す。でも世間もまんざらではないらしく、とにかく冷たいビールがテーブルの上を飛び交っている時代は、まだまだ未来があるのだと今はそう思うのだ。
 
 
 彼女が、まだ新房鈴菜という名前だった頃、そこは今よりも少し静かで寂しい時代だったかもしれない。でも東京五輪、日本人初のノーベル経済学賞受賞、そして広島の平和大会などと、ここ最近この国の人々は少し『前を向いた』。前には常に光があるので、前を向いたら向いたで眩しすぎるとの文句を言っている人も多いのは事実なのだけど。
 彼女の場合はどうだっただろう。彼女が回顧する時、その水平線上には必ず夕日が浮かぶ。言いえて妙なのは、まさに彼女の目に映ったものが沈みゆく陽の光のようなぼんやりとしたランタンの光であったので、例えとしてはまあ少し都合が良すぎると言っていい。
 でも彼女はいつもこの季節になるとその出来事を思い出す。彼女がそうしようとしなくとも、街を歩けば絶対にカボチャのあいつがこっちを見ているので、思い出すのだ。
 ギザギザの口から、ぼんやりした光を漏らしながら。
「我々は緑黄色同盟。この三色旗は我々が背負うレギュムである」
「は?」
 そんなやり取りが夢だったと言い張ることを、彼女に対座する男性は決して許さないだろう。
 今日は二人の子供を家に置いて、二人きりでこの店を訪れた。男は、彼女の指にはまったリングと同じものを、ネックレスにして首から提げていた。男は彼女にある話をせがんだ。まだ二人が若かった頃の昔話だ。彼女の気も知らずにまるで夜泣きする子供のようにせがんだ。
「あの後ジェー・オー・エルはどうしたんだろうね」
 男は丁寧に切り分けられた鴨のコンフィを口に運んだついでにそう言った。ピュレされたポテトに飲み込まれメーンを引き立てるガルニチュールたち。その中でも一層目立たないローストパンプキンという「脇役の脇役」にあえて視線を落としながら。
「祖国へ、戻ったんじゃないかしら。ええと、どこだったかしら、ああ、そうね。アトランティック・ジャイアント皇国」
「だといいね。いや僕は信じてる。あの光は戻れたってことだと思う」
 親しげに、そして意味ありげに、男はさも自分がジェー・オー・エルの良き理解者であったかのように話すが、彼女にしてみればそれは割と心外なことであり、同時にやきもちのような感情さえ生んでしまう厄介な受け答えともなる。でもそのことを露骨に態度に表すと今度は男の方が拗(す)ねてしまうので、そこは調整が必要だった。
「結局ジェー・オー・エルって、何だったのかしらね」
「え! ジャック・オー・ランタンのことじゃないの!?」
 彼女はため息をついた。そしてまた、この誰が見ても不可解に思うであろう彼とのやり取りについて、いい加減そろそろ決着というかケリをつけたいとも思った。
 もう十一年にもなるのだから。
 そういうわけで彼女はせがまれていた過去の話をまた今年もすることになった。
 彼女がまだ新房鈴菜という名前だった頃。この国が今よりも少し、曇っていた時代。
 彼女が幽霊に恋をした日、それは暗い病棟の暗い廊下に、希望のランタンが灯った日である。
 
 
 部屋にある痩せたマンゴーのようなスイッチを押し込むと、一九九〇年代に使われていた携帯電話に似た機械がなり喚き、彼ら、あるいは彼女らに「行進」を命じる。戦地に着いて「何事かにケリをつける」と、再び命令が降(くだ)るまでたいして気の休まることのない休息時間を過ごす・・・それが新房鈴菜が看護師という仕事に就いてから2年という時を経て結着した、彼女なりの職場哲学だった。
 合理的で理性的な彼女は、その優秀さを高く評価されていた。しかし評価されることと認められるということは、時としてまた別のことであったな、と老成した彼女は昨今ではそう考えている。
