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見捨てられ不安の奥(スキーマ実践編3)

僕はスキーマを肯定するために障害を利用している。そのことに気がついた。まとまっていないが書きながら見えてくるものがあるだろう。


見捨てられスキーマの中でも、「そのままの自分は誰からも受け入れられない」という思いが根強くある。これがポイントとなる。

しかし僕にも日常的にやり取りをする人たちがいる。そして人と仲良くすることは見捨てられスキーマに反することでもある。だからその事実をそのまま受け入れることはできない。そこで条件付きで認めるようになった。

その条件とは例えば障害のこと。僕は障害福祉の会社に努めていて、社内では障害のことはオープンにしている。障害のある人が多く在籍しているため、そのことがきっかけで仲良くなれた人たちもいる。ここまでの流れはいいだろう。

実際仲良くなるまでは問題ない。でも関係が続いていくとどこかで不安が生じてくる。スキーマと現実が一致しないためである。
そして「見捨てられスキーマ」と「仲良くしているという現実」の齟齬を埋めるためにこんな思考にたどり着く。

「僕ではなく、障害者ということに価値があって仲良くしてくれている」
こうやって条件付きでの関係をもってくれているとすることで、一見すると齟齬は解消される。だから今の環境は過ごしやすい。障害者だから、という旗印の元で人とのつながりもスキーマも維持できている。

すごく嫌なやり方だ。正直書いてみてなんだこいつはと思った。障害を利用している。すぐには信じられなかったけど、実感として合っていると思う。
これを公開するは抵抗がある。バカみたいだという考えが浮かぶ。書いたからにはそれも分析してしまおう。

「こんな考えバカみたいだ」→「恥でしかない」→「性根が腐っている→「みんなに嫌われる」→「見捨てられる」
というように展開されていく。やはり見捨てられスキーマは強固だ。

僕は障害を利用してスキーマを守っていた。障害だけでない。様々な属性を利用してきた。年齢、性別、所属、趣味、猫。
「あの作品が好きだから話してくれているんだ。」
「一緒のチームを応援しているから仲良くしてくれるんだ」
何かと理由をつけて、そのままの自分が受け入れられるのを否定していた。

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ここまで書いて、別にそれでいいんじゃないか?と思った。

①そもそも大人の付き合いって属性メインじゃないのか。週明けにサッカーの勝敗を語り合う人とか、音楽の情報を交換して一緒にフェス行く人とか。

②それに趣味を通しても自分の価値観が現れる。僕はフェスに行ったら勝手に行動する。集合地点だけ決めておいて、後は各自好きなものを観ようというスタンスだ。そこには好きなものは誰かに強制されるものではないし、押し付けるものでもないという価値観がある。

音楽だと一人になることも厭わなくなる。こんな自分もいたのかと目から鱗が落ちた気分だ。共通のもので盛り上がれるなんていい関係だ。障害のことを共感し合う仲でもいいじゃないか。一部の自分でも受け入れてもらうことは、十分価値のあることだ。

うん、頭でわかってるけどそれじゃ満たされなかった。なんでだろうと考えると、どうやら見捨てられ不安のもっと奥には「そのままの自分を全部受け入れてもらわなければ意味がない」という価値観があるようだ。

これは仮定だが、他の方の記事で「親を理想化している」というのがあってそれが当てはまる気がする。「母親がいたらきっとすべてを受け入れてくれた」という考えをどこかで持っていた。それがこの0か100かの価値観につながっているのではないかと思う。

僕にはいろいろな関係の人がいる。一部の話しかしなくても、そこから見える価値観が好きで付き合っている。おそらく相手もそうだろう。だから関係が続いている。文章にするととても普通だ。

僕が問題だと思っていたことは、問題ではなかった。スキーマが歪んでいることで、何でもないことでも問題になってしまう。
一つずつ解いていこう。見捨てられ不安の奥にある「すべてを受け入れてほしい」という欲求。よく出てきてくれたね。一緒に歩こう。

なんだかすごくスッキリした。「このままじゃいけない」とか「スキーマを変えなきゃ」とかいう思いがあったんだな。そのままの自分を受け入れていないのは僕自身だった。
今回は何も決めずに書いてきたけど、ぼんやりスキーマの着地点が見えてきた。

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