見出し画像

【中編小説】金色の猫 第25話(全33話)#創作大賞2024

■物語を最初から読む

前話 | マガジン | 次話

読了目安時間:約3分(約1,500字)

 隣で眠る琴乃を起こさぬようベッドから滑り降り、そっと間仕切りを潜る。カーテンの隙間から差し込む曙光しょこうが天井を揺蕩い、高窓から鉢植えの明けの明星が俺を見下ろしていた。深く息を吸えば透きとおった匂いが鼻腔を満たし、国道を車が滑る心地好い雑音が遠くへ聞こえる。それはうんざりするほど美しい朝だった。
 しろがねに染まる洗面所で顔を洗えば、きりりと冷たい水が頬を指す。昏い鏡の中、腫れ上がった一重瞼の目が虚ろにこちらを見つめている。速射連発の花火さながら白い天井へ明滅するおもいを眺めているうち、時計の秒針は淡淡と文字盤を滑って行った。琴乃が用意してくれた硬めの歯ブラシで前歯を強く擦ったら、赤く血が滲んだ。
 黒い排水溝へ吸い込まれていく鮮血に、俺は母親が飛んだ日を思い出していた。たしかあれもこういうしずかな冬の朝だった。

 当時、十七歳の俺は高校生活の他にも、家事やアルバイトで疲弊していた。二年前に母親が鬱病と診断され、長年看護師として勤めていた病院を一年間休職したものの、症状はひどくなるいっぽうで退職したばかりだった。浮き沈みのはげしい母親から逃げるように外泊する夜も増え、その朝も俺は年上のセフレの家へいた。
「壁……壁から……蛾が飛び立って……つかもうとしたの、白い、光を……そしたらだれかが私を突き落とした」
 伯父からの連絡で病院へ駆けつけたら、分厚いギプスで両脚を固定された母親がいた。マンションのベランダから転落したものの、足から落ちて助かったらしい。それでもこめかみにはガーゼが貼られ、目の下は赤黒く腫れていた。「痛い」「ねえ、帰りたい」「お兄ちゃん」幼児のように懇願する女のこころもとない声が、漠たる意識の中でしずかに遠のく。「母さん」俺はどうしてもその女へそう呼びかけることができなかった。
 母親はそのまま精神病院へ入院した。あれから五年、二度ほど見舞ったきり、俺は彼女のもとを訪れていない。

 間仕切りカーテンの隙間を覗いたら、琴乃は布団から尻を出して熟睡していた。布団をそっと掛け直してやると、むずかりながら寝返りを打った。仕事のない日、彼女は大抵十一時ごろまで寝る。寝すぎてしまうからと、普段あまり飲まない眠剤の包装シートがサイドテーブルにあった。俺はカーテンをぴっちり合わせ、しずかに踵を返した。
 金之助は阿村あむらからもらったダラたらのぬいぐるみを抱え、キャットタワーのボウルへ溶けていた。生成りのショップバッグと大きな紙袋を片手に持ち、淡く白い陽光が滲む部屋を見渡す。一か月前に比べたら、たいぶ荷物が増えた。そういえば今日は電車で代官山へ出かける予定だった。ちょうどふたりの休みが重なるからと、一週間前に琴乃と話したのを思い出す。しかしとても出かける気分にはなれなかった。
 廊下にある違い棚の上へ須東零四風すとうれいしふうの単行本と、幻音堂で買った『酔猫歌すいびょうか』の文庫本を置く。そして青いキャップをそこへ重ね、ゆっくりと鍔から指を離した。リビングの窓から差し込む一筋の光がキャップのクラウンを鮮やかに照らす。俺はしばらくそこへ立っていたが、ふと『酔猫歌』を開き、爺さんが包紙で折った金の猫を取った。それをコートのポケットへ入れ、玄関へ向かって歩き出した。
 もう帰らない家の扉を閉め、エレベーターを下ったら、豚のキーチャームがついた合鍵を琴乃の部屋のポストへ入れる。寝不足で乾ききった瞳に冴えた朝陽が眩しく、俺は大きく生欠伸をした。熱い一粒がとろりと頬を伝い、マスクを濡らす。だれもいない閑かな早朝の住宅街を早足で歩いていると、どこからか透きとおった鈴の音が聞こえた気がした。

前話 | マガジン | 次話

■物語を最初から読む

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?