 とにかく新房鈴菜は、彼女が対応する人間の大部分から大絶賛されること請け合い、というわけではないにせよ、少なくとも明確な批判はされない、そんな人生を送っていた。
 それゆえに彼女は、この幽霊のような男が、少し、嫌い、いやそれは医療人として抱いてはいけない感情であるので、この表現はまずいな、つまり多少のイライラを、いや、これもまずい、要するに、苦手だった。
「血圧だけ測らせてもらっていいですか」
 看護師は血圧だけと言って、そのじつ体温や心拍に至る患者の体情報を根こそぎ収集していく。だけ、と頭につけるのは患者に余分な不安を持たせないためだ。そんなことは誰でもわかっているはずなのだが、やはり今日もこの男はニコッと笑うだけで、血圧計を巻くための片腕さえ差し出すことをしない。
 その時の記憶では、彼はとても健康そうな顔をしていて、この病棟で治療すべき体内のある部分以外は、やはり至って健康なはずであるのに、彼の振る舞いはまさに満身創痍の癌患者のようだ。また、いかに健康体であろうと、ベッド上での生活は多分に筋力を落とすため、彼のカルテにもリハビリのメニューが書かれていたが、一度だって彼が部屋の外に出て歩いている姿を見たことはない。
 彼以外にも多くの患者と日々接している彼女にとって、その笑顔とその態度は、まさに噛み合わない歯車そのものだった。彼の恐るべき積極性の無さは、患者の治癒が仕事の本分であると考え邁進する彼女にとっては、まったく、こいつは、どう関与していいのかわからない天災のようなものに思えた。
 そういう意味では、幽霊より、困る。
「そういえばもうすぐハロウィンですね」
 驚いたことに彼はその日、滅多に開かぬ口を開いた。しかも、さほど重要でもない事柄について。
「僕はこういう行事で楽しい思いをした経験がなくって」
 彼はそのように続けた。
 新房はこの一連の発言を無視する理由は無かったが、しかしこの男から話しかけられるという予期せぬ事態に、何故この話題を選んだのかということについて、いつものような深い思慮も巡らすこともできず、彼女は、そうですねえと当たり障りのない相槌を打つことで、この厄介な事態から一刻も早く脱出することを試みた。
 すると男は、その日はもうそれ以上一言も喋ることはなかった。もちろん自ら進んで体温計を脇に挟むなどということもない。しかしそのいつも通りと言える経過に安堵すら抱いてしまったことは、反省に値する愚行だったと今では思う。
 13号室をあとにした新房の聴覚は、彼の発言によるせいか、異様なまでにハロウィンについての情報を捉えるようになった。
 ナースステーションのガラスにはコウモリやゴーストの切り絵が貼られ、掲示板にはハロウィンにこじ付けた有料のクラフトアートセミナーの案内が、そして病院に備え付けられた売店では無理にでもカボチャ味にした食品が売られている。濃厚汁なし坦々麺胡麻味噌・パンプキンなどは気でも狂っているとしか思えない。
 そして、極め付けがこれだ。
「この病棟では毎年幽霊が出るそうだ。消灯後の通路にぼうっと現れるんだ」
 毎年のように耳にしているはずのに全く記憶に残っていなかったこのような会話も、その日は何故か意識を向ける対象程度にはなっていた。そう、この病院では、特に彼女の勤務する病棟では、毎年十月になると幽霊が出るという噂が、少なくとも彼女が赴任してくるより昔からまことしやかに囁かれていた。
 小児科ではないので幽霊と聞いて背筋を震え上がらせる者も少なく、話を弾ませる者はさらに少ない。しかし患者と来訪の者たちがその見舞いの間の時間的空白を埋めるための道具としてだけは優秀に機能した。
「それなら、トリックオアトリートをもじって、トリックオアブラッド、って言って採血するのはどうでしょう」
「いや、それはまずい。団塊の世代にそういうやり口は通じない」
