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【中編小説】金色の猫 第23話(全33話)#創作大賞2024

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読了目安時間:約3分(約1,500字)

 琴乃からもらった合鍵には円いサングラスをかけた豚のキーチャームがついている。玄関扉を開ければ、浴室から勢いよく流れる水音が聞こえた。「ただいま……」脱いだコートをハンガーへ掛けながら小さくつぶやくと、向こうから床板を蹴る爪のチャッチャッが近づいて来る。「金之助ただいま」
 足首へ纏わりつく猫へ気を配っていたら、ふいに廊下にある和製の違い棚が目に入った。俺の腰下ほどの高さしかないため今までほとんど気に留めなかったが、よく見ると中段へ文庫本が並んでいる。焚き火の朱い燃え殻がまだ胸で燻っていたのもあり、吸い寄せられるようにそこへしゃがんだ。
 恋愛小説と思しき触れたら崩れ落ちそうな題が並ぶ中、阿村が好きな小説家として挙げていた谷崎潤一郎の名があった。『細雪』と題された分厚い本へ人差し指を掛け、しなだれかかる本をもう片方の手で支えてゆっくり引き出す。文庫本とは思えない重みを膝の上へ感じながら棚に残った本を整えようとした時、後ろの列へ覗く筆名に心臓が跳ねた。

 須東零四風すとうれいしふう

 本を掻き分けて覗けば、そこには彼の小説が七冊も並んでいる。『酔猫歌すいびょうか』と他もう一冊の単行本を除いたら、他はすべて小学校の文集を思わせる質素な装丁だった。「え、なんで……」幻音堂げんおんどうの店主すらその名を知らなかったのに、どうして琴乃が手作りの本まで持っているのだろうか。ざらついた紙へ触れる指先が微かに震えるほど、激しい鼓動が胸へ轟いていた。
 俺はそこから単行本を抜き取り、手前の列へ谷崎潤一郎を戻した。鈍い黄色で『星折る男』と書かれた濃紺の表紙を掌で払い、廊下を見渡しながら立ち上がる。構ってもらえずに臍を曲げたのか、黒ぶちの猫はもういなかった。じわじわ痺れてきた足を引き摺ってリビングへ行き、テーブルへ本を置いてキッチンで手を洗う。急いでペーパータオルを取ったら、破れた端が床へ落ちた。
 ペットボトルから口へ水を流し込み、冷たい息をゆっくりと吐いた。日に焼けた本を両手で持ち、染みの目立つ小口を親指で慎重に開く。紙が剥がれる乾いた音と共に、足の間を何かが舞って絨毯へ落ちた。「2008.1.6」光沢のある白い紙へサインペンで書かれた不格好な数字が並ぶ。身を屈めて拾い上げ、表を返して目を疑った。
 四隅の角が削れてあちこち皺の入った古い写真には、レア物であるはずの青いヴィンテージキャップが映っていた。それをかぶっている髭面の男に心当たりはなかったが、琴乃の隣へ立っている不機嫌な男はよく知っている。
 ネルシャツにスラックスという身綺麗な出立ちに、無精髭のない頬はふっくらと健やかだ。しかし鳥打帽から覗く眼差しは間違いなく爺さん、須東零四風のものだった。そして黒いぶちのある潰れた顔の猫が、爺さんの腕に抱かれていた。
「漱石……」
 口へ添えた掌は熱く、しっとりと湿っている。写真を裏返し、あらためて念入りに表を観察した。爺さんの肩越しから見えるステンドグラスの窓は格子の真ん中へ紫の花が咲く。また、白壁に冬枯れの蔦が絡まり、玉蜀黍とうもろこしを思わせる色合いのタイルが並ぶ。そして写真の右上に見切れた緑青の銅製看板には、飾り文字で『喫茶室チェリーパイ』とあった。
 十四年前の琴乃は顎下くらいの短い黒髪を緩く巻き、白いフリルの襟がついた紺のワンピースを着ていた。厚ぼったい瞼とふくよかな頬があどけなく、垢抜けない感じもまた可愛らしい。写真の中で笑う琴乃の歳ちょうど俺と同じだと気づき、妙な気持ちになった。細めの黒いパンツに両手を突っ込み、こちらを睨みつける物憂い雰囲気の男と目が合う。一体こいつはだれなんだろう。
「あ、桂一、おかえり」

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