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【第2部9章】月より落ちる涙一粒 (9/16)【海嘯】

【目次】

【結論】

『なんということ……』

 龍態のクラウディアーナは、呆然とつぶやく。月が目を見開き、朱に染まった異様な空の下、六枚翼を持った白銀のドラゴンの姿で宙を舞っている。

『……クラウディアーナ。その尾は、どうしたのじゃ?』

 同じく龍態のカルタヴィアーナが、姉龍の尾が根本から斬り落とされた痛々しい断面を鼻で指し示しながら、尋ねる。こちらは、暗緑色の翡翠のような鱗を持った四枚翼のドラゴンだ。

『そのようなことは些事ですわ、カルタ。それよりも、これは? 次元世界<パラダイム>で起こる自然現象としては、あまりにも異常な……』

 白銀のドラゴンは、言葉に詰まる。眼下に落下したうごめく物体は、スライムあるいはウーズなどと呼ばれる粘体の魔物とよく似ている。

 ただし、あまりにも巨大だった。小さめに見つくろっても、それなりの湖沼ほどのサイズはある。

『……何度も言ったわ。これが『落涙』じゃ』

 妹龍はなかばあきれたような、あきらめたような声音でうめく。大質量の粘液にのしかかられた、あるいは接触した樹々が見る間に赤茶色に変じ、朽ち枯れていく。

 巨大なスライムは、正気を蝕むような奇怪な動きでのたうちながら、近くを流れる大河へ這い進んでいく。逃げようとした獣や猛禽が、粘液のなかに呑みこまれる。

『これは……? どこかに向かっているようですわ』

『おそらく、目的地は『聖地』じゃ。いままでの『落涙』も、ことごとくそうだったわ』

 クラウディアーナの疑問に、妹龍が抑揚のない声で答える。白銀の上位龍<エルダードラゴン>は、宝玉のような瞳を見開かせる。

『このような異形が次元世界<パラダイム>の中心である『聖地』を蝕むとあらば、ただの荒廃では済まないですわ! そうでなくてとも、メロやミナズキが……』

 白銀に輝く燐光をまき散らしながら六枚の翼を広げた龍皇女は、川筋に身を沈めようとする奇怪粘体のほうへ首をめぐらせる。大きく開いた龍の顎に、魔力が収束する。

『クラウディアーナ! これ以上、勝手な真似をするでないわ!! 貴様が『落涙の』のことをどれだけ知っているというのじゃ!?』


 姉龍の放とうとした光の吐息<ブレス>を、カルタヴィアーナは一喝し、制止する。龍皇女は不機嫌そうににらみ返しつつも、渋々、攻撃を中断する。

『そんな安直な方法でどうにかできるのなら、とうに我がやっておるわ……あの『落涙』は、奇妙な性質を持っている。力ずくの排除は、逆効果じゃ』

『カルタの口から、力ずくは無意味、などと聞くとは思いませんでしたわ……して、奇妙な性質とは……?』

『……苦痛を与えると、増殖する』

 クラウディアーナの嫌みと問いを受けて、妹龍は不機嫌そうに答えをかえす。龍皇女は、カルタヴィアーナが口にした言葉の真意をつかみあぐねる。

『オークの戦士は臆すること立ち向かい、剣で斬り、槍で刺し、棍棒で殴ったわ。エルフの魔術師のなかには、火や氷の魔法<マギア>で対抗しようとするものもいた……』

 上空から監視を続ける二頭の上位龍<エルダードラゴン>をしり目に、大質量の粘大は河のなかに入りこみ、ゆっくりと遡上を開始する。

『……無論、我も雷の吐息<ブレス>も喰らわせてやったわ……程度の差はあれ、結果はすべて同じじゃ』

『して、カルタ。なにが起きたのですわ?』

『膨らむ、大きくなる、腫れあがる……ともかく、そうとしか言いようがない。あれに条理の生き物を痛めつけるような真似をすると、増殖するのじゃ』

『なるほど……言われてみれば、落下の衝撃でひとまわり大きさを増したようにも見えるのですわ』

 クラウディアーナの慧眼に、妹龍はねたむような視線を向ける。二頭の上位龍<エルダードラゴン>をさらに上空から、三日月の瞳が見おろしている。

『……では、カルタ。どのように対処するのですか。六百年のあいだ、なにもしてこなかったわけではないのでしょう?』

『活動限界を待つしかない……樹も獣もかまわず呑みこみ、『結界』の魔法<マギア>で閉じこめようにも、触れた瞬間に魔力を吸われる。それでもなお、栄養が足らんらしいわ』

『活動限界……具体的には、どれくらいの時間を?』

『さあな。いつも通りなら、三日ほどで消えるわ』

 クラウディアーナは真下でうごめく巨大スライムを確認し、背後に首をめぐらせる。姉妹龍が見下ろしている地点は、『聖地』から山をひとつ越えた場所にある。

 白銀の上位龍<エルダードラゴン>の瞳に、狼狽の色が浮かぶ。うごめく粘体が『聖地』に到達するまで、目算で一日……いや、半日もあれば十分だ。

『ただ喰らい、増えることしか能のない異形じゃ……おそらく、『聖地』の魔力を求めておるのだろう』

『カルタ! どうするのです!? このままでは、この次元世界<パラダイム>は……』

『かしましいわ! だから、我は貴様らを止めたのじゃ……『聖地』でお祭り騒ぎをすれば、月の瞳に見つかるのは当然じゃ!!』

 妹龍の反論を受けて、クラウディアーナは上空をあおぐ。三日月の欠けた部分に開いた『瞳』は、上位龍<エルダードラゴン>すらさげずむように睥睨している。

 呆然としつつ歯ぎしりする姉龍をしり目に、カルタヴィアーナは身をひるがえし、明後日の方角へと進路をとる。

『どこへ行くのですわ!? カルタっ!!』

『これ以上、貴様にはつきあいきれんわ! 余計なことばかりして、むつかしいことにしおってからに!!』

 破滅を思わせる深紅の空の下を、妹龍は飛び去っていく。クラウディアーナは一瞬だけ追いかけようとするも、すぐに思いなおし、反転する。

 高度を下げ、大質量の粘体がさかのぼる河へと接近する。川筋に収まりきらない巨大スライムは、周辺の地形や森を呑みこみながら、遡上を続ける。

「ヴヒッ、ヴヒッ!」

「ヴルヒヒヒッ!!」

 川沿いに住み着いていたのであろうオークたちが、粗末な槍や錆びた剣を手にして『落涙』へ立ち向かっていく。

 蛮勇と狂乱に追い立てられるがまま、豚頭どもは奇怪なる粘体に肉薄し、刃を突き立てる。巨怪な『落涙』に対しては、まるでアリのようなサイズ差だ。

「ヴルヒイィィーッ!?」

 とたんに悲鳴が周囲の森に反響する。槍を突き刺した箇所から噴水のごとくあふれ出た粘液がオークに襲いかかり、からみつくと、巨大スライム本体が呑みこんでいく。

 大質量の粘体のなかに沈んだ豚頭たちは、すぐに動かなくなり、でっぷりとした体躯は枯れ木のようにしおれ、やがて原形もわからないほどに分解されていく。

 妹龍の言っていたことは、事実のようだ。だとすれば、正攻法で押し止められる相手ではない。なにか、策を練らなければ。

 クラウディアーナは目を細めると、上昇軌道をとる。赤い天のうえに浮かぶ月の『瞳』と、白銀の上位龍<エルダードラゴン>の視線が重なった。

【遡上】

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