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noteという物語と哲学

noteを読んでいると、人の"物語"を読んでいる気分になる。
人の体験した話というのは、思想であり、伝承であり、歴史であり、哲学である。

人の数だけ物語がある。
私は人の体験談を聞くのが好きだ。
成功談も失敗談も。
失敗談を聞くのが好きだというのは、決してシャーデンフロイデ的な意味ではない。
一般に偉人の成功談なんかがよく語られるが、得てして役に立つのは失敗談の方である。
そう、失敗談には価値があるのだ。

よくテレビのワイドショーなんかで凶悪事件を起こした犯人の素性についてセンセーショナルに語られることがある。
そんな中で犯人の学生時代の卒業アルバムなんかが公開されることもある(最近はあまり見なくなったが)。
あれを見るたび「そこまでする必要があるのだろうか?ただの野次馬根性ではないか」と思っていた。
事実そうでもあるのかもしれないが、それだけの意味ではないのだということに最近になって気づいた。

あれは、同情をしているのだ。
そんな不幸な目に会ったのならそんな事件を起こしてしまうこともあるのかもしれないね、と。

noteがやさしい理由。それは「痛みを知っている人が多い」からだと思う。
顔も知らない人だからこそ打ち明けられる、そんな良さがnoteにはあるのかもしれない。

当たり前だが、みんながみんな恵まれて生まれてくるわけではない。
生まれつき大きな障害を持っていたり、家庭環境が悪かったり、金銭的に苦しかったり、それが理由でいじめられたり、酷い事件に巻き込まれたり。
一見恵まれていそうな人にも、失敗できない苦しみだったり、妬まれる苦しみだったり、人には言えない苦しみがあるだろう。
どんな人にも、他人にはわからない苦しみがある。

それでも。

幸せになる権利は全員にあると思う。
実際、日本でも憲法13条に幸福追求権というものが定められている。
ジェレミー・ベンサムは最大多数の最大幸福という言葉を掲げた。

幸せのカタチは人によって違う。違っていい、いや、違って然るべきなのだ。

日本では哲学が軽視されがちだと考えるが、個人が自分の幸せについて考えることは非常に重要なことである。
メディアや他人によって押しつけられた幸福像ではなく、自分の思い描く幸せを形にすることこそが哲学なのではないかと考える。

私の考える幸せについては以下の記事に示した。


多くの人がそれぞれの"幸せ"を享受できるようになれば。

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