ポスト・スポーツの時代の体育〜思考中心体育〜

オリンピックやワールドカップのようなグローバルなメガスポーツイベント、もはやどの季節でも風物詩となっている学生の日本一決定戦、日常に溶け込んでいるプロリーグの試合。種目さえ選ばなければ、もうスポーツを観ない日はないくらいにあふれている。

今、そんなスポーツに大きなパラダイムシフトが起きている。それをもたらしたのは、紛れもなく「テクノロジー」だ。

スポーツを激変させたテクノロジー

これまでも、テクノロジーの進歩によってスポーツは多大な恩恵を受けてきた。例えばゴルフクラブやテニスラケットは、その当時は木をその形状にかたどっただけに近い物だったが、技術の進歩によってより「性能」が高いものが次々に開発されている。また、近年一世を風靡した「カーボンプレート」を搭載したランニングシューズの登場が、陸上界を大きく震撼させたことは記憶に新しい。

今ではラケットのストリング調整の専門技師や、スケートブーツのブレード調整の専門技師など、トップレベルになればなるほど自ら使用する「ギア(道具)」にこだわり、そのためのエキスパートのニーズが高まっている。これは、テクノロジーの進化によってギア(道具)の重要性も高まり、ギアの質がパフォーマンスに大きく影響することを意味する。

テクノロジーが変えたのは道具だけではない。テニスのホークアイ、サッカーのVAR、ラグビーのTMOなど、映像技術の進歩によってもたらされた革新も大きい。元々はイン/アウトなどボールの動きをより正確に捉えて「誤審」を防ぐための導入だった。もちろんその点においては多大な貢献をしていると思う。しかし、確実な「事実判定」の代償として、判別するための「時間」というコストを支払うことになり、この一時中断がプレイヤーのやりづらさを生み出すという副作用ももたらした。

見えないものが見えるようになった

映像技術の進歩がもたらしたことを一言でいえば「見えなかったものが見えるようになった」である。人間の目では追いきれなかったわずかな誤差や、審判の目からは角度的に見えなかった反則など、よりクリーンでフェアなゲームを成立させるための「ゲームの透明性」は確保されたように思える。しかし、「見えるようになったもの」はそれだけではない。

ゲームが映像データに残ることで、それの詳細な分析が可能になった。すると、チームや個人の傾向が浮かび上がるようになり、「良い結果になるプレー」と「悪い結果になるプレー」の違いが明確に言語化できるようになった。さらに、今ではトップレベルだけではなく一般市民にも手が届くようになったウェアラブルデバイスによって、あらゆる運動パフォーマンスが即時にデータ化され、評価できるようになった。

シュートコースの分布、空きがちなスペース、連携のズレた瞬間といった情報から、ボールの速度や回転数、膝の角度や歩幅、最大酸素摂取量まで、テクノロジーによって「見えるようになったもの」は想像以上に多くあるのだ。これが何を意味するのか。

「認知→創造」から「分析→遂行」へ

これまでのスポーツは、プレーは「認知→認識→判断→実行」のサイクルをたどっていた。コート上にいるプレイヤー自身がどれだけの情報を「見えている」かどうか、そして最も合理的な選択肢をいかに瞬間的に選択できるかどうかという認知スキルが求められていた(もちろん、今もこの部分の重要性は大きい)。

しかし、あらゆる情報がデータ化され、分析によって「分節化」された情報が蓄積すると、次にとるべきプレーがある程度「予測」できるようになった。すると、これまでプレイヤーがしてきた「判断+実行」は分離され、予め見込まれたプレーを「遂行」するという側面がより強くなった。特にバレーボールや野球のような短いプレーが連続するスポーツにおいて、このプレイヤーに期待される役割の変化は顕著にみられる。

スポーツは何が戦っているのか?

山本敦久氏は「次の」や「後続する」という意味の接頭語をつけた「ポスト・スポーツの時代」と称し、この変化を事実として認めながらも警鐘を鳴らしている。データ・ドリブンのスポーツがもはや当たり前になり、より詳細な分析と合理的な予測ができることの重要性が高まった今、どの競技でも「アナリスト(分析担当)」の地位が格段に上がっている。試合前から両チームのアナリスト同士は分析合戦を行っているし、その質が勝敗を左右することだって十分にある。

従来の「認知→創造」をすべてコート上でプレイヤーが即時的に行ってたスポーツでは、プレイヤーの頭で考えたことをプレイヤーの身体で表現すればよかった。しかし、ポスト・スポーツでは、アナリストなどプレイヤー以外の人の頭で考えられ、プレイヤーは身体で「代行」するような関係になってしまっているのだ。甲子園を見ると、1球ずつ必ずベンチを見て振るか振らないかの指示を仰いでいる高校生が、まるで主体性のない「駒」のように思えて不憫でならないのだが(そういうスポーツだと言われればそれまでである)、他の競技でも似たような状況に近づいているということである。

さらに極端なことを言えば、「戦術やプレーの選択(入力)」と「プレーの遂行(出力)」が分離したこの構造はウイイレなどのe-sportにもあてはまるものである。e-sportでは入力だけに特化し、実際のプレー(出力)はコンピュータに代行してもらっている。山本氏は、この状態に陥ったポスト・スポーツに対し、スポーツの主体とは何なのか?と指摘している。つまり、プレーの入力(選択や指示)をする者とプレーの出力(実際の運動)をする者がより明確に分かれた今、どちらがより「戦っている」のか、という疑問である。

