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【中編小説】金色の猫 第24話(全33話)#創作大賞2024

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読了目安時間:約7分(約3,500字)

 背中に琴乃の声がして、慌ててクッションの下へ本と写真を隠した。しかし既に彼女はソファの横まで来ていて、はみ出していた写真の端を引っ張る。刺激のある爽やかな香りがして、火照った頬へ琴乃の冷たい濡れ髪が当たった。
「これ……そう、見たの」琴乃の口調は思いのほか落ち着いていた。「やっぱり、おと……藪さんと知り合いだったんだね……」
「やぶ……?」
 知らない名に眉を顰めたら、琴乃の爪先が写真を指す。彼女が爺さんの話をしているとわかり、俺は黙って首を縦に振った。口元へわずかに笑みを浮かべながら、琴乃は幾度も頷く。毛先から滴る雫がソファへ黒い染みを作った。
「その、写真に写っている若いほうの男の人がいるでしょう。彼は……私の……恋人。それで、桂一も知ってるその人は彼の父親なの」
 俺は写真のふたりをゆっくり見比べたあと、煙臭い前髪を掻き上げる。すぐにはすべてを飲み込めず、戸惑いのあまり漏らした声が笑っていた。
「あの日……青いキャップ、かぶってたでしょう。病院の床へ落ちてたのを拾ったら、鍔にお父さ……恒介ひさよしさんの筆名を見つけて、驚いた。須東すとう零四風れいしふう
「え……待って。恋人って。まだ付き合ってるわけじゃないよね」気をつけていても、語気へ苛立ちが滲む。
「……彼は、もういない」
 琴乃は口角を上げようとして、返って眉尻を下げた。彼女の視線はたしかに真っ直ぐ俺を捉えていたが、正しく見てはいなかった。ふいに口を突いて出た実のない「ごめん」が床へ転がる。きつく踵で踏み潰しても、俺が磨り減るだけだった。どくどくと知りすぎて泡立ち、すっかり滞った頭を垂れ、俺はひたすら琴乃を待った。
「あの帽子は晨太朗しんたろう……あ、私の……」
「しん……たろう? で、いいよ」投げやりに吐き捨てる。
「ん、ごめ……あれは晨太朗が恒介ひさよしさんへあげたものなの」

✴︎

 二〇〇八年の一月、琴乃は二十二歳、晨太朗が三十九歳だった。写真の喫茶店は晨太朗の母親、爺さん、すなわち恒介の妻が営んでいた喫茶店で、この七年前に彼女が亡くなったのを機に晨太朗が後を継いだそうだ。
 晨太朗が専門学生の時に恒介が家を出てから、ふたりは四年に一度、五輪ほどの頻度でしか会っていなかった。写真は恒介がふらっと店へ訪れた際、琴乃のデジタルカメラで撮影したらしい。
 恒介は店の周年祝いだと言って、高そうなチェリーリキュールと白い薔薇を一輪持って現れた。「どうせ俺の金だろ」晨太朗は毒づいていたが、花びらの端へ染みができるまで窓辺へ飾っていた。歌舞伎でホストをしていた十八のころから、晨太朗は酒と小説ばかりでふらふらしている父親へ毎月仕送りをしていたという。
 そしてこの日から数か後、恒介は忽然と行方を晦ました。父子はまったく連絡を取り合っていないため、恒介が借りているアパートの大家から保証人である晨太朗へ連絡があってわかった。
 晨太朗と琴乃で東京郊外にあるアパートへ行ったところ、恒介の部屋はもぬけの殻で空になった酒の缶や瓶が散乱していた。ガスも電気も止められ、大家によると家賃もしばらく払われていない。残された和製の違い棚に近寄れば、そこへ埃をかぶった須東零四風すとうれいしふうの小説があった。

「それが……これ?」
 俺はクッションの下から単行本を出す。
「うん、晨太朗はいらないって言ったんだけど、私がとっておいた。あの棚も」

 それからしばらく琴乃は一人で恒介を探した。「もうあいつなんか知らん」口ではそう突き放しつつも、晨太朗がネットで父の通うスナックを検索しているのを琴乃は知っていた。

「全然話してくれないからわからないんだけどね、あれだけ迷惑かけられても、放っておけない何かが、晨太朗の中にあったんだとおもうの」
 はじめ俺は晨太朗が理解できなかったが、彼の父親があの爺さんだと思ったら少し腑に落ちた。

