ソーシャルメディア/SNSの受容から考える情報化社会における解釈・批評の余白について

東京ポッド許可局「お笑い当事者論」論(下記リンク)を聴いて考えたことをまとめました。
https://www.tbsradio.jp/articles/44035/


2011年3月11日、Twitterが家族や友人への連絡手段となり、被害状況の情報源となった。それらをYouTubeが保存し残す場所となった。

このコミュニケーション革命が我々に与えたものは何だったのだろう。

2011年以前はテレビの出演者のことを”芸能人””タレント”といい、それら業界全体に属する人のことを”業界人”と(自称も含め)呼んだ。
テレビに出演しない人のことは"一般人"と呼ばれていた。

しかしこの革命後、様相は一変した。
"一般人"でも発信力とそれに伴う受信力を得ることができる可能性が増えた。
このことにより、"アルファツイッタラー""YouTuber"と呼ばれる階層が形成されたのだ。

何か事件や事故、天災、スポーツなどの試合が行われるたびに、それらに関する動向が切り取られ様々な形式で発信される。
"実況"と呼ばれたそれらの活動はその集合及び蓄積により、社会の成功や失敗、光や闇の多くが可視化された。

革命前の社会では事実と真実は違うもので、当事者以外は"真実"にたどりつくのは容易ではなかった。
しかし、革命後の社会では、多方向からの事実の積み重ね及びその保存がソーシャルメディア/SNS上で容易に行われるようになったのだ。
そうして積み上げられた先には"真実"があるとされた。それはまるで"真実"の可視化とでも言える状態だ。
可視化されるものこそ正しく、可視化されないものは正しくないという空気が生じたのだ。

また一方では、検索と最適化のサイクルが、都市伝説やデマの一大ブームが起きるという両極的な状態になるのも言及しておく。

可視化の流れに戻ると、情報の可視化の流れの極地は発信主体による自己言及ではないか。
ソーシャルメディア/SNSの使用が一般化するにつれて、現実社会での発信主体(政治家、”芸能人”、”スポーツ選手”他)も発信するようになる。
いわゆる”一般人”とされたユーザーとの双方向のコミュニケーションが取られる中で、自身が行ったことに対する自己言及がなされるようになる。
すべての論争において、"真実"の可視化主義者が当事者の発信を引用するとそこで真実が明らかにされたということになり、論争が終結してしまうのだ。

この流れの最大の問題点は当事者の自己言及が正しいとは限らず、受容者の態度としては常に嘘があると思いながら理解することが必要だということだ。

文芸評論家ではないが、優れた作品とは受容者に対して様々な解釈・受け取り方を受認するという点ではないだろうか。
様々な読みに耐えうる力、そしてその余白こそ、作品としての力なのではないだろうか。
その余白にまで光をすべて当てようとするのが、"真実"の可視化主義者なのだ。

〇〇のときの裏話、これってあのときどうだったのかというコンテンツは"芸能人"や現役を退いたスポーツ選手のソーシャルメディア/SNSでは安定した人気を誇る。

論を飛躍すると、このような極端な可視化が、都市におけるジェントリフィケーションなどを生じさせ、人間関係においては位置情報の相互開示、使役関係でいえばバイトテロ炎上事件などという自体に発展し、昨今の経済格差を生じさせる一因となっているのだ。

社会の中で生じる事象やその中で発信されるものには余白が必要で、受容者がそれぞれの見立てでそれぞれの価値を見出していくことが私の考える多様な社会像だ。

冒頭のリンク先の番組を聴き、今後の自身への自戒という意味も込めて述べてきた。(自己言及だが笑)

最後に、もちろんこのお三方がそれぞれの見立てを語り合う番組を配信し続けていることを考慮すると、「独自の解釈・見立て主義者」(!?)としてのポジショントークととれなくもないが、「価値は押し付けられるものではなく見出すもの主義者」の私も全面的に支持できる論だった。

以上

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