「でも小池さんはなかなか採血に応じてくれません」
「そういう時は、笑顔でただ待っていればいずれ相手からやってくれと懇願するようになるはずだ」
 今年配属になったばかりの最も若く最も独創的な看護師の1人が、悪意なく看護師長を困らせている様を横目に、新房はナースステーションのデスクに腰掛けた。会社のように自分の座る場所が決まっているわけではないので、私物はロッカーへという決まりである。
 例外として、パソコンが置かれた中央のデスクの一番左の引き出しの中には、旅行が趣味だという中野という看護師がいつも旅先で買ってくる様々な菓子が備蓄されているが、誰も手をつけたことがないし、しかし、誰もこれをスペースの無駄遣いだと指摘することもなく、その空間は仮死状態のままだ。ちなみにその日興味本位で開いたその中には、恐るべきことに、北海道産かぼちゃで作った農家のタルトなるものが見え、その時は何かハロウィンの呪いじみたものを感じた。
「新房さん11号室。山田さん痛み止めが効かないって。応援お願い」
「わかりました」
「古川さんの後で、大変ね。無理しないで」
「無理だなんてことありませんよ」
 新房は機敏に立ち上がると、データ整理の仕事を中断して同僚の後方支援(ヘルプ)へと向かった。
 その道半ば、白く明るい無機質な廊下を小走りで進む彼女はふとこう思った。
 世界はムリをしているーーでも、無理にでも楽しい気分にならなければ、やってられない人がいるのも確かだ。
例えそれが、良くも知らないケルト人の文化に縋って、いつもならとくに進んで食べることもないカボチャという食物を食卓の主役とすることだとしても。
 
 
 夜勤の日というものは新房鈴菜にそれなりの量の覚悟と情熱とカフェインを要求した。またそれは同時に無臭でかつカロリーオフでなくてはならなかった。彼女がこの難問に対して出したストイックな答えは、カフェイン入りのノンシュガーキャンディであり、これは彼女の軍服の、いや看護服の標準装備の一つとなっている。これを兵糧丸(レーション)と呼ばずしてなんと呼ぶか。
 いやいや、商品名はもっとおしゃれだ。
“リフレッシュフレーバー・マヌカ蜂蜜のど飴”
「幽霊、ね」
 06号室には、昼夜逆転した生活を送るがために、昼間より夜間にコールが多くなる作家と呼ばれる厄介な生き物が生息しているが、その対応に追われた後に彼女は日中の不自然な明るさとは打って変わって、またこれも正当な不気味さというか本質的な恐怖をはらんだ闇の中を静々と歩くのだ。
 窓がない薄暗い廊下に少しでも開放感を持たせようという工夫だろう。等間隔に水彩画が飾られている。額縁いっぱいに広がる美しくもありきたりな風景は、日本から遠く離れたどこかの山の景色なのだろう、絵面の上から下へと流れていく川ーーそんなものばかりだ。
 その時、先ほどの彼女の言葉が引き寄せたのか、それとも絵の中の世界からやってきたとでもいうのか、それは彼女の眼前に突如として現れた。
 まるで目の前に透明な壁があって、それを誰かが木槌を叩きつけたようにヒビが入り、光が漏れ出しているようだ。しかしその映画的で劇的な空間の裂け目は、大した音も立てず見た目だけが大仰で、この病院の静寂に対してはまったく服従しているのが奇妙だった。
 だがとにかく、異常な現象に遭遇しているのには違いあるまい。
 そしてひび割れの中から何かが現れる。なんだこれは。人? 人のようなものが・・・いや、頭はやけに大きぞ・・・。
「ヘイヘイ。コンジジョーキをー、かーかげろー。ダイチにネをハるわれら、ミエ〜♪」
 片手にはぼやっと輝くランタンを。そしてもう片手にはラッパのような形をした銃器を。肩幅より巨大なカボチャのマスクをかぶった謎の人物が、軍歌のようなものを口ずさみながら出現した!