 しかし恒介は見つからないまま六年の月日が経ち、琴乃は二十八歳、晨太朗は四十五歳になった。
 そして二〇一四年七月、晨太朗はステージⅣの大腸癌と診断された。もともと胃腸が弱い体質だったので多少腹の具合が悪くても気に留めず、彼は病院へも行かなかったそうだ。ある日店の調理場で蹲っているところを常連客が見つけ、そのまま救急車で病院へ運ばれた。そして何もしなければ三か月、治療を行えば六か月と、余命を宣告された。
 琴乃はこれらの事実をのちに、晨太朗が遺したノートから知る。晨太朗から連絡がないのは珍しくなかったので、今回は少し長いと感じたくらいだった。夏も終わりに近づいたころ、晨太朗から店を休みにするからどこか出かけないかと連絡があった。

「彼はひどい台風でも店を開けるの。十年近く付き合っていてはじめてだった」
 琴乃はあたかもさっき誘われたかのような顔で俯く。よくそんな男と十年も続いたと喉元まで出かけたが、すんでの所で飲み込んだ。

 連絡があった翌日の八月三〇日は琴乃の地元で花火大会が催される。当時、上司だった芽美に話したところ、快くというか半ば強引にシフトを代わってくれたそうだ。一か月ぶりに会った晨太朗は少し痩せたように見えたが、かぶっているキャップの色が黒いせいかと思った。
 気に入っていつもかぶっていた青いキャップはどうしたのか訊ねたところ、「親父の禿頭が……なんか寒そうだったから……」晨太朗は照れ臭そうに笑った。池袋駅周辺を歩いていたら空き缶を集めている老人がいて、よく見たら恒介だったという。
 琴乃曰く、「これはたぶん半分うそで、半分ほんと」だそう。余命宣告を受けて退院してから晨太朗は一人で恒介を探し回り、池袋駅でやっと見つけたのだろうと琴乃は言った。

「実家の近くの土手で花火を見ていたら、晨太朗が言うの。ごめんなって。なにがって聞いたけど、彼は答えなかった。私もへんなのって流しちゃって。もっとちゃんと聞いたらよかった。そしたら……」

 花火大会から二週間が過ぎても、晨太朗から連絡はない。仕事の休憩中になんとなくサイトを開いたら、トップへ「荒川に男性遺体、178センチほどの」という見出しが目に入った。晨太朗の身長と同じだった。文京区向丘にいる晨太朗がわざわざ埼玉まで行くとは考えにくかったが、その夜に琴乃は彼の自宅兼店舗へ向かった。
 終業後だったので着いたのは二十一時過ぎだった。チェリーパイの営業は二十時までだが、晨太朗はいつも二十一時半くらいまでは店にいる。しかし店に灯りはなく、扉の格子窓から中を覗いて驚いた。絵画や植物などの室内装飾からテーブルや椅子などの家具まで、何もかもすっかり片付けられていたのだ。ふと振り仰げば晨太朗のお母さん拘りの看板までなくなっていた。
 琴乃が店前で立ち尽くしていたら、後ろから声をかけられた。振り向くとそこには斜向かいで小さな花屋を営んでいる常連の老婦人が立っていた。「救急車を呼んでくれたのも、彼女だった」その老婦人は黒橡くろつるばみのノートとサボテンの鉢植えを琴乃に手渡し、「しんちゃんから頼まれてね」と声を潤ませる。老婦人の薬指には一滴の白い真珠がかがやいていた。

「そのサボテン……金星っていうの」
 琴乃が高窓へ目をやる。茶色い鉢から磯巾着のような植物が顔を出していた。

 結局、荒川で見つかった遺体は晨太朗のものではなかったが、冬になっても彼は見つからなかった。ノートには〈もう十分生きた〉〈迷惑をかけて死にたくはない〉〈俺はもうそっちにはいないだろう〉と記されていたが、琴乃はなかなか受け入れられなかった。
 仕事へも行けなくなり、休職して一年が過ぎたころ退職した。琴乃の日日はみるみる荒れ果てていったが、それでも芽美めみは鬱陶しいほど近くへいてくれたそうだ。芽美が琴乃を過剰に心配するのも彼女がそれに寛容なのも、その積み重ねた日日の上にあったのかと、俺は妙に納得した。

「あれから七年経って、このごろやっと、彼はもういないんだって……おもえる時間も増えた」
 俺の頭はいっそう白く濁っていた。琴乃が俺に何かを期待しているように思えなかった。彼女が晨太朗の名を唱えるたび、生きている俺が音もなく霞み、やがて指先から散り散りに霧散してしまう気がした。右腿へわずかに感じる金之助の呼吸だけが救いだった。
「そういえば……漱石は……?」
 琴乃は目をまるくし、人差し指で濡れた眦を拭う。俺は立ち上がり、彼女へティッシュケースを渡した。
「漱石? ああ、この子はルイーズ。この写真を撮った三年後に亡くなった。十九歳で、長生きだったの。ほら、鼻の下へぶちがないでしょう」

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