父の遺影を毎年撮ること。
父の写真を撮る。ここ数年の写真の楽しみのひとつだ。
別に父は写真に撮られるのがすきじゃない。それにせっかちだから、カメラを向けてもすぐにどっか行く。
「すこしは立ち止まってほしい、もっと何枚も撮りたいのに……オールドレンズでマニュアルでピント合わせてるのに……」
なんて、そんなのわたしの勝手な都合だ。仕方ない。
撮られるのがすきじゃない父に「これは遺影だから!」と理由をつけて写真を撮らせてもらってるんだけど、そろそろ父も飽きてきて、「もういいよ、じゅうぶん写真、あるよ!」とそっぽを向く。当たり前だ。父はふつうに健康だし。
わたしはコピーライターとして、この問題を勢いで誤魔化した。
「お父さんの『遺影2019スプリングコレクション』撮るから。写真はお葬式で小田和正さんとかのいい感じの音楽つけてスライドショーにするから、枚数はたくさんあるに越したことないわ」
まるでおしゃれな雰囲気さえする(しないか?)、『遺影2019スプリングコレクション』(しないか…)。
しぶしぶ今年の春も付き合ってくれた父。
桜をバックに、ぶじにスプリングコレクションを残すことができた。
『遺影』という言い訳で、思い出の写真が増えていく。だいたいは「しょうがないなあ」というように笑う、はにかんだ写真たち。
白髪混じりの髪、
ほんのり明るい茶色の目、
すこしお肉の輪郭がやわらかくなった目元、
刻まれてる眉間のシワ、
猫背ぎみな姿勢。
こんなひとつひとつが、わたしのたからものだ。
ああ、お葬式に写真を飾る文化があってよかったなあ。
縁起でもないことなのかもしれないけど、そんなことを思う。
散々、いやな顔をしてたのに、撮れたての写真を液晶画面で見せたときの、父のコメント。
「おれ、還暦には見えないなあ」
若々しく感じたらしい。けっこう満足そうだった。
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