 ので、新房鈴菜は、ひとまずこの出来事を、ああ後の世まで語り継いではその度に変人扱いされるのだろうなぁ、としみじみ考えながら、数秒間石像のように固まってしまった。
 どうやら幽霊が出たということらしい。
 しかし、どうしたものだろうか。この幽霊が、仮にもっと幽霊らしければーー例えば地に足が付いていなかったり、うっすらと透けていたりーーそうであったならばどれだけ受け入れ易かったことだろう。このカボチャ頭はしっかりと地に足をつけ、がっちりとした迷彩服に身を包む。では何をもって幽霊的であるかと言うと、根拠はなく、それ自体が逃避的な思考であると気づく。
「ヘイヘイ♪」
 ただただ立ち尽くす新房の隣を、大股で通り過ぎていくカボチャ頭。何の引け目もなく歌詞の続きを歌おうとするそれに対して、ついに新房は、やっと彼女らしい理性的な行動に及んだ。
「ちょ、ちょっと待って! あなた誰ですか」
「コンジョーキィーのォー、ミツイロはー、うん?」
 不気味に足を止める幽霊。便宜的に、幽霊。
「ひとまず、歌うのをやめませんか。常識的に考えて。今は午前の2時半ですよ」
 するとカボチャ頭はくるりと振り返り、くりぬかれて奥がよく見えない真っ黒な瞳、というか目はないので・・・眼孔を・・・彼女の方へと向け、またくりぬかれて奥がよく見えないギザギザの口から実に幽霊然とした低くうねる声を放った。
「この地点(ポイント)に停泊して三度目の月。この土地の人々にコミュニケーションを求められたのは、これで二度目だよ。一度目は確か、そうだったこの奥の・・・」
 言葉が湧き出るほどに幽霊のメッキが剥がれてゆく。
「え、あの、待ってください、いや待て。勝手に話を進めないで」
 このあまりにもふざけた仮装は、彼女から言葉上の敬意を失わせた上で、さらに彼女の何かあまり良くない部分にスイッチを入れてしまったのであった。
「どこから入ってきたのあなた。ここ、病院なんですけど」
「どこからというか、最近はこの土壌に滞在しているので、その質問には答えかねる」
「え? なんて言いました? ちょっと声がこもって聞き取り辛いので、その被り物を一旦取りましょうか」
「私は生得的にこういう頭部なのでその要求にも応じかねる」
 何を言っているんだこの幽霊は。というか幽霊なのかこれは。くそ、なんなんだ。
「そんなことより私は驚いている。きみは私に声をかけたが、そんなことをする同業者は今までいるとは思わなかった。これは保安上の危機感を覚える反面、嬉しい事実でもある」
 同業者だって? 新房は目を逆さの分度器のようにして、カボチャを睨みつけた。
「私とあなたの、どこが、同じ仕事をしているっていうのかしら」
「どこが違うと言うんだ」
 肩をすくめるカボチャ。肩から黒いベルトで吊り下げられたライフル銃は、それを実際に使って見せるより遥かに現実みを帯びた重々しい摩擦音を、ジャケットとの間でかき鳴らした。
 それは命を奪う道具じゃないか。だがこのポケットの中には流血を止める絆創膏と、傷を消毒するアルコール綿と、そして文字通り心の臓の音を聞くための聴診器が収まっている。
 一緒である、はずがない。
「私は看護師です。人を救うことが仕事です」
 表情を露わにさえしないものの、腑に落ちないことを仕草で示すカボチャは、こう言った。
「姿なき上官から、胸から提げたトランシーバーで呼び出され、ナンバーの割り振られた戦地へと派遣され、他者の生死に関与した後に帰途する。我々兵士と、君ら看護師、何が違うと言うんだ」
 それは違う。真逆だ。自分たちは人を救っているんだ。
 そのもっともな主張が、人間(すずな)の口から出る前に、カボチャの言うところの、“姿なき上官”が彼女を呼び出した。だからその日は、幽霊が彼女の背中を見送る形となった。
 そして次の夜勤の日も、その次の週も、彼女はカボチャ頭を目にすることは、なかった。
 
 
 などと安心しきって迎えた、27日の午前2時に、彼女は思わぬ形で幽霊との再会を果たす。
 13号室からの呼び出しだ。これは彼女にとって、重篤な状態にある患者からの呼び出しに匹敵するプレッシャーだ。しかし珍しいこともあるものだ、彼がこんな真夜中にコールを押すなんて。
 もしや・・・何かとてもまずいことが起きているんじゃないかと想像さえしてしまう。
「どうされました」
 個室の扉か、あるいは集団床のカーテンを開けた時、目の前にどんな過酷な状況が広がっていようと慌てず、慌てたとしてもそのことを悟られぬよう心がける。そういう気構えで彼女は抑えた声で、しかしはっきりと呼び掛けた。
「だめだって兄弟! それ押したら看護師がきちゃうだろ」
「はははそうなのかすまない。何かの起爆スイッチかと思った」
 おい、嘘だろ?
