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【第2部9章】月より落ちる涙一粒 (8/16)【結論】

【目次】

【天敵】

「森羅万象、天地万物、諸事万端──」

 ミナズキはただ一人、呪言を唱えながら霧深い森のなかを歩いていた。裸足でごつごつと根の入り組んだ地面を、霊脈に従ってひたすら進んでいく。

 祭殿建築の仔細は、龍皇女に伝えてある。オークたちの世話は、メロが引き受けてくれた。あとは、ミナズキが『反閇法』による聖別を完遂するだけだ。

 華奢だが手先の器用なエルフと、粗野だが膂力に優れたオークが力をあわせるとなれば、互いの弱点を補いあい、祭殿の建設はスムーズに進むはずだ。

 深く見慣れぬ原生林のなかを、黒髪のエルフ巫女は着の身着のままで歩を進める。濃い霧に視界を阻まれては、道を見失い、のたれ死ぬのが普通だろう。

 だが、ミナズキは迷わない。地の下を走る霊脈が、黒髪のエルフを導くように脈動している。世界そのものの鼓動を、足の裏で感じる。

(この次元世界<パラダイム>は……本来、とても力強い)

 ミナズキは、そう思う。でなければ、これだけ鬱蒼とした原生林が育まれはしない。ただなにか、少しだけ歯車がズレている。

 そのわずかな齟齬が、魔獣たちをいらだたせ、エルフたちの繁栄を阻害している。

「森羅万象、天地万物、諸事万端──」

 ゆっくりと着実に、黒髪のエルフ巫女は霧深き原生林のなかを進んでいく。村長に見せてもらった地図から予想したとおりの景色が、次から次へと目のまえに現れる。

 養父の教えが、符術巫としての経験が役に立っている。霊紙が尽きたからといって、無駄にはなっていない。

 それでも、『反閇法』による儀式の行程は、過酷だ。儀式のあいだ、水を飲むことが許されるのみで食事は禁じられ、呪言以外の言葉を口にしてもいけない。

 過去に陽麗京で執りおこなわれたという『反閇法』の儀式は、せいぜい屋敷の区画をめぐる程度で、一日もあれば終わる規模だ。それ以上のものは、伝説や伝承に語られるのみ。

 ミナズキは、いま、その口伝神話に片足を踏みこもうとしている。森の『聖地』をぐるりとまわる道のりは、順調に進んだとしても十日ほどかかる。

(それでも──)

 黒髪のエルフ巫女は、思う。少しだけ足を止め、エルフの族長から預かった革袋のなかから、『聖地』より汲んだ水を口にふくむ。

(──曲げることなんて、できない。きっと此方は……この世界を慈しみ、美しく整えるためにやって来た)

 不思議と、疲労や苦痛は感じない。森の樹々は、ミナズキに道をあけているかのように行き当たることはない。狼や猛禽ともすれ違ったが、襲ってくることはない。

 まるで森が、そこに棲む獣たちが、次元世界<パラダイム>そのものが、黒髪のエルフ巫女を導いているようだった。

(父上……どうか、此方をお導きください……)

 ミナズキは祈りながら、ふたたび足を動かしはじめる。刹那、なにかに促されるように頭上をあおぐ。なにか、切迫感のようなものが、心臓を鷲づかむ。

 霧越しに梢のすきまから見える空が、水に血を垂らしたかのごとく、赤く染まっていく。翼竜<ワイバーン>をはじめ、翼持つ生き物たちが逃げるように飛び去っていく。

 昼間でもくっきり白く浮かんでいた三日月の欠けた部分に、つつっ、と横向きの線が走る。次の瞬間、ぎょろりと天上に巨大な『瞳』が見開かれる。

 ヘビににらまれたカエルのごとく、黒髪のエルフ巫女は動けなくなる。不吉な赤い空の真ん中に現れた眼球から液体が染み出し、やがて途方もない大きさの水滴となって落下していく。

(『落涙』──ッ!)

 エルフたちや妹龍カルタヴィアーナが、その驚異をさかんに口にし、恐れていた超常現象が、いままさに眼前で顕現したことをミナズキは理解する。

 圧倒的な体積の水球が地へ落ちてくる様は、まるでスローモーションのように見える。ミナズキはエルフ特有の長い耳を、ぴん、と伸ばして『落涙』の持つ霊力や性質を探ろうとする。

──なにも、感じない。

 距離が離れすぎているわけでも、ましてやミナズキの霊感が劣っているわけでもない。あの落下物には、なにもない。

 矛盾するような物言いになるが、「虚無が形をとったもの」と表現するのがふさわしい存在だった。黒髪のエルフ巫女は、臓腑が凍りつくような怖気を覚える。

『落涙』は、山の向こうへと墜ちていく。地面に触れる瞬間を目で捉えることはかなわなかったが、足の裏から大地が悲鳴をあげるような感覚が伝わってきて、それとわかる。

 金縛りがほどけ、ミナズキの心身が自由になる。しかし、頭上の空はいまだ鮮血のように赤く染まり、三日月の欠けに現れた瞳も地を睥睨し続けている。

(『落涙』の厄災は、これが始まり……ここから被害が広がっていく……!)

 黒髪のエルフ巫女は、直感的に理解する。第二、第三の涙が続けて墜ちてくるのか、あるいは……

(もし、あの『落涙』が……世界の中心である『聖地』を呑みこんだら?)

 ミナズキは、自問する。答えは、さほど難しくない。黒髪のエルフ巫女は、過去に似たような現象を見たことがある。

 かつて陽麗京──ミナズキが長い時を過ごした次元世界<パラダイム>において、一年にわたり太陽が昇らなく怪異が起きて、世界は破滅寸前まで追いこまれた。

 おそらく、あのときの『常夜の怪異』と似たようなことが起きる。黒髪のエルフ巫女は、確信する。

『常夜の怪異』はアサイラと名乗る次元転移者<パラダイムシフター>の協力と、ほかならぬミナズキ自身の決死の覚悟によって解消された。

(此方は、おそらく……龍皇女陛下によって、このために、この地へと導かれた)

 黒髪のエルフ巫女は不吉な色の空の下、わずかのあいだ思案する。そして、苔むした地面を裸足で踏みしめがら、ふたたび霊脈に沿って歩きはじめる。

「森羅万象、天地万物、諸事万端──」

 ミナズキの柔唇から、呪言がこぼれる。やることは、なにも変わらない。『反閇法』を完遂する。聖別の結界の完成こそが、最大の対策となる。

 月に見開かれた虚無の瞳に見おろされるなか、黒髪のエルフ巫女はおびえる樹々の狭間で、ゆっくりと歩を進め続けた。

【海嘯】

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