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色の呼び求めあいー土手をあてもなく歩いた2月のこと

今日は一日中晴れの予報。出掛けようと決意してからここまで、ほぼ無心だった。着替えて靴を履いて、気付けば家の鍵を閉めていた。

行くあても決めず、ただ、外に出たかった。放課後のやんちゃな小学生のような、そんな気持ちがたまに湧いてくるのは、社交性が低く、不規則で自堕落な生活を送る私にとって、ささやかな救いだった。

あとはこの信号の先の階段を昇れば、視界に河川敷が開ける。さてさて、今日は右左どちらに曲がって歩こう。

私は気が滅入るとすぐ土手へやってくる。ある地方都市のど真ん中で暮らす私にとって、土手は貴重な緑地である。規模もケタ違いに広いので、あてもなく散歩するのにはちょうどいい。

2月半ば、ちらほら菜の花が咲き始めていた。歩道の傍ら、枯れ草の淡い黄色に埋もれそうになりながら、鮮やかな黄色で何かを主張している。冬の終わりの淡い水色の空と合わせて、「おっ、これは反対色だな」と思った。

2か月サボっているランニングの、いつものコースは右。今日は左へ行こう。
時刻は昼過ぎ、太陽がほぼ南中の位置にあり、太陽に顔を向けて歩く形になっている。ものすごくまぶしい。歩き始めたばかりなのに早くも後悔の念に駆られる。

だが、来た道を戻る恥ずかしさとの葛藤に、すぐ打ち負かされる程度の後悔であった。それでも、目的なく歩いている暇な人間だと誰かに思われるのが恥ずかしい、と思う気持ちが少しはあるらしい。

太陽の眩しさに目を細めて歩きながら、「補色残像」について考えていた。同じ色を30秒ほど見続けたあと白いところを見ると、そこにないはずの反対色が見える現象である。

人間の目には、四種類の視細胞(光を感知するセンサーの働きをする細胞)があり、明暗の差を感知する係、「赤」の光を感知する係、「青」の係、「緑」の係と、それぞれ役割分担をして、目に届く光を情報に変え、脳に送っている。

この赤・青・緑の三色は「光の三原色」と呼ばれ、あらゆる色の光はこの三色の組み合わせによって表現できる。目に届く光に対し、四種類の細胞がそれぞれどのくらい反応しているかを、脳が処理することで、人は色や明るさを認識する。

なぜ「補色残像」という目の錯覚が起きるのか。視細胞にはそれぞれ、光を情報に変えて脳に届けるまでに必要な物質がある。ずっと赤い色を見ていると、赤の係の細胞内で必要な物質(赤オプシンという)が足りなくなり、赤に反応する視細胞の働きが低下する。

そのタイミングで白いところを見ると、白はもともといろいろな色が混ざった色なので、本来よりも赤への反応が弱くなり、青と緑だけが反応して、青と緑が混ざった黄緑色に見える、ということらしい。

「反対色の組み合わせは美しい」と言われるのは、視界の中で色のバランスが取れていることで、補色残像が起こりにくくなって、目の疲れや視界のちらつきを感じなくなるから、ということだろうか。

少し前に覚えたことをつらつら思い出しながら歩くうち、やがて大きな橋に差し掛かった。いつもは車で渡る、水色の鉄骨の大きな橋。
徒歩で通りかかるのは初めてで、歩道があるかどうかさえあやふやだった。近付いてみると、歩道はちゃんとあり、渡っていく人も見えた。よし今日は、歩いて橋を渡ろう。

河は県境に位置し、この橋を渡れば隣の県に行ける。都道府県を跨ぐという行為には、それ自体に高揚感を感じる。カーナビで「○○県に入りました」とアナウンスがされる度、同乗者に「おっ!○○県に入ったって~」と話しかけてしまう。

私はこれから歩いて県境を渡るんだ。

「おい、車でなく徒歩で渡れたからって、だからなんだっていうんだ」
「県境に位置する街に居を構えたご先祖さまと、難なく一人で散歩できる健脚や方向感覚を授けてくれた両親に感謝こそすれ、自分が努力して身に着けた能力だなんてゆめゆめ思うんじゃないぞ」

でたでた。楽しい気分になってくるとすぐ、脳内にいるもう一人の自分が忠告してくる。
自己否定の思考が習慣化されて骨の髄まで染み付き、脊髄反射の速度で飛び出してくる。

いつもならその声に脳内を支配されてしまうのだが、今日はあいにく、そのくらいでやけっぱちになるにはもったいない天気の良さだった。


なんといわれようと、隣県の名前を記した看板は、橋の鉄骨に括りつけられて、私の目の前にある。頭上の看板をしばらく眺め、何枚か写真を撮った。

気付けば橋の真ん中まで来ていた。後ろを振り返ると、渡り始めた場所が遥か右手に霞んで見える。橋の欄干に手をかけ、海松色|《みるいろ》の河を見下ろした。

見下ろした先には、10匹ほどの水鳥がいた。ゆらゆら浮かんでいると思ったら、急にパシャパシャと飛沫を上げて水浴びしたり、潜ってしばらく顔を出さなくなったり。おそらく独自の社会性もあるのだろう。見ていて飽きない。知らず知らず、眼球が海松色の刺激で満たされる。

水鳥はもういないのだろうかと、川面を這うように奥へ視線を動かしていく。しかし、水鳥は見当たらなくて、ただ、空と雲が川面に映って、青と白と海松色の、まだら模様を成していた。風に吹かれて波打ったところに太陽の光が反射して、黄色にきらきら光っている。

私の目には、なないろに映っていた。
川面に存在しないはずの赤と紫が、私の目には映っていた。
そう感じた私の目と心と「目の錯覚にすぎない」と打ち消す心は、同じ重さで、どちらも確かに存在する。


河は左に向かって蛇行している。右から左へ辿っていくと、ちょうど正面のあたりに私が暮らす街が見える。低い山と汚れた河の間で、ぎゅうっと詰め込まれてこぢんまりとして、その割にはごみごみしている。面白いものはなにもないけれど、大抵のものは大体揃う。

私はここで育った。育ててもらった。

なないろの河のむこうの、小さな街。


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