 カボチャ頭の軍人の幽霊と、幽霊のように人付き合いのめっぽう悪い怠惰な患者が、映画の『冒険者たち』みたいに、ディア・フレンドしている。
 雷、隕石、就職試験。全てが同時に落ちたような心地がする。
「さて、きみはいつかの」
 喋りすぎたことにより、不気味さが欠落したこの幽霊は、もはや幽霊ではなくただのカボチャ頭となり、加えて、新房の登場に気づくや否や萎縮した態度を取る幽霊よりよほど幽霊らしいこの男と並ぶと、首から上が本当にカボチャであるという恐るべき事実さえ、割とどうでも良いものに思えてくる。
「どうされたか、と聞いたな。その疑に対して答えよう。コリンキー大佐率いる我々五〇八小隊は、グラタン地方に向かう道半ば、ポテッティアの一個中隊に遭遇した。こちらが多勢に無勢であろうと、軍規上逃げるわけはいかない。味方はひとりひとりグリエされ、中にはキャラメリゼされるものも・・・。大佐は、判断を誤ったと後悔していた。彼の独断により、私はただ一人戦地からデグラッセされた。そして、ここへ来た」
 最後に理解不能な横文字を使ってから文章を締めくくるまで、長くかかった。そしてここへ来た、という言葉の背後に隠れた『ここではないどこかから』という意図を、新房は重く深く受け止めた。
 これは仮装ではない。
 幽霊でもない。
 ましてや人間でもない。
 ただ、彼はこの場所に居るべくして居るわけではない。戻れないのだ。それは人間ではないけれど、人間の何かと似ている。誰かと似ている。人間の・・・。
 そうか彼は、患者だ。
 それならば、帰さなければ。ここに居ることが彼の本意ではないはずだ。そうだろう?
「なあ、兄弟。今日はもう、いいよ。眠るよ。だって、ほら」
「なるほど。察したさ。私はカンの良い緑黄色人種だとよく言われる。よくそう、言われたんだ」
 無口な青年がこの素性の知れない相手を兄弟、なんて呼び慣らすのも、一つの証拠ではないか。この二人は何かを共有しているのだ。それこそ看護師がその役回りと立場が邪魔して絶対に踏み込むことができない、意に介さずここへ来てしまったものだけが持つ寂寥感の世界を。
「待って!」
 しかしだ。
 これこそが、彼女の過ちであった。ここで声をかけたことが。ここで情に身を任せたことが。
 でも、そうしなければ、彼も彼女もそしてこの幽霊も、誰一人今日を迎えることはできなかったに違いない。ここに描かれる過去を懐古する、今日という未来の日を。
 ここで何かが変わったのだ。
「あなたを帰すわ! あなた、故郷へ帰りたいのでしょう!」
 
 
 明け方、まだ日は登らず、加えて雨も降り始めた。ナースステーションの誰のものでもないデスクに方杖をつき、時計の秒針が進む音を聞く。ナースコールは喋らない。命令は、降りてこない。
 カボチャ男は、新房の熱心な発案を蹴り飛ばすように、無言で背を向けて病室を去っていった。するといつもの笑顔を被り直した男も、そのまま静かに枕に頭を預ける。そこには新房の居場所などたたみ半畳ほどもなかった。
 そして彼女に残されたものが、静寂の中で静かに震える拒絶、ではなく否定。ではなく錯誤。彼女は自分の存在の意味を問い直した。でも一人では、答えは以前と変わらぬまま。
 人を救うことが、兵士と同じであるはずがない。なのになぜ、彼は、彼らは、去ったのだろうか。
「私が間違ってる? もっとへりくだればよかった? それとも提案することは、ただの迷惑?」
 宙に放り投げた言葉が、壁にぶつかってそのまま耳に跳ね返ってくる。新房は意味もなくナースコールを取り出した。誰にも命じられないその時間が、今や彼女を追い詰めている。
「きみが言ったことを、考えた」
 不意に背中を刺す声に肩が震えた。その時初めてカボチャ頭に幽霊らしさを見出せた。
「だがきみがいかに努力しようと、きみの力ではどうにもならない。きみは時空をトゥルネする方法を、知っているのか?」
