~過去の私との会話④~
「孤独が生産性を高める」という話もあれば、逆に「他人との会話の中でアイディアが産まれる」という話もある。
一見相反する内容に見えるが、どちらか一方を支持すると苦しくなるので両方を取り入れる必要があると思う。
病室かつ家族や知人と遠く離れた場所…という限りない『孤独』の中で残した殴り書きであるが、数ヶ月後に自分との会話に活かされているというのも不思議なものである。
自分のことをそのまま考えると、どうしても視野が狭くなりがちになる。小さなことでもこの世の終わりの様に感じてしまう。
なので、なるべく客観的に自分にもう一人以上の自分が話しかける様に日常を過ごしている。
どこまでこのやり方が通用するのか分からないが、精神衛生的には自分を保つのに一役買っていると思われるので継続をしていきたい。
▼ 無意味なことをしない
日々様々なことを様々な事象から影響を受けて考える傾向のある自分が行き着いた境地として「どうせ捨てる、忘れることを考えても仕方ないのではないか」というものがある。
記憶力や発想等の頭の衰えもそれなりにあり、一生懸命考えた1時間前のことがもう全く言葉として出てこないというのであるならば、それは大して意味のなかったこと、自分にとって重要なことではなのかもしれないと思う様になってきている。
メモ書きや録音等で、何かしらの形で記録として残しておかなければ全て忘れ去ってしまう程度のものなのかもしれない。
それが病気や未来について考えて酷く苦しんだ…としてもである。
もちろんそんなことは無いと思いたいのだが、実際のところ頭を使って考えたり悩んだりした大半のことは辛い現実を変えるほどの強い影響力を持っていないことの方が多い。
言ってみれば「自分の病気」について治るかどうかを考えたり思い悩んだり、余命について色々と調べたり…をしたところで現実の結果が早々変わるわけないのである。
ブログやらNoteやらTwitterやらで様々な考えを発信している私は『考え方』については『日々の深い考察によって思考が洗練されていく可能性』を残したいのだが、単純に「悩んだところで意味のないところに自分の命を使う」ことが果たしてどんなものなのかはよく分かっていない。
性格的にそこまで割り切れない部分があることも事実ではあるが、後で覚えていない程度のことを突発的にアレコレと悩むことを辞めれば、精神衛生上かなり良くなりそうである。
そして、1日の中で考えていたことの内で記録媒体に残していないものはほとんど忘れてしまっている…という事実を改めて嚙みしめようと思う。
▼ カルテに真実がある訳じゃない
各所で様々な拗らせた文章を作ってきた自分が言うのもなんではあるが、自分は『割と自分の考えを簡単に捨てることができるタイプの人間である』と思っている。
自分の過去の考えを捨てるのには、当然ながら相応の議論や情報開示を求めたりなどもする。
だが、私自身が新たな考え方に納得をすれば、仮に全く真逆の意見であったとしてもすぐさま受け入れる素養を持っている。
これは自分自身の性格…というか「成り立ち」からこのようになったものだと思う。『自分らしさ』とは何かと問い詰めてみると、正直『自分らしさ』というものを私は持ち合わせていない様な気がする。
言ってみれば『本や他人から得た知識や経験』を様々な形で紡いで行った結果、今の自分が存在しているわけである。
そのため人との出会いや新たな知識との触れ合いによって、自分の考えは今後も大いに変わっていくだろうと改めて思う。
例えば、私は「自分が出来たことは他人にでも出来る」と思っている節が過去にはあった。もともと自分は自己肯定感が高くないタイプであり、後天的に何かを出来る様になっていることが圧倒的に多い。
そのため、私に出来ることは頑張れば他の人でも十分出来るという風に真面目に思ってきたのだが、ある人との出会いの中で「その考えは間違っていると思う」という指摘を受けた。言い方は悪いが「出来ない奴は出来ないし、ある程度の年齢までいけばその性格は変わらない」という話であった。
現実的に「出来ない人」に対して一定のストレスを感じていた私としては、その考えを受け入れることが結果的に自分の柔軟性を改善することに繋がっている。
