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【中編小説】金色の猫 第22話(全33話)#創作大賞2024

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 洗い立ての藍に一粒の金が揺らめき、とりとめのない平野には瑞瑞しい朱が滲む。俺たちは夜露に湿った枯草を踏み締め、店へ続く閑かな道を歩いていた。俺がありあまるほどの酒と食材が入ったビニル袋を両手へ下げているのに対し、阿村あむらはつまみや菓子、そして新聞紙に包まれたさつま芋(近所の農園でもらった)を抱えている。二月半ばの黄昏はまだ寒く、かじかむ掌へ持ち手が食い込むのを感じながら、軽やかに進む阿村を恨めしく思った。
「あ、そうだ、これ見てよ」
 阿村はさつま芋を左手へ持ち替え、スラックスのポケットからダラたらのぬいぐるみを出す。見ればふっくらとした白い腹が破れ、無残にもはらわたが溢れていた。
「社長にやられた」
「ああ……ついに……社長気に入ってたもんな」
 社長というのは店にいる猫、ゆやである。阿村のダラたらを銜えたゆやが店内を闊歩する姿を、この二週間で俺は何度も目にしていた。そしてその度に阿村が寝ているゆやにそっと忍び寄り、気づかれないように取り返しているのも知っていた。
「裁縫とか、できたり……」阿村は上目遣いで俺を見上げ、「しないか」すぐに俯いて視線を落とした。
「おい、諦めるの早くないか」
「じゃあ、できるの……?」ただでさえ眠たそうな阿村の目がいっそう虚ろに見える。
「ボタン、つけるくらいは……」おずおずと答えたら、阿村は「へえ、意外」とぞんざいに返す。そしてすぐに「ボタンつけてどうすんの。かわいくなるだけじゃん」とため息を吐いた。思わず笑ってしまった俺を、阿村が軽く睨みつける。「茉樹まじゅさんならできそうじゃない」店で働く女の名を挙げると、首を傾げて「できるかな、あの人」と今度は阿村が笑った。

 阿村は俺をガレージの裏手へ案内した。広広とした敷地は高い板塀に囲まれ、そこから木枝へと連なる温かな灯りで満たされている。少し低くなった一角に半円のベンチがあり、中央へ石の焚き火炉があった。
「あ、おつかれ」裏庭へ立っていた羽衣石ういしが顔を上げる。
 厚着の俺たちとは対照的に半袖一枚で、逞しい和彫りの腕にはなたが握られている。羽衣石の足元へ散らばった薪が目に入り、俺はなぜか胸を撫で下ろした。
「買い物お願いしちゃってごめんねえ」
 甲高い声が聞こえ、後ろから茉樹が顔を出した。店では高く結い上げている髪を、今夜は下している。癖の強い黒髪は胸の下くらいまであった。
「買い物は茉樹に頼めないからね」そう言って羽衣石は軽快な音を響かせる。
「ねーーやめて。もう盗まないってば」茉樹の吊目が分厚いレンズの奥で弧を描いた。
「あ、大丈夫。このふたり、いつもこんな感じだから。チーム前科持ち」
 俺が気遣わしげに見えたのか、陰から阿村が囁く。
「じゃあ、君たちは何? チームヒモ?」羽衣石の問いに弾けたように笑ったあと、阿村はこちらへ真剣な眼差しを向けた。「え? ヒモなの?」たしかに家賃や生活費を琴乃の収入に依存している以上、俗に言うヒモと認めざるを得ない。
「武藤さんのところ行ってくれたのね」
 俺が言い淀んでいる隙に、茉樹が阿村からさつま芋を取り上げた。

