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25年前のアフリカ大陸縦断②コンゴ編


1998年の夏、私はアフリカのど真ん中、赤道直下の国コンゴのジャングルにいた。


ジャングルには村はない。

観光するものはない。
ただ大自然を肌で体感するのみである。

毎日太陽が昇っている間だけ道なき道をトラックで移動する。


ジャングルに入る前に村で買い溜めした約1ヶ月間分の食糧をトラックの後部座席下のスペースで保管する。

食糧といっても豆やパスタソースの缶詰、米、パスタ、小麦粉ぐらいの腐らない乾燥した非常食みたいなものばかりである。

あとは各々の小遣いでアルコール類や菓子を少し買っておく程度である。


食事の用意は16名のツアーメンバーが二人一組で当番制で担当する。


ジャングルのような特殊な環境の時以外は、市場の近くを通った時に料理当番の人が献立を考えて朝昼晩の食材を買いに行く。


大抵朝と昼はサンドウィッチ、夜はパスタというパターンが多かった。


ただ、ジャングルではパンを買うところがないので、料理当番の人が夕食後に釜で火を起こし、小麦粉から練って食パンを焼きあげなくてはならない。


通常の調理は短時間だからコンロを使用するが、パンを焼くには長時間かかるので土管を輪切りにしたような鉄の釜っぽい簡易的なものにそこらへんに落ちている枝を入れて火を起こすのである。


ただジャングルという環境下では火を起こすだけでも一苦労だった。


毎日降るスコールと呼ばれるゲリラ雷雨のような大雨のせいで湿った枝しか見当たらない。


しかも竹が多く、竹は燃えにくいので使えない。


他のメンバーがテントで眠っている夜中に、漆黒の闇を懐中電灯で照らして乾いた枝を探すところから始めなければならない。


何度も火が途中で消えることもあり、無事食パンが焼きあがるのが朝方になったこともあった。


私がジャングルで一緒に食パンを焼いたパートナーは19歳のオーストラリア人の女性だった。


彼女はシャイな性格なのか、元々あまり自分から話すことはしていないし、ましてや英語がちんぷんかんぷんの日本人と仲良くしようとする気は皆無のようだった。


この縦断の旅が始まって3ヶ月目に入ったぐらいであったが、16名の英語圏のメンバーと生活を共にする中で、ようやく英語で夢を見る程度にはなったものの、まだまだ周りのメンバーが何を言っているのか理解するのに苦労していた。


