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とある素敵なところのお話

大きな大きな北海道の、いくつもある素敵な素敵な森のひとつ、幾多の木々と多様な動物が住む、それはそれは美しくて綺麗で暖かく、気温ではちょっと寒い森。
北海道は滝野川町、滝西という町のなかのとある森の中にはとっても豊かな村がある。
それは「もり」の子どもの村。
今回はそんな村の紹介と、僕の思い出話をしたい。(あくまで思い出話、小学生の僕の記憶とどこかで聞いた気がする知識で書いてます。本当のことか、そうでないかはご自身で見つけに行ってね)

もくじ
・もりの子ども村の紹介
・おじじとおばば
・「もり」の漢字について
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・僕と、子どもの村(興味ある人だけでいいよ!)

「もり」の子どもの村

もりの子どもの村。(一旦、森の字はひらがな表記とさせていただく)
それは、北海道紋別郡の滝上町の滝西という所にある、小さなキャンプ場のことだ。
しかしながら、普通想像されるキャンプ場とはちょっと違う。
まず、キャンプ場にたどり着くには舗装された道路から離れ砂利道を4.5kmほど進む必要がある。
行き帰りはスタッフの車でのお迎えがあるものの、自分の理由で外出する際は熊鈴と呼ばれる熊よけの鈴を携え、長い長い道を歩く。
誰から見ても僻地と言えるだろう場所にもりの子どもの村はある。

どんな所?
(僕が訪れた時の記憶を元に書いているため、情報は8~10年くらい前のものです。今は違ったすがたかたちをしているかもね)

川から自分のテントに向かう道だった気がする

この場所にあるのは、いくつかのテントと、木と木の間にブルーシートをかけた簡易的な屋根のある炊事場、後は自然。
他のものはなんにもない。
電気はおろか、ガス、水道に至るまでのライフラインは何も無い。
丸太と、毎日夕方4時にある翌日昼までの食材が貰える配給。貰えるものはそれくらい。
自分たちで丸太を割って薪にして、大きめの丸太と石を駆使して簡易的な竈をつくり、川の水を汲んできて煮沸し、配給で貰った食材を調理していただく。

また、そこにある施設も温かみあるものばかり。毎年の参加者や滝西の町に住みながら運営する人達が全て手作りで作り上げたものだけがある。

配給小屋とよばれる毎日ご飯を配る建物。
備品小屋という火をつけるための新聞紙や、ご飯を作る鍋やフライパンが置いてあるところ。
ふたつだけある五右衛門風呂。
ボットン式のトイレ。

ここまで読んでくださった方にはもうお分かりでしょう。とっても不便。でも、でもね、だからこそ、人と繋がり、共に手を取り合って生活する、何よりも自由で、あったかくて、涼しくて、優しいキャンプ場がそこにはあります。


「おじじ」と「おばば」

さて、そんなキャンプ場を開いたふたりの人がいる。その2人はおじじ、おばば、と呼ばれている夫婦。(みんなそう呼んでいたので名前は知らない)
僕が行った時ですでにお二方とも85歳は超えていた、と記憶している。
そこふたりが若かりし頃、子供たちの居場所として本屋さんの2階をひまわり文庫として名付け開いた。そこが群馬、富士、北海道と場所を変え、今の子どもの村があると言う。

まずはおじじの話から。
当日の僕の印象としては、「仙人みたいな人だな」とおもっていた。
子どもの村では、毎朝8時に全員会議という朝礼のようなものがある。寝ぼけまなこのまま参加していた僕は内容をハッキリ覚えて居ないのだが、
毎朝おじじの話を聞く時間があったことは確かだ。
おじじは色んな話をしてくれた。
あそこに見える木さんはこんな名前だとか、そこに生えてる草さんはそんな名前だとか、今ここにいる虫さんはこういう名前なんだとか。
おじじはこの村にある全ての木の名前を言えるそうだ。
色んな命が集まってこの村があることを教えてくれていた。木や草の名前を呼ぶ時に、さん付けをしていたことを覚えている。

しかし、最も印象に残っているのは8月6日になると話してくれるお話。
8月6日。日本人としては忘れてはならない日。とってもとっても大事な、多くのいのちが失われた日。そう、広島の地に原爆が投下された日だ。

おじじは日本軍の軍人だった。
この日になると、おじじはいっそう真剣な面持ちで、スケッチブックを持って語り出す。

いつもの様に基地で作業をしていると、急に大きな音と衝撃が駆け巡る。
慌ててなんだなんだと外に出ると、広島の方面にあるものが見える。
おじじが書くのは原爆のキノコ雲。
おじじは、それを生で、その時見ていたという。
スケッチブックに書かれたそれは子どもながらに恐かった。
そこから暫くして敗戦が伝えられ、軍から備蓄の缶詰などを貰いバックに詰め、おじじは帰路につく。
その帰る途中で通ったのは、地獄と化した広島の町。
皮膚が焼けた爛れてた人、体の一部が黒く炭の様になっている人、苦しみが詰まった呻き声、黒い雨に打たれて体調不良に嘆く人。

おじじはそれも見てきた。
こんなにも苦しんでいる人がいること、それなのに自分だけが軍から缶詰など食料を貰えて生きていること。そんな現実に憤り、その憤りを越す平和への願い。
そんな思いを、おじじは毎年この日になるとしてくれる。

