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多様性をサステナブルにするには?

多様性を認めるってどんな社会?

ひとはそれぞれ違うよね。それぞれの違いを認めようね。個性を伸ばそうね。よく聞かれる言葉ですし、美しい世界だと思いますし、その重要性は岳れもがわかっていると思うのですが、実際どのくらいできているものなのでしょうか?もしできていれば、家庭や職場、あるいは国同士で意見が折り合わず喧嘩になったり、罵りあったりしていないはずですね。そういった論争について、聞かない日はないと思いますので、やっぱりわりとできてないんじゃないかな、というのは自戒も含めた率直な感想です。

多様性を認めるのは、誰?

こういうことってどこに原因があるのでしょうか。多様性を認める、と言った時の主語はなんでしょうか。対象は社会であったり、文化であったり、個性であったり、と様々ですが、詰まるところ主語は「個人」ではないかと思います。その個人の総体が社会であるわけで、多様性を認められる社会を作るためには、個人が多様性を認めるより他ないとおもいます。

多様性許容の阻害要因

では、個々人が、他者(人だけでない、自分以外のもの全部)の多様性を認めようとする時、何が大事となるでしょうか。これはすぐに答えることは難しいように思いますので、逆に考えてみたいと思います。他者の多様性を認めることの危険性は何か、何が多様性を認めることを阻害しているか、という問いです。

自分と違う意見を認めることが自分の意見の否定、ひいては自分の存在の否定に繋がると感じるからではないでしょうか。具体的な例はたくさんあると思いますが、たとえば、宗教であれば、キリスト教のみを信じてきた人がイスラム教も信じようとするとどうしても矛盾が生じる。その逆もおきると思います。自分の信条の土台としていたものが揺らぐことによって、自分自身が間違っている、ということになる。日本の場合、宗教ではわかりにくいかもしれません。日本では、それが「普通」とか「常識」といったものにとってかえて考えることが可能かもしれません。学校でこのようにならった、お父さんお母さんからこれが普通と教わった、というもの。それが聖典となりそれを否定されると自己の否定につながってしまう。だから、多様性を認めることが難しくなるように感じます。

浅い多様性許容=非認知・村八分

その一方で、学校現場ではやれ「個性を伸ばしましょう」だの「違いを認めましょう」と言われる。これはとても難しい、と感じる子供(や親)がいるのではないでしょうか。違いを認めてしまうと、自分の聖域が脅かされてしまう、そう感じる人には、多様性の許容は危機でしかない。でも、そのような人たちも頭では、違いを認めないといけないことはわかっている。でも認められない。どうするか。関わらない、見ない、聞かない、知らなかったということにする。本人たちは気付いていないかもしれません。けれども、彼らはおそらく自分たちに不都合な人たちの存在を消すことによって、耐用性を認める、ということと自分たちの信条を大事にするということを両立しているのではないか、と思うのです。

それはどうしてそう思うか。古くを言えば、村八分という言葉があるように、自分たちに不利益となる家庭は文字通り「ソーシャルディスタンス」されました。学校ではどうか、親御さんが、あの子とは遊んではいけません、だとか、あの子の家に行ってはいけませんとか、緩い形での境界線を引こうとする家庭はしばしば見受けられます。このような事例はまさに、自分たちの都合の良い人たちだけで集まっておきたい、そういう楽園で生活したいという欲望が甲斐見えます。そうやって他を排除することで自分たちの両分を守ってきたのだと思います。

このような多様性の確保、つまり単にここの違う人たちが棲み分けをしている、という世の中は多様性が豊か、と言えるのでしょうか。このような多様性の確保の仕方にはどのような弊害があるのでしょうか。重大な欠陥は強靭性がない、ということです。竹がしなるように、危機に対するレジリエンスがないと思います。どういうことか。何か、自然災害が起きた時、このような社会ではおそらく、互いを排斥し合うことになると思います。自己の生存を第一義にするからです。責任や被害を他に押し付け、自分だけが生き残ろうとする。そしてそのための理論武装を行う。そういう社会になってしまうのではないか、と思うのです。これを僕は「浅い多様性許容」と考えます。

深い多様性許容=強靭性向上、ブレンディング、共助、相乗

では、「深い多様性許容」とは何か。これは、他者の信じるものを認めたとしても自己の否定に至らない、ということを真に理解することです。そう、これまで考えていた、他者を認めると自己が否定されるという論理そのものが成り立っていなかった、ということを理解することです。もっといえば、人はそれぞれのフィクション(解釈)に住んでいることを認識することだと思います。

先の、あの子の家に行ってはいけません、という話で言えば、子供がその家に行っても、なにかいたずらを学んだり、もしかしたら悪いマナーを学ぶかもしれません。親御さんは一瞬不快な思いをするかもしれません。だけど、子供にとっては、その経験をゼロにされるよりは圧倒的にプラスの多い単なる学びなのだと思います。そういう違った文化との触れ合いがどんどん人の深みになる。それは頭や体をとおして、まるでミックスジュースのようにブレンドされていくのです。親が心配しているようなことは十中八九起こりません。むしろそのような経験をできずに大きくなってしまった人の方が、異なるものと対峙した時にどうしていけば良いかわからなくなるのではないかと思います。そういうふうにいろんなものを自分の中に栄養として取り込んでいく態度でいけば、真の多様性というものが体得できるのではないかと思います。

課題:体得

では、大人になってから浅い多様性から深い多様性に移行できるのか。これはかなり大きな疑問符がつくのではないでしょうか。できるとしてもかなりの努力を要するのではないでしょうか。手書きからワープロに変わる以上に自分の中のOSを変えることが強いられるように思います。手遅れとは言えないですが、特効薬もないようにおもいます。(もっと考えたい点ではある)なぜ難しいかというと、こればかりは「体得」するもので、どれだけ言葉を尽くして頭でわかろうとしても、その感覚がない人にはいつまでたってもピンとこないからです。多様性というのは、たぶん認められた、という経験がないと、人に対してできない性格のもののようです。自分が認められたことがないのに、他者のものだけ認めるのは怖いですよね。だから、認めよう認めようとしても、もしその人が小さい時に、親から、あるいは他者からあるがままを認めてもらった、という安心感のある原体験がないかぎり、他者を認めることに対する不安感を拭うことはできないと思います。

持続可能性を意識する

いろいろと考えてみましたが、自分が多様性について、他者を認めることによる不安を感じない、感じにくいという人が、少なくともそれを次の世代に対してもしておく。そのように受け継ぐ努力を怠らないでおくことが重要かと思います。




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