それが功を奏してか、苦手な集団共同生活も人間関係においてストレスを一切感じずにいれた。


理不尽な目に遭っても「文化の違い」と割り切れたことが大きかったのかもしれない。


だからシャイなオーストラリア人が自分に対してどう思っていようが問題ではなかった。

そんな無口な彼女と静かなジャングルの夜を過ごしている時、彼女が唯一テンションが上がった時がある。

それまで団扇で一生懸命種火を仰いでいても大きく燃え上がらなかったが、自分が日本から持参していた扇子を使ったら瞬く間に火が大きく燃えが上がった時だった。


「このファン(扇子)は我々が持っているファン(団扇)より全然役に立つ!」


彼女は興奮気味に何度も何度もそう言って私の扇子を手に取り仰いでいた。


コンパクトに持ち歩けてしかも火を起こすときに重宝できる扇子は日本の誇るべき遺産である。


言葉の壁をこの名もなき安物の扇子が救ってくれたのである。




コンゴでの1ヶ月間は7か月半のアフリカ大陸縦断の旅の中で「過酷のハイライト」というべきものであった。


まず、キャンプサイトのようなところはないので適当に道端にトラックを停めて、木が生えてないところに各自テントパートナーと協力して2人用のテントを張る。


ただただ見渡す限りジャングルで、もちろんシャワーなどの設備はない。

この1ヶ月間は自然の滝壺があったところでシャワー代わりに2回滝に打たれただけであった。


ジャングルのスコールはパン作りに悪影響を及ぼすだけではない。

毎日の雨で常に地面がぬかるんでいる。


窪地ができるとそこに雨が溜まりちょっとした小川みたいになったりしている。


行く先々で茶碗に割り箸を置いたような頼りない簡易的な橋を無数に渡らなければならない。


その度にドライバーがトラックから降りて、橋の強度を確かめたり、釘を打って強化したりする。


ようやく橋を渡れそうだと判断すると、メンバーは全員トラックから降りる。

メンバーのうち数人がトラックの前後に立ち、ドライバーにハンドル操作の指示を出す。


他の者はトラックが進めば後を追ってしばらく歩く。


ぬかるみにタイヤがはまればスコップを取り出して泥を掻き分ける。


他のトラックが横転していたり、ぬかるみにはまって立ち往生していたら牽引したり助け合う。


そんなふうだから1日何十キロも進めない。


しかもぬかるんだ道は柔らかいが、ぬかるんでいないところは舗装されていないからガタガタなんてもんじゃない。

ずっとロデオに乗っているような感じで座っているだけでも振動に上半身を持っていかれる。


そしてこのジャングルの1番の敵は小蝿みたいな蚊であった。

マラリア蚊とはまた異なる。

米粒ほどの小さなハエのような風貌だが蚊のように人の血液を餌としている。


虫除けスプレーをしていても肌を露出していればすぐに皮膚にとまって血を吸っている。

刺されると痒くてたまらない。

自分の肌が出血しているのを見て刺されたことに気づく。

叩いて殺しても後の祭りである。

刺されたところを無性に掻きむしりたくなるが、細菌が入らないようじっと耐えるしかない。

もちろんムヒやキンカンを日本から持参していたがこちらでの虫刺されにはあまり効かなかった。

そんな箇所が脚や腕に無数にできた。


熱帯地域なのでもちろん暑いが、長袖長ズボン着用はもちろんのこと、その虫は小さすぎてズボンの下にも入り込むのでズボン下代わりに冬用のハイソックスも中に履いていた。


そんな自然豊かなコンゴに紛争が起きた。

いわゆる2003年まで続いた第2次コンゴ戦争の始まりであった。


ドライバーは毎晩BBCラジオで戦況を確認してメンバーに報告していたようだが、自分は全く何が起こってるか知らなかった。


毎晩夕食後にリーダー兼ドライバーの男が翌日の予定を簡単にメンバーに説明する。


自分にとっては明日何時に朝食を食べて出発するかだけわかればそれでよかった。


知らぬが仏とはこのことで自分にとってはこんな状況下でも全く不安になることなく体力的に厳しいジャングル生活を楽しんでいた。


しかしある日、いよいよ事態が深刻になり、ドライバーが真剣な表情でメンバー全員を招集した。


ドライバーやメンバーの表情からいつの間にかなんだか大変なことが起きているのではないか?とやっと気づいた。


「今日イギリス国民にコンゴ国外への退避勧告が出た。

不本意ではあるがこのままでは安全が保証できないため、トラックの旅は一時中断する。

明朝いつもよりも早く出発して空港に向かう。

そこでトラックは乗り捨てて全員飛行機で脱出する。

飛行機で到着した次の国から新しいトラックで旅を再開する。」


(ええええ〜〜〜!!そんなことになってたんだ。)


とはいえ、相変わらずジャングルは静かで猿や鳥の声しか聞こえてこない平和そのものの空間だった。

だからそんな説明をされてもまだ自分がそんなに危機的状況に置かれているとはピンとこなかった。


翌朝、いつもよりさらに早起きしてトラックで空港に向かった。


しかし、空港はもぬけの殻で飛行機は全く見当たらなかった。

ドライバーがトラックを降りて空港職員らしき現地人に話しかけていた。


しばらくしてドライバーが戻ってきて自分達に説明した。

「昨日大使館員が最後の一機を使って出国したので、この空港にはもう飛行機は残っていないらしい。

ということで、我々はこのトラックで出国をするしかない。

とにかく1日も早く出国したいので、これよりも1日のドライブの時間が長くなるがみんなにはどうか耐えていただきたい。

そして途中で兵士にトラックを止められても自分が話をつけるので関わらないこと。大声を上げないこと、笑わないこと、泣かないこと、兵士に話しかけられても英語はわからないふりをすること、とにかく感情を逆撫でしないように無表情でいるように。」


(兵士に遭遇する?)


