家族という呪縛の話

わたしには弟がふたりいます。4歳下と6歳下で、少し離れています。母曰く、もともと3人子どもが欲しかったけれどわたしがあまりにも手の掛かる子で、ある程度大きくなるまで下の子は見送っていたそうです。2人目を産んでみたら「あれ?めっちゃ育てやすくない?」となって間を開けずに次男を産んだとか。
父母(わたしからみたら祖父母)が会社を経営していて忙しくあまり構ってもらえなかった。兄は長男だからと可愛いがられ、妹は末っ子で可愛いがられ、自分は愛情を感じられず育った。だから早く結婚したかったし子どもが欲しかった、と言っていました。当時でも少し早めの20歳で結婚し、22歳でわたしを産んでいます。
そんな母は、わたしが小学生中学年くらいから父を嫌うようになりました。自分はこんなに大変なのに子育てをしない、家事をしない、お酒にだらしない。直接聞いたわけではありませんが、日々のそういった不満が積もり積もったのでしょう。夜に聞こえる喧嘩の声から弟たちを守りたくて、愛してるよ大丈夫だよと伝えたくて、わたしは毎日弟ふたりと川の字で寝て、寝るときには絵本の読み聞かせをしたり、昔話を語って聞かせました。このときのわたしは、ふたりには自分みたいな悲しい気持ちをして欲しくないと思っていました。弟ふたりを守ることが、自分を守ることでした。
わたしが中学一年生になったある夜、父母が口論をして、父が手を上げました。それが決定打となったのだと思います。母はわたしだけを連れて夜中に家を出ました。そのときの自分の感情は覚えていません。母に連れられて車に乗って、ラブホテルで一夜を過ごして次の日そのまま学校へ行きました。そのときはいっぱいいっぱいだったのですが、今思えば幼い弟たちは心細かったろうなと思います。
その数日後、わたしたち子ども三人を連れて母は実家に移り住みます。子どもの精神はほとんど家庭環境に左右されるといっても過言ではないとわたしは思っていて、このときわたしは中学で一部の人からいじめを受けて揉めたり不登校の期間があったり、弟は火遊びをしたり祖母の財布からお金を抜いたりと家庭がごちゃごちゃしました。正直、ディテールまでは覚えていません。この頃の記憶は曖昧というか、抜けが多かったりモヤが掛かったようだったりします。古い記憶だからという訳でなく、高校大学のときに思い出そうとしても難しかったので、記憶に蓋をしてしまっているのだと思います。
たぶんわたしたち姉弟はそれぞれ心に何かを抱えていて、歪みながらも他の人と同じように生きるのに必死でした。わたしは「父がいない家庭の形をわたしが守る」と気負っていて、弟たちはいきなり連れて来られた母方の実家という異空間で生活するのがとても負担だったそうです。
母は結局、下の弟が大学を卒業するまで離婚しませんでした。わたしたちの生活を考えてくれたからだと思います。父は父で、一緒に住んでもいない顔も年に数度しか見せないわたしたちの生活費と学費を、大学卒業するまで(少なくともわたしたちに直接は)文句も言わず支援してくれました。母が父を嫌い出してから、思春期も重なってわたしも父が嫌いでした。軽蔑すらしていました。しかし自分が社会人になって働き出しだとき、養育してくれたこと、金銭を惜しまなかったことにはとても感謝しましたし、その面では尊敬しています。ほぼ他人みたいに生活してる人間に金払い続けるのすげえなあと。彼なりの愛情や責任だったのかなあと。

そんなこともあって、わたしは思春期くらいからずっと、「自立していたい」という願望が強いです。わたしの中の自立=経済力で、資格取ったら食いっぱぐれんだろって考えて、商業高校に入りました。経済力があって、ひとりで生きていくことができれば、自分の思う道を気兼ねなく進めると思ったからです。高校卒業後は、専門か就職を希望していましたが、母親の強い意向で大学進学することになりました。今はそのことが良かったと思いますし、成績が良かったから進学しないと勿体無いと考えた気持ちも、自分は通えなかったけど、女の子も学歴があるほうがためになると思ったのだろうなということも理解できます。しかし当時のわたしは、自分が歩む将来を他者に口出しされるのが嫌で、だけど保護者で養育して来た人である母の意向を汲むのも子どもの義務なのかなと思って、大学に進学しました。「ほんとにやりたいことができないなら、二番目にやりたいこととか特にないし、親の気が済むならまあ」くらいの気持ちでした。そしてやっぱり「お金がほしい」と思いました。お金さえあれば、自分で本当にしたいことができただろうに、って。わたしにとって、お金=自由だったのかもしれません。社会人になったことを機にひとり暮らしを初めて、自活して、年も重ねて、経済的に自由になった分、精神的にも自由になりました。どこへ行くか、何をするか、自分の一存で決められる。親に気兼ねすることなく、顔色を伺うことなく、やりたいことをやりたいようにできる。そしてそうなると、ときには「我慢」とか「配慮」とか、精神的なもので返していた「恩」を、与えることで返せるようになってきたと思います。自立と自活、両方できてはじめて精神的にもひとり立ちできるのかもしれないと、今なら思います。

大学卒業まで実家にいたのですが、母とはまあ揉めました。父親はおらず母親は不安定。なんとか家庭の形を保とうと四苦八苦したり諦めたり荒んだり。あの葛藤や屈折、諦めや怒り、悲しさとか羨望とか期待とか。誰もが通る道で、今のわたしになるために必要な過程だったのかなと思います。
絡まって固く結ばれた毛糸みたいに頑なだった心は、今はふわふわしたりトゲトゲしたり忙しそう。でもその中に一本通っている筋みたいなものは、悩みの多かった所謂「思春期」を通して形作られたものだと思います。

現在わたしたち家族は、それぞれの道を歩んでいます。上の弟は大阪でひとり暮らしをしていて、彼女に結婚を急かされているそうです。下の弟は実家に残って祖母と母を支えてくれています。母には彼氏がいて、文句を言いつつも楽しそうに幸せそうに暮らしています。祖母は90歳手前ですが、まだ元気に畑をしていて、今年もみかんを送ってくれました。父とは疎遠ですが、まだ健在なことは確かです。

あの頃は、家族という形の中に自分がありました。呪いとか柵に近いものだと思っていました。近いところにあって、逃げられない、振りほどけない。雁字搦め。ときには煩わしいとさえ思いました。
その呪縛と向き合い昇華したことで、みんな個人として生きられていると思います。苦しかったけど必要だった。楽しかったこともたくさんあるし、乗り越えたから生まれた絆があると思います。あのときとことん向き合って、嫌って、憎んで、愛して、慈しんだから、今手放しで好きで大切だと思える。それでも今後、介護とか相続とかで揉めることもあるのかな〜。当たり前だけど、わたしが何歳になっても家族は家族のままですものね。

いろいろ書きましたが、わたしの場合こうだっただけで、世の中にはいろいろな親がいることも知っています。家族という形を保ち続けることが正しいと思っているわけではありません。悩んで考えて選んだ道を信じて進むことこそ尊いと思っています。こんな人間もいるんだなって知ってもらえて、少しでも心の一部になれたらうれしいです。それでは。

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