そのため、私は今他の人にそう多くの期待はしていない。
他人の都合や考えで言い訳をする人も当然あるだろうし、その言い訳で通用すると思っている…なんてわざわざ突っ込んで相手を不快な思いにさせる必要性もあまり感じていない。
興味を持てない人に時間を費やすのは医療関係者であっても苦痛でしかないし、正論を背景に論破しようとする人に抗う時間も勿体ない。
この考えが周囲に良い影響ばかりを与える訳ではないと入院中も何度も思ったが、一方でこの考えを覆す様に諭してくれる様な人もいなかった。
カルテに「頑固なところがある」と書かれているが、むしろ「その辺の人よりかなり柔軟なんだけどな…」と思うのである。
▼ 親としての責任とエゴ
入院中に一番したいと願ったのは『子育て』である。一方で、長い入院から退院をして自宅で子育てをしていると日々思うことがある。
親として子供の将来の為に色々してあげたいのであるが、子どもの『将来』に自分が居ないだろうという事実についてである。
悲観的なことを言いたいのではなく、確率的にそれが高いのだから仕方がないと思っているのだが、現実的にその『将来』とやらに自分が役に立つと思っていることを教えたとして、私はその時に生きて責任を果たすことが出来ない。
身近な例で言えば、例えば嫌いなものを食べない子供に対してある程度無理にでも食べさせる…という様なことを想像してもらえばいいだろうか。
本当にそれが必要なのかどうかは置いておいて、一般家庭であれば「食べないと大きくなれないよ」「好き嫌いをしてはいけないよ」ということを教え込むのだろう。私も今はその様なことをしてしまう。
だが、それが本当に子供のためを思ってなのか…と疑問に思うことがある。ただの大人のエゴなのではないかと思い悩む。
別に嫌いなものを食べなくても子供は大きくなるし、今は食べたくなくて15分後には食べてくれるのかもしれないし、それを無理やり食べさせたとして果たしてそれほど意味のあることなのか…と考えがぐるぐる巡る。
限られた時間の中で子育てを途中で終える可能性が高い身として、子供の未来の責任も負えないのに一般論や自分の考えを押し付けることが、果たしてそんなに偉いことなんだろうか。明日仮に子どもの命が尽きるとすれば、私は今の行為を続けるのだろうか。
そんなことばかり考える。
縁起でもない話なのは重々承知であるが、日々死の可能性を胸にこちらは生きているわけであってその取扱いに苦慮する。
『今』を最適化することは『未来』に向けて「今は苦労をする」という考えと相反する。『今』をある程度犠牲にしなければいけないからだ。一方で『未来』は『今』の積み重ねという考え方であれば『今』を最適化するべきである。
どちらの考えを採用するにしても、子供の『未来』に責任を負うことの難しさを痛切に感じる自分は日々悩みを深める。
…恐らく答えの出ない輪廻をこれからも回し続けるのだろう。
『子どもの願い』というのは純粋であって混じりっ気がない。色で例えるなら『きれいな単色の願い』とでも言おうか。大人の世界における様々な忖度などがないからであろう。大人の『濁った願いの色』とは訳が違う。
目の前にある嫌いなものを食べたくないという子供の純粋な願いを、大人の願いと強制をもって変えることに対しての疑念と、命ある限り私は向きあっていくことになるだろう。
願わくば「自分が心を痛めて考えを巡らせた成果と子育ての責任」をある程度感じられるだけ命が繋がっていれば、本望であるのだが。
▼ さいごに
子供が幼稚園に体験で通う様になり、今まで全く病気をしなかった反動なのか頻繁に風邪をひく様になった。
親としては具合の悪い子供をいち早く何とかしたいと思うのだが、ふと自分の病気が自分ではなく子供が罹患したと考えるとゾッとした。
…実際にがんに苦しむお子さんを持つ親もいるのであろうが、その心境は計り知れない。
適切な表現ではないと理解しているが「がんに罹患したのが自分で良かった。子供に願うのは健康だ。」と痛切に感じる。
どんなアホでもいいから、他人様に迷惑を掛けずに元気に育って欲しい。そして、その経過を親としてずっと見つめていたいと改めて思う。
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