その時はそんな状況がすぐにやってくるとは思ってもみなかった。


それから隣国のウガンダに出国できるまでメンバーのみんなは無口になり、お通夜のようなくらい表情で過ごしていた。


ここから出国までの道のりは更に困難となった。

長い竹で道を塞いでとうせんぼしている民兵が頻繁に現れだしたからである。


民兵はいちいちトラックを停止させてドライバーに尋問する。


タバコを渡したら通してくれるなんちゃって民兵もいれば、パスポート提示を要求し、メンバー全員をトラックから降ろさせる厄介な民兵もいた。

見慣れない白人やアジア人が後部座席に乗っていれば興味本位で話しかけたくもなるのだろう。


全員がトラックから降りると道端に一列に並ぶよう言われてパスポートを一冊ずつ確認する。


民兵は取り上げたパスポートとメンバーの顔を照らし見合わせながらフランス語で質問口調で話しかけてくる。

「(あなたは)ブリティッシュ?」

話しかけられたら静かに頷いて答える。

「ウイ」

「アメリカーン?」

「ウイ」

「カナディアーン?」

「ウイ」

「オーストラリアーン?」

「ウイ」

「ニュージーランダー?」

「ウイ」

民兵が自分の前にきた。

「シナ?」

「ノン、ジャポネ。」

「アー、ジャポネ。」

「ウイ」


(今顔だけ見て中国人と思ったんやろ。あ〜ジャポネね。って、おめえ日本の存在知ってんのか?)


民兵はもう一度イギリス人の前に戻り、さっきと同じように質問を繰り返した。

「ブリティッシュ?」

「ウイ」

「アメリカーン?」

「ウイ」

「カナディアーン?」

「ウイ」

「オーストラリアーン?」

「ウイ」

「ニュージーランダー?」

「ウイ」

民兵が自分の前にきた。

「シナ?」

「ノン、ジャポネ。」

「アー、ジャポネ。」

「ウイ」

(おいおいおい、吉本新喜劇やないんやから。ベタやなあ。)


関西人としてはここでコケてツッコミを入れるシーンだが、笑いを堪えて無表情で目線を下げた。


(それにしてもなんでみんなアジダスなん?)


なぜか民兵たちは全員アジダスのロゴの入った同じ形のポシェットを色違いで首からかけていた。

(コンゴって今アジダスがブームなんかなあ?

通貨がまとも通用しないこの国でこんなブランド品買えるわけないし、村に行っても買える人いないから売ってるはずないやろ。ツアー客の没収したのかなあ。

それにしてはみんなお揃いやし、誰かに支給されたんやろか。

もうツッコミどころ満載やん!)


深刻な状況ではあるが、笑わないよう注意しながら頭の中はそんなことばかり考えていた。


中には飽き足らずツアーメンバー全員の荷物を検閲する民兵もいた。


おそらくカメラなど高価なものがあると没収と称して奪うつもりなのである。


コンパクトカメラ、インスタントカメラ、コンパクトビデオカメラ、40本ほどのカメラフィルム、6本のビデオテープを持参していた自分は何が何でも彼らにそれらをみつけられるわけにはいかない。


もちろんあらかじめ鞄の中でも見つかりにくいように分散して服に包んだり寝袋に隠していたが、だんだんこの検閲に慣れていく上で免罪符になる言葉を見つけた。


「これは何だ?」と聞かれたら、とにかく「タンポン」と答えるのである。


最初は「生理用品」と答えていたが、「生理用品」はフランス語圏の彼らに英語で説明してもピンとこない。

だったら「タンポン」はどうだろうか?