 その方法を思案する以前に、トゥルネの段階から分からない。新房は首を横に振る。
「言い換えるならば、切れ込みを入れる、捻りながらな。だがそんなことを伝えても、意味はない」
「本当に、そうね」
 幽霊と障害なく会話している自分が滑稽で、その事実が彼女を自嘲的に振舞わせた。すると今まで避けてきた意味のないもの、とくに意味のない会話というやつを肉体が欲するようになった。
「ちなみにキャラメリゼされる、を言い換えると、どうなるのよ」
「砂糖まみれにされて仮死状態のまま菓子にされるようなものだ。我々が最も恐れる拷問の一つだ」
「それは恐ろしいわね」
 そして皮肉なことに、幽霊もまた彼女の望みを叶えることをつとめて助けているようでもあった。幽霊の兵士は武器を持ってはいるものの、威圧感をかけらも持っていなかった。
「ポテッティア、って?」
「はるか昔、海を跨いで異なる土壌からやってきた、恐るべき種族だ。そして今や、我々の土壌を席巻するレーシャル・マジョリティでもある。彼らは我々緑黄色人種を劣等視し、迫害を続けている。我々の掲げるこの三色旗は、」
 カボチャ頭は軍帽を指差し言った。確かにそこには、赤と緑と黄のトリコロールが刺繍されている。彼の軍服はところどころが焦げ付き、背にかける銃剣は泥で汚れ、そして腰からぶら下げたランタンにはヒビが入り痛々しいが、帽子だけは新品のようにピカピカだった。
「この三色は、自由、平和、そして、ビタミンCを表している」
「最後のだけなんか違う」
 人間より、人間みたいなことを言う。そうだ、その野菜の皮と自然につながった首元にも、とても人間味あふれるネックレスのようなものをぶら下げているではないか。
 錆びたチェーンにつながった銀の認識票(ドッグタグ)、そこには筆記体と活字体の中間のような字形で、J・O・Lと彫られていた。
 鈴菜は自分の首元から降りる赤いバンドにつながった名札に目を落とす。彼は腰にはランタン。そして自分のポケットには、ポケットから甚大にはみ出る懐中電灯。
 お互い、明も暗も混在した境界線のような場所で、姿なき上官からの、命令を待つ。
 このカボチャが、これほど話しやすい相手であるということは、彼の中には、どこか、自分に通ずるものがあるのだろうか。だとしたら、私は・・・。
 その時、ふと気付く。カボチャ頭の腰には、ランタンが。さて、この幽霊がJ・O・Lつまりジャック・オー・ランタンであるかどうかは、これから捨てるテディベアを綺麗にラッピングすることくらいにどうでもいいことだ。問題は、彼のランタンが、今、光を失っているということだった。
 じゃあ、この幽霊が最初に姿を現した時、ぼんやりと闇を照らした光はなんだったというのか。彼はあの時どこでもない場所から、そして一年という時間の空白を飛び越え、あの日あの場所へと足を踏み出したはずだ。そうでなくては年に一度現れるという噂が立つはずもない。だが、そんなことが出来るのであれば。
「あなた、帰れるのね。そのランタンが、時空を、なんでしたっけ、トゥルネする装置」
 カボチャ頭は、何も答えなかった。これほどまでに明確な肯定を、彼女は他に知らない。
「あなたは、帰れないんじゃなくて、帰らないのね」
「命令がないからだ」
 カボチャ頭の声は兵士のものではなく幽霊のものとなっていた。
 外観と所作が一致したことで、ずっと感じていたズレが解消されに、新房鈴菜の腕中で複数の問いが同時に決着した。
「帰るべきよ! あなたは、上官があなたをここへ飛ばしたと言った。何のため? 救うためだと。それなのにどうしてこんな場所に居座るのよ! 患者さんはあなたを見て怖がるわ。でもそうじゃなくて、あなたと話して、あなたと仲良くなってしまったら、皆あなたのようになってしまうのよ!」
