私と娘と息子の願いごと
7月が始まった今、娘の関心ごとは七夕である。先日、保育園で短冊をもらってきて家で記入して、保育園の笹に吊るした。
さらに友達の短冊も読んでいるようで、◯◯ちゃんはケーキ屋さんになりたいみたい、◯◯くんは仮面ライダーになりたいんだってといろいろ教えてくれる。
子どもがいないころは、七夕なんてほとんど意識しなかった。大人になってからは、短冊や笹が身近なものではなくなっていた。
しかし子どもがいると、保育園でその時期ごとにいろいろやってくれるので、季節の行事を意識できるようになった。
そして私も小さいころは毎年、短冊に願いごとを書いていたなと遠い記憶が蘇ってきた。
一番昔の七夕の記憶はおそらく幼稚園の年長組の時のことである。
その時の願いごとは「船乗りさんになりたい」であった。母が短冊にそう書いてくれたことを覚えている。
船乗りさんとはあまり幼稚園児らしくないと感じられるだろうがこれには訳がある。
それは父が造船会社のエンジニアだったから、幼い頃の私はそんな願いごとをした。
父は基本的にエンジンを設計する役割であった。
ただ船を試運転したり、船を海外のお客さんに渡すために出来上がったばかり船を動かしてお客さんの国まで行くのだが、それに同乗したりすることがあった。
試運転の途中でエンジンのトラブルがあった時に原因を考えたり、海外のお客さんにエンジンの仕様を説明しなければなかったりしたから父も船に乗る必要があった。
そうすると長い時は父は1ヶ月くらい海の上であった。
特に父が若く私が小さい頃は船に乗る仕事が頻繁で、1年のうち合計3ヶ月くらいは父は船上で暮らしているなんて年もあった。
幼い頃の私はなぜ父がいないのかよく母に聞いていた。そのたびに母は「パパは船に乗っているよ」と答えた。
きっとこれが印象的で幼い頃の私は船乗りさんになりたいと言ったのだろう。
父のようになりたいという、幼いころの素直な気持ちの表れだったように思う。
だから幼稚園の年長組のときに船員になりたいという気持ちになったのだろう。
この幼いころに感じた気持ちはわりと長く続き、中学生の頃まで船員になりたいと思っていた。東京商船大学(現在は東京水産大学と合併して東京海洋大学)に行きたいなと中学生くらいまでは思っていた。そして一等航海士になって世界中の海を航海したいなと考えていた。
ただいろいろ調べていくと船員の世界はなかなか厳しそうだということを知り、わりと根性のなかった高校生の時にはその夢を諦めたのではあるが。
娘が七夕の話をするとそんな小さい頃の私の願いごとを思い出した。
年中組の年に当たる5歳の娘の今年の願いごとは「ドレスデザイナーになれますように」である。覚えたてのカタカナも駆使して短冊に自分で書いていた。
私は5歳の時は文字なんて到底書けなかったので、自分の娘ながら不思議な感じがする。
しかも私の家系はデザイナーと呼ばれるような職種に誰も就いていないので、なぜそう思ったのかも謎である。
娘になんでドレスデザイナーになりたいかと聞くと「かわいいドレスを作ってみんなに喜んで欲しい」となかなか殊勝なことを言う。
きっと保育園で先生たちの話を聞いて、娘なりにいろいろ考えているのであろう。
ドレスデザイナーなんて言葉も、家では誰も言わないのできっと保育園の先生から教わったのだろう。
「みんなに喜んで欲しい」なんてこともきっと保育園の活動の中で生まれた気持ちだと思う。
起きている間は家にいるより保育園にいる方がずっと長く、娘には申し訳ない気持ちもするが、保育園での会話や活動が娘の刺激になっているのだと嬉しく思う。
ドレスデザイナーになりたいと思っているうちはその夢を全力で応援したいし、これから先、その夢が変わったとしても娘がやりがいをもってできる仕事に就けるサポートをするのが、私の役割だと思っている。
そして2歳の息子の今年の願いごとは「食パンマンかカレーパンマンになりたい」である。
2歳にして主役(アンパンマン)ではなく、主役を支える名脇役もしくは女房役志望であった。
主役にはなれないと幼いなりに、もう自覚しているのかもしれない。
しかし、もしかしたら息子には王佐の才があるのかもしれない。主役にはなれないが、主役を引き立てる役割になれると2歳ながら気づいた可能性がある。
息子には名軍師のような名将を支えるような存在を目指して頑張って欲しいと思っている。
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