たまたま「タンポン」と「生理用品」を入れた袋について聞かれたので、「タンポン」と答えた時のことだった。


「タンポン」は世界共通の言語なのかは知らないが、とにかくコンゴのジャングルでは通用した。


男性の民兵は女性に「これはタンポンです」と言われたら、それ以上開封すを無理強いすることはなかった。

彼らはタンポンの存在を知ってのことかはわからないが、

「そうか。もうよい。」と言って引き下がってくれた。


だから見られたくないもの(没収されたくない高価なもの)はとにかく「この中にはタンポンが入っている」と答えた。

X線検査対応用のフィルム袋も知る人が見れば一発で没収の代物だが、堂々と「タンポンです」と言ったらパスできた。


まさに検閲を免れる魔法の言葉であった。


そんなことを毎日何度も繰り返しながら道なき道を進んだ。


ようやく国境付近まできた頃、ライフル銃を持った3人の兵士が「この先にある教会がある村までトラックで送ってくれ」と言ってきた。


これまでは私服の民兵だったが、彼らは迷彩服を着ていた。

しかも本物らしきライフル銃を抱えている。


彼らが民兵なのか政府側の兵士なのか革命軍の兵士なのかはわからない。

我々にとって敵なのか味方なのかもわからない。

ただライフル銃を持った兵士の頼みを断ることはできない立場であることだけは自分にもわかっていた。


もう日が暮れてジャングルの夜は真っ暗で静まりかえっていた。

本来なら今日はもうテントを張って眠りにつく時間だった。

毎日の疲れが溜まって、メンバー全員が疲れきっていた。

ただライフル銃を持った兵士たちを送ることになったのでドライブ時間は延長された。


兵士の一人は助手席に乗り、あとの二人は後部座席の自分達のすぐ隣に座った。

ガタガタ道で銃が暴発するかもしれないと不安になったメンバーの一人がシクシク泣き始めた。


彼女は37歳のニュージーランド人で、17歳の娘をもつシングルマザーだった。

彼女は私のテントパートナーだった。

娘の年齢に近い自分をとても可愛がってくれた。

いつも食事の列に並んでいると悪びれもせず割り込んでくるので「オバタリアン」と名付けた。

そういう厚かましいおばさんのことを日本では「オバタリアン」と呼ぶのだと本人に説明すると周りのメンバーも彼女のことを「オバタリアン」と呼び始めた。笑

いつも明るく気丈な彼女がシクシク泣いているのを見て、なんだか自分も急に悲しくなった。


彼女は「頼むから銃口を天井に向けておいてくれないか?」

と向かいに座っている兵士に話しかけた。


兵士も「オッケー。」という感じで素直に応じてくれた。


彼女は「ソーリー。」と言いながら静かに涙を拭った。


やがて目的地に着き、兵士たちはさっさとトラックから降りて、乗せてくれたお礼に今晩この教会の敷地にテントを張ってもいいと許可を与えてくれた。


今から思えば、その兵士たちは「道端にテントを張るのは危険だからこの先の教会まで行けばいいよ。夜道は危険だから同乗して護衛してやるよ。」と親切心で提案してくれたのかもしれない。


その時はそんなことを考える余裕もなく、ただ(無事で良かった。やっと眠れる。)と思っただけであった。

とにかくみんなの表情も疲れきっていた。


翌朝その教会は小学校の役割もあるらしく、子供たちがどこからともなく集まってきていた。


村の長老的な爺さんと子供たちに見送られながらトラックは出発し、ようやくコンゴを出国し、ウガンダに入国することができた。


メンバー全員が歓喜を上げて、国境を出たところにある事務所っぽいところで各々身内に無事を知らせていた。


その事務所には電話とFAXとパソコンがあった。

電話は時差もあるし、電話代がかなり高いので、自分は両親宛てにFAXを送った。

「自分は無事コンゴを出たから安心してください。」


もちろん、すぐに返信が来ることはない。

おそらく、2、3週間後にいる国の中央郵便局で両親からの手紙を受け取ることになるといった具合である。


その頃日本ではコンゴで紛争が起きたことは一般的なニュースとしては報じられていなかったらしく、両親は自分のFAXでそれを知り、余計に心配になったらしい。


イギリス人のメンバーはパソコンからメールで安否を知らせていた。

彼らは不思議そうに聞いてきた。


「日本にはemailはないの?」

「何じゃそれ?」

「emailだよ。アドレスないの?」

「emailってメールの一種?アドレス?」

「うん。」

「携帯電話にメールっぽいショートカットメッセージ機能はあるけど、国内で携帯電話同士でしかやりとりできないし、日本はFAXが主流だから。」

「ふーん。イギリスは自宅にファックスがある方が珍しいよ。emailが主流だよ。emailだとすぐ返信も受け取れるし、超便利なんだよ。」

「へえ。初めて聞いた。」


私が帰国してすぐにパソコンを買ってメールアドレスを取得したのは言うまでもない。


日本はアメリカに次いで世界第2位の経済大国であると学校や世間で教え込まれてきた時代だったが、いざ一歩外に出ると日本という国が進んでいるようでもある分野では全く遅れていることを肌で感じる瞬間であった。


そりゃ「シナ?」って言われるよね。笑


25年後の今、日本ではパソコンは一人に一台は当たり前となり、FAX文化は衰退しつつある。

アフリカのコンゴとてスマートフォンは普及し、IT文化は進んでいるだろう。

ただ、あのジャングルの赤茶色の土に真っ青な青空、深緑の木々のコントラスト、ターザンは絶対にいると思わせるような雄叫び、夜の静けさ、その全ては今もそのままであってほしい。


あんなにキツかったのにまた訪れたいと思うのは、やはりそれだけのパワースポットなのであろう。

コンゴに平和が続くことを祈るばかりである。

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