正直僕は、教科書でみたくらいのことが、急に質量を持った話に代わり、戸惑いのままに当時は終わっていた。でも、平和の大切さというのは何か、知識以外のものとして染み込んだ気がしていいる。

そしておじじ自身も、この原爆をきっかけで死にかけている。
原爆投下直後の広島を歩いていたのだから、当然被曝しており、医者から余命2年を宣告されたそうだ。
しかしながら、様々な縁から森に至り、昨年まで生きていた。

僕はおじじは死なないんじゃないかとぼんやり当時は思っていたのだ。
当時でもちゃんと見た目はシワシワのおじいちゃんだったが、見た目からは考えられない力強さのある人だった。

おじじは毎日、五右衛門風呂に入ったあと、なんとそのまま川に浸かる。
それを夏の日ばかりか、春の日も、秋の日も、雪の降り積る北海道の真冬の日も毎日。

ある時、僕が薪を作るため、丸太を斧で割ろうと苦戦していた。年上のお兄さんも協力してくれたのだが全く斧が進んでいかない。
そんな中、おじじがやってきて、ゆるりと斧を持ち上げると、丸太スパンっと真っ二つになった。
どう見ても脱力していた。なのに割れた。

おじじからは何とも形容できない生命力みたいなものが溢れていた。だから一生死なないと思っていた。


そしておばば。
僕は正直そんなにおばばと過ごした時間はない。
いつもおじじの隣にいて、ニコニコと微笑んでいた。藍染教室をやっていたような気がする。
周りの大人に聞く感じ、持病で後年はあまり動けなかったらしい。
僕は多分、おばばの本当にすごいところを見れていない。
でも、強さを感じるおじじに対して、おばばからはどこまでも広がるような優しさを感じた。
素敵なご夫婦だったとおもう。

今回これを書こうと思ったのは、おばばの訃報が届いてしまった為だ。
もりの子どもの村つうしんで、おばば、おじじ、その2人を支え続けた人たちの文章を読んで、思い出して、書かずにはいられなくなった。


「もり」の漢字について

ここまで読んでくださったのに申し訳ないのだけれど、1番上までスクロールして、サムネの写真にある看板を見てみてほしい。
森の字が少し違うことに気がつくでしょう。
これがいままで「もり」表記をしていた理由だ。
この森の字は、おじじが作った漢字なのです。
木と、水と、土と、色々な要素が集まって、関係し合って、支え合ってなりたっている。
そんな思いが込められた漢字です。素敵じゃない?


僕ともりの子どもの村

ここから先は完全に自分語りなので、読まなくても全然構いません。なんならここまで読んでくれただけでも光栄です。ありがとね。
さてさて、ここまで熱く語ってきた訳ですが、僕がこのキャンプ場にいったのはたったの二夏、合計三週間だけ。
ただ、僕の人生の大きな転換に繋がるきっかけでもあったと思う。

当時の僕は小学校の4か5年生。産まれてこの方東京から出たことはなく、田舎なんて絶対に行くもんか。そう思っていた。
この場所に行くきっかけは今から40年以上前、幼い母親がこのキャンプの第2回の開催に行っていたことに由来する。
そこから世代が代わり、そろそろ行かせても大丈夫な年齢になったと判断したのか僕と弟を送り出す決断をしたのだろう。
かなり駄々をこねて行きたがらなかったことを覚えている。東京で生まれ育ち、便利さこそ、都会こそ全てだと考えていた当時の僕には、ライフラインの無い自然の中なんて想像がつかなった。

でも行ってみたら、最高だった。
自然の素晴らしさと、本当の自由を知ることが出来た。そこには木があって、川があって、頼れるお兄さんお姉さんたちがいて、同年代の子や、優しさ大人の人、おじじとおばばが居た。
それだけで充分だと知った。

好きな時間に起きて、好きな時間に眠りについて。
木と木の間を走り抜けて、川に入って。ブルーシートの屋根の下で昼寝をして。
夜になったら夕飯を作る役目を終えた焚き火を囲んで話をして、夜食をたべたり、トランプしたり、王様ゲームしたり。
時には懐中電灯片手に探検して。
暇を潰すために、ゲームをするか、遊びにいくかを考えるそれは、本当の自由では無いと知った。

家に戻るときには、もりへ帰りたいと言うようになっていた。

そこから時間がたって、中学生活のなかでその気持ちは忘れてしまっていたけれど、この出会いがもしもなかったら。
きっと隠岐の島という離島にある、常識外れの、チャレンジングで、大きく私を変えてくれた高校へ進む選択肢は取れなかっただろう。

今、もりはどんな姿をしているのだろう。
おじじは変化を恐れるなと、書いていた。子どもが未来を担うことを大きく期待して、平和を願って、この場所を守り続けた。
おじじとおばば亡き今、もりの子どもの村は、もりの子どもの村に育てられた人に受け継がれたと言う。
関わった時間は短いかも知れないけれど、大きなものを与えてくれた所。時間に見合わない大きな感情を僕が向けている所。
また、帰りたいと、おじじと、おばばの書き残した文章を読んで、深く思った。

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