✴︎

 しなやかに踊りながら天へ昇る赤い火に、俺たちの頬は鮮やかに染まる。ほとばしる熱が瞳を焦がし、滲んだ輪郭がおぼろに溶けていく。ふと瓶ビールの蓋が弾けた音がして、俺は焚き火から顔を上げる。グラスを手にした羽衣石へ声をかけたら、「お酌してもらうのは好きじゃない」と断られた。
「じゃ、まあ、あらためて、桂一くんよろしくね」
 ゆらゆらと黄金のひかり揺らめくグラスを掲げ、羽衣石が照れ臭そうに俺を見る。彼の音頭に合わせて、俺たちは焔の周りで透きとおった音を鳴らした。あまり好きではなかったはずのビールが軽やかに喉を通り抜け、思わずグラスを確かめてしまった。「美味しいでしょう。この地ビール」羽衣石は満足げだ。俺の横から阿村がすかさず口を挟む。「僕が選んだんですよ」
 あらかじめ焚き火へ放り込んでおいたホイル焼きを拾い、茉樹が紙皿へ分けてくれた。俺が葱の味噌焼きで上顎を火傷している間、茉樹と阿村は見失った玉葱を捜索していた。耐熱グローブを嵌めた阿村が慎重にアルミホイルを剥がし、「トマトじゃん……」と肩を落とす。どうやら彼はトマトが大の苦手らしい。「おお、琉弐るにちゃん、大当たりじゃない」茉樹がトングをかちかちと鳴らす。羽衣石はといえば小さなフライパンを握り、俺たちのために黙黙と焼きそばを作ってくれていた。
「あ、それでさ、桂一くん、ヒモなの」
 やっと見つけた玉葱へ鰹節をかけながら、阿村が横目で俺を仰ぐ。重たい瞼からわずかに覗く瞳へ白く光が宿っていた。トマトから溢れ出す柔らかなチーズへ箸を入れたまま、茉樹が呆れたように顔を上げる。
「まあ、うん。げん……」〈現状は〉と続けたかったのだが、阿村の声に遮られた。「わーーーすげーー!」
「すごい……?」
「うん、僕の子どものころからの夢」
「ヒモが……?」
「うん! ヒモが!」
「はふぁでふぉ」茉樹がトマトを頬張る。ばかでしょ。彼女が何を言ったのか考えなくてもわかった。
「僕はわるくないとおもうよ。ヒモっていうと良くないふうに聞こえるけれど、パートナーが不満を持っていないならただの扶養じゃない。働きたい人が働いて、働きたくない人は働かない。そのほうが世の中にとっていいよ、きっと」
 紙皿へ焼きそばを盛りつけながら、羽衣石がにっこり笑う。こうばしいソースの匂いが食欲をそそる。現に焼きそばを作りたくない人として生唾を飲んで待っている以上、腹をぐうと鳴らしてしずかに口を紡ぐしかなかった。
 照りかがやく目玉焼きの黄身へ箸を入れたら、鮮やかな液がとろりと溢れ出した。それを程よく焦げついた麺に絡め口いっぱいに頬張れば、まろやかな甘みと癖になる辛みが口内を満たす。俺たちは会話もそこそこに一皿をあっという間に完食した。ここ数週間ほとんど自分が作ったものしか食べていなかったのに気づき、ふと琴乃のけんちんうどんを思い出す。
 それから羽衣石、阿村、茉樹の三人は残ったホイル焼きを開けながら、渾渾と読書の話を続けた。俺は夏目漱石『三四郎』と須東零四風すとうれいしふう酔猫歌すいびょうか』、そして中原中也の詩をいくつかしか知らない。しかし彼らの瞳へ映る灯の熱をこうして掌に感じられるのが嬉しく、気づいたころには手元のジンジャーエールがすっかりぬるくなっていた。

「え、桂一くん、うちの店名の由来知らないんだ」
 デザートを用意していた茉樹が目を見張る。羽衣石は面倒そうに眉根を寄せたが、間もなく刑務所にいたころの話をしてくれた。彼が刑務所にいたのはちょうど俺くらいの時分で、二十年以上前になるらしい(俺は羽衣石を三十代後半だと思っていたので、それより十も上だったのにまず驚いた)。
 同室の老いた受刑者の元へはどこからか本の差し入れが多く届いた。「君も読んでみるといい」収容されて三日目の夕食後、ふと老人から二冊の本を渡された。「本なんて」としばらく放っておいたが、七日目の夜に気になって文字の少ないほうを手に取った。それが中原中也の詩集だった。
「何気なく開いたページにあったのが、『月夜の浜辺』という詩でね。当時の僕にはわからない箇所がいくつかあって……でも……うん、まあ、いいや」
 そこまで話すと羽衣石はグラスへ残った酒を飲み干し、おもむろに立ち上がった。仄明かりに羽衣石の黒い影が浮かぶ。羽衣石は小さく息を吸い、掠れた低い声で「月夜の晩に……」とはじめた。
 まだ中原中也の詩集は『山羊の歌』しか知らない俺だったが、すぐに彼が「月夜の浜辺」をそらんじているとわかった。火の粉がしずかにはぜる音と、寄せては返す物哀しい旋律が澄み切った夜へ舞い上がる。鼓動が早くなり、血液が泡立つのがわかった。衣擦れや呼吸の音すら邪魔に思え、俺は息をころして羽衣石の鋭い眼光を見上げていた。㈠
「これが月浜亭つきはまていの由来」
 羽衣石が伏し目がちに笑い、三つの拍手が重なり合った。ベンチへ腰を下ろしてグラスへ手を伸ばした羽衣石に、茉樹がデザートの皿を渡す。皿には芯をくり抜いて蜂蜜にバター、シナモンを入れてホイル焼きした林檎に、バニラアイスを乗せた焼き芋が乗っていた。
「芋うまっ」すでに焼き芋へフォークを入れた阿村が感嘆の声を漏らす。俺は焚き火から拾った焼き芋をそのまま食べた。ねっとりと濃厚な甘さが口内を満たし、柔らかなぬくもりが食道を落ちていく。
「真っ当じゃないとされてきた私にとって、本は救い。本を読んでいるとね、たまに皮膚片くらいの、私を形作っている要素が見つかる。そしたら安心するの。どこかに私と似た細胞を持つ人がいるって。そうやって一晩やり過ごしたら、また本を探す。ここで」
 木製のマグカップを両手に、茉樹が空を振り仰ぐ。共鳴するように俺たちも顔を上げた。ここは街灯りが少ないので、黒橡くろつるばみの空へ星がよく見える。俺は冴えた青のオリオン座を見つけ、なんて素晴らしい夜だろうと柄にもないことを考えた。

■参考文献

㈠大岡昇平編.中原中也詩集.岩波書店,昭和五十六年,p256

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