 あらゆる複雑な出来事が比較的短時間で起こり、それを受け入れることで必死だった以前の新房が通り過ぎてきたこと。状況を理解した上で、その上でさらに自分を見つめ直した時、そこには大きな見落としがあるのだと、やっと気づいた。
 するとカボチャ頭は、静かに銃を肩から外した。そしてそれを手に持って見せた。
「これは銃。死の種を蒔く道具だ。よく見ろ。この銃に引き金は二つとあるか?」
 新房はまた首を横にふった。
「我々は他者の命に、勝手に関与している。当人の同意なしに。命を強要している。それが死という方向であるだけで、それは、フェアなことではない。当たり前だ。私は兵士だ」
 兵士と、命を救う私たちが、同じはずがない。同じはずが。
「ではきみは、人の命を救うと言ったが、それは命を強要することではないのか。その方向がどうであれ、きみは一度として、人の命に、自分の尺度を持ち込んだことはないと言えるか」
 否定できない自分が、この暗いナースステーションの中で一人置き去りになって、静けさに飲まれていった様子を、今でも昨日のことのように思い出し、決して忘れない。
 私は、希望を押し付けることが、大部分がそうでないにせよ、しかし場合によっては罪なのだということを、その時初めて、知った。
 そして私は、次に夜勤が入る10月の最後の日を、静かに、祈るように、待った。
 
 
「ご友人が、帰りますよ」
「あなた、何を言ったんですか。彼に、何か、余計なことを言ったんですか」
 男が自ら進んで笑顔を剥ぎ取り、痛みを訴えることは、分かっていた。カボチャ頭が、この男とどんな関係を築いていたにせよ、しかし、為すべきことは、やはり、為さなければないのだ。
 それが新房鈴菜の答えであった。だがそれだけではない。決して、そんなことでは終わらせない。
「今日はリハビリの日程表を持ってきました」
「それは前に一度、いや二度か、断ったはずです。一度目はあなたではなかったかもしれないが」
「退院へ向けてのガイダンスと、在宅ケアのスケジュールもここにあります」
「何でまだ分からないんだ。何でみんなそんなに前向きなんだ。いつもいつも!」
 男が見せた、初めての感情は、それは、健康な怒りと、人間らしい自尊心。その表れが新房に、自分が銃口をーー注射器という名の銃口を向けていたのだと知らしめた。兵士だった自分は、ただ粛々と引き金に指をかけてきた。それが誰かのためだと、それだけが世界のためだと信じて。
 今や、それは、わずかに間違っているということを、知っている。
「だから中身は全部空欄です」
 新房は脇に抱えたバインダーを差し出した。主治医と理学療法士のサイン、そして日付以外何の記載もない空っぽにもほどがある書類である。
 本来、これは患者に渡すためのものではなかった。
 しかし男はそれを受け取った。彼が差し出されたものを受け取るということ自体が初めてであったし、それに彼はやっと何か脅迫じみたものから解放されたように落ち着いた声で、
「そうきたか」
 と、小さく呟いた。
 この時少し、彼が笑ったような気がしたので、では、この場所が戦場で、新房鈴菜が兵士であったならば、これは勝利と呼べるのかどうか、などと考えはしたものの、じきににそんなことを考えるのも億劫になった。
 やがてまたあの光が、今度は13号室の曇りガラスの窓を通して、じんわりと室内に浸透し始めた。男は初めて・・・いや正しくは、実に久しく新房に対して敬語以外の言葉を用いたのであった。そしてまた、積み上げた大きな時間の空白を埋めるかのような、何かが腑に落ちたような、それは嘆願ではなく、ただの願いごとである。
「車椅子をひいてもらえないかな」
「そうですね」
 新房は折りたたまれた車椅子を開き、彼の元へと運ぶと、彼は枕の下から、小さな座布団を一つ引き抜いて、おぼつかない足取りで車椅子へ移り座った。大仰な光であるくせに、やはり夜の病院の秩序とも言えるこの静寂には従順の限りを尽くしている。