体育はむしろ分離した方がいい

この疑問について深く議論することは、本稿の主題から逸れるためこれ以上深入りはしない(気になる方は山本氏の本を参照されたい)。さて、現代のスポーツ界のトレンドがわかったところで、体育がこれにどこまでキャッチアップしていくかという話に入る。結論から述べれば、私は体育こそこの流れに乗るべきであると考える。

前述のとおり、これまでのスポーツは入力も出力もすべてプレイヤー自身に委ねられていた。つまり、「判断=知的作業」も「実行=身体操作」も両方がうまくいかないと認められなかった。これは知能も運動能力も発展途上である子どもにとっては非常に負荷の高い要求であり、ましてや初めて体験するかのような種目でそれを求められることは、冷静に考えれば相当な無茶ぶりである。

もし、ポスト・スポーツの流れを体育に反映させることができれば、体育においても「分析・判断」という入力と「プレーの実行」という出力を分離させることができ、頭を使う場面と体を使う場面を明確に切り離すことができる。分離できるということは、特に入力場面にじっくりと時間をかけられるようになるため、より丁寧にゲームを進めることが可能となる。従来もその流れは一部あったが、これまで以上に入力場面の重要性が高まっているため、「運動(出力)は苦手だけど、思考(入力)は得意な子ども」の活躍機会が新たに増えることになる。

さらに、分析と運動を役割分担ではなく全員が両方体験することに大きな意味がある。初心者である子どもにとって、分析をすることはその運動の理解を促すだけではなく、見る「目」を養ってその種目自体の理解も深めることができる。また、分析と運動を交互に行うことで、「課題に気づく」→「対策を考える」→「やってみる」→「振り返る」というある種のプログラミング的思考を子どもたちはすることができる。やはり、ポスト・スポーツの流れは体育にとってメリットが大きい。

課題は「データ化」ができるかどうか

そもそもポスト・スポーツの時代がいかに始まったかといえば、テクノロジーの進化によってあらゆる運動がデータ化されるようになったからであった。つまり、このようなポスト・スポーツの時代の「恩恵」を体育が受けるためには、体育においても運動のデータ化が不可欠となる。では、体育でできる運動のデータ化とはどんなものがあるだろうか。

【定点で撮影する】
タブレット端末が急速に普及した現在の学校現場で、まず可能となるのが動画の撮影だろう。ただし、分析用の資料としての映像にするには、「画角を固定すること」が大事なポイントになる。撮影対象は「個人の運動様式」または「集団の配置・スペーシング」である。どちらにしてもカメラを定点で固定し、その中に撮りたい範囲が収まるようにしたい。

『SPLYZA Motion』は、個人の運動様式を分析するのに非常に適したシステムである。選択した動画内の人物から主要な関節だけの棒人間を抽出し、知りたい関節の角度や角速度などを自動で分析してくれる。例えば逆上がりのコツとして、これまでは「足を高く振り上げる」だったのが、このシステムを使えば「股関節が○度以上屈曲しているとよい」「つま先が○m/s以上で動いているとよい」という厳密な数値として出すことができる。操作自体も単純明快で、子ども自身が操作して分析できるのも利点である。

【ゲームスタッツの計上】
スポーツでは、パフォーマンスの質や傾向をつかむためにゲームスタッツは重要な指標となる。この集められる情報が非常に多岐にわたるようになったのがポスト・スポーツだが、体育レベルでも「シュート確率」「パス成功数」程度の単純集計を取ることは可能である。さらに、それらの結果を「個人プレイヤー単位」「チーム単位」「エリア単位」「時間帯単位」などで切り取るだけで、様々な情報が浮かび上がってくる。

『SPLYZA Teams』は、ただ映像を見返せるだけではなく、映像に任意のタグを付けることができ、タグの集計を自動算出してくれるシステムである。つまり、映像を振り返りながらタグを付けていくだけで、同時にゲームスタッツの計上もできるようになる。これによって、「○○さんは右方向からのシュートが多い」や「○○チームは試合終了間際になるとパスが減ってよくシュートを打つ」のような分析も可能になるのだ。

データ化によって「思考中心体育」へ

もちろん、映像に残さないで手元で正の字を書いていくなど別の方法でもデータはとれる。しかし、非常に効率が悪い上に、ポスト・スポーツの流れをもたらした「テクノロジー」がせっかく学校現場にも届いたのにそれを活用しないのは野暮ではないか。

体育で運動のデータ化が可能になり、ポスト・スポーツように「考えて判断する主体」と「実際に運動する主体」を分離させることができるようになれば、体育は大きく変化するだろう。これまでは「できるか、できないか」という運動パフォーマンスに過度なフォーカスがされてきた体育だったが、これからは「見えるか、見えないか」や「気づくか、気づかないか」こそ重要になってくるだろう。むしろ、これまでも体育が目指したかったのはこちらではないのか。

「わかる」と「できる」は違うといいながら、両者の分離がうまくできないでいた体育に、データ化というポスト・スポーツの時代の流れは救いの手を差し伸べてくれている。今こそデータ化と分析によって「思考中心の体育」へと舵を切るときではなかろうか。
(その実現にSPLYZA社のシステムは非常に大きな貢献をもたらしてくれる。すでに国内では最先端の体育実践として導入している先生が私も含め何人もいる。興味のある方は、会社または私まで。)
※私も同社の外部関係者です。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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