 部屋を出ると、そこには一ヶ月ほど前に見た、空間に出来たヒビが・・・いや、あの時よりもでかい。そして、よく見てみると、色も形も、雰囲気も違う。
 それは行き先が違うからだろうか。
「帰ることにしたのね。でも私は、あなたに帰った方がいいと言うべきじゃなかったわ」
「そうかもしれない。だが、誰かにそう言われなければ、私にも気付けなかったことがある。きみも同じようだがな」
 信頼の証のつもりか、カボチャ頭の兵士は首から下げた銀のプレートを外すと、新房に差し出してこう言う。
「君にこれを預けよう。私にはもう必要ない」
 もう片方の手には、灯のともったランタンが握られていた。前回見た時より力強く、明るく、そしてなんというか、自然に輝きを放っている。それが意味するところを、理科的には全く説明できないのだが、この景観が言わんとしている彼の抱いた情景は、その、夕焼けのような赤色として、私の記憶の中にしっかりと刻み込まれている。
「ちょっと待ってくれ、さっき『帰る』ってあなたは言った。でも、その会話だと、兄弟が帰るかどうかは、今わかったことみたいじゃないか。かまをかけたのかよ」
 痛いところをつかれた時は、黙っておくのも良い。必ず理由をつけて反論せねばならぬとこの世の摂理で決まっているわけでもないのだから。
 ちぇっ、と男は憎しみだけが欠落した希薄な舌打ちをした。そしてカボチャ頭へ向けて、
「なあ、兄弟。そっちには何があるんだ」
 すると彼はこう言った。
「我が祖国は、西に太古の清脈出(いず)る、誇り高きアトランティック・ジャイアント皇国だ」
「どこだ」
 J・O・Lに、さよなら。
 その帰路が開く瞬間、暗黒と静寂に支配されがちな病院の夜の廊下で、希望の光が雄叫びをあげた。振り返ればそちらは闇で、しかし前を向けば眩しいくらいに光が見えた。やけに頭のでかい兵隊が、その光の中で敬礼をしているのだ。
 私たちは、二人ともその中間に居た。だが少なくとも、首だけは前を向いていていて、そしてどちらかが先に首の向きを変えたとしたら、あの頃、二人は一度、互いを見つめ合っているということに、なるんじゃないだろうか。
 そんなことで苗字を預ける相手を決めた自分が浅はかだって? 
 いやいや、コースのデザートは、もっとおしゃれだ。
“キャラメリゼパンプキン、ハロウィン風”
 
 
 少し長くなってしまった。けれど結局、彼の質問に明確に答えられてはいない。認識票に書かれたあの文字の意味も、彼女にとっては、人間味を象徴する程度の意味しか持っていなかった、ということだ。例えば最近少し体重が増えてきたと真面目に悩んでいるこの男が、康指も太くなったせいでそのまま薬指にはめていられなくなったマリッジリングを、首から提げたように。
 でもカボチャの兵士は、幽霊でも、人間でも、それどころかこの世界の何物かでさえなかったので、そんな考えも所詮は勝手な思い込みに過ぎないのだろう。
 古川鈴菜はそう結論付けると、自分の人生を、運命を、あとは苗字などを、変えてしまった出来事について、これは何かの間違いであると匙を投げつつ、それと同じくらいの感謝を抱くことについて、疲れるほどに心は余計に満たされた。
 そして二人は同時に席を立つ。会計を済ませ店を出る。その時、青いダウンジャケットを着た男とすれ違った。彼は大きなダンボールに、山積みの野菜を運んでいた。このレストランに野菜を卸す契約農家の人間のようであった。
 そのジャケットには、Japan Organic Labors association. などと、どこかで見たような文字が。
「ねえ、J・O・Lって、まさか」
「日本無農薬労働者協会・・・?」
 

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