【第2部26章】ある導子学者たちの対話 (11/16)【屈辱】
【窒息】←
「落ちつけ……この状況は『詰み』だ。『ドクター』の言葉は、強がりだ……到底、一点たりとも、悪くはない。このまま、ゲームセットを待つだけだ……丸裸になったキングピンだけで盤面をひっくり返す手など、いまさら、ないだろう!」
ノンフレームの眼鏡をかけた神経質そうな男は、導子コンピューターのモニターのまえに座ったまま、ぶつぶつとつぶやきながら親指の爪をかむ。
男の足元には、粉々に砕けたマグカップの破片が散らばり、中身に満たされていた濃いコーヒーが、床に小さな黒い水たまりを作っている。
やせ気味の男の名は、モーリッツ・ゼーベック。導子工学者として、かつてはセフィロト社の技術解析部のトップを勤め、いまはグラトニア帝国の技術局長にして征騎士序列2位という肩書きを持つ。
ノンフレーム眼鏡をかけた男の現在地点のは、『塔』の中央制御室。周囲には、実に256本の高強度ポリマー製のシリンダーが鍾乳石のように並び、なかには薬液が満たされ、それぞれ脳髄が浮かんでいる。
無数の培養層の内部で電極につながれた脳髄は、モーリッツの転移律<シフターズ・エフェクト>、『脳髄残影<リ・ブレイン>』によって作り出された、ほかならぬ彼自身の知識と経験を写したコピーたちだ。
プログラムだけでは自動化しきれない『塔』の制御から、帝国軍への戦略指示、さらには国家運営に至るまで、技術局長の知性と経験の写し身たちがシリンダーのなかから、その仕事を補佐している。
モーリッツの256のコピー脳たちは、それぞれ異なる角度から現在の戦況を分析し、いずれも複写元である能力主の勝利を肯定する。
「落ちつけ、落ちつくんだ……あの『ドクター』をここまで追いつめておきながら、チェックメイト手前で凡ミスなんてしようものなら、到底、納得できないだろう……!」
ノンフレーム眼鏡の男は、震える指で机のわきに置かれた小瓶を手に取ると、なかの錠剤を1粒、舌のうえへ乗せる。
旧セフィロト社時代に自ら開発した鎮静剤が、すぐに薬効を発揮し、得体の知れない焦燥感を抑えつける。代わりに、じんわりとした高揚感が臓腑のそこから沸きあがる。
「ふうぅぅ……到底、悪くはないだろう」
深く息を吐きながら、モーリッツはつぶやく。あの『ドクター』を相手取った直接対決、その勝利への確信がリアリティを伴って実感できる。
「ぼくの本分は、科学者であり後方支援だが……前線におもむく戦士たちの矜持も、なるほど、わかるというものだろう……」
技術局長は、キャスター付きのいすの背もたれに体重をあずけ、中央制御室の高い天井をあおぎ見る。
思えば、『ドクター』に対しては苦渋をなめさせられ続けてきた。導子学者として、直接の対決をしたことがあるわけではないが、敗北感ばかりで、一度の勝利も味わった経験はない。
モーリッツは、旧セフィロト社が運営する孤児院で幼少期を過ごした。別に人道的な目的で設立された施設ではない。次元間巨大企業が植民地化した次元世界<パラダイム>から子供を集め、忠実な次代の社員を養育するための機関だ。
このときののモーリッツは、まだ次元転移者<パラダイムシフター>ではなかった。のちに知ることになるが、これは幸運だった。旧セフィロト社のオワシ社長は彼らを、コントロールの利かない存在として毛嫌いしていたからだ。
孤児院時代のモーリッツも次元転移者<パラダイムシフター>だったのならば、冷遇されるか、人体実験のモルモット、あるいは有無を言わさず殺処分に回されていたかもしれない。
ともかく幼きころのモーリッツは、知能テストで優秀な成績を修めたため、技術者養成コースへ進んだ。選択の自由など存在しない。脱走した孤児は、容赦なく射殺される。
少年時代から、モーリッツは聡明だった。たいていのことは、予想したとおりになった。初等部から、中等部、高等部へと順調に進学した。退屈だった。
モーリッツは、セフィロト社員候補のなかでも一握りしか門戸を開かれない社内大学へ入学した。そこで、教壇に立つ『ドクター』から導子理論の講義を受けた。
モーリッツ青年は、衝撃と感動を覚えた。いまでも鮮明な記憶として、脳裏に焼きついている。講義内容は、産まれて初めて出会った「理解できないもの」だった。
学徒となったモーリッツは、心の高揚を感じながら、導子理論の学習に没頭した。同期の多くが脱落し、優越感を覚えた。
だが、のちに膨らむ劣等感の萌芽も、このころだったのかもしれない。導子理論のカリキュラムのみ、定期試験において満点をとることはかなわなかった。
やがてモーリッツは、社内大学を主席で卒業した。セフィロト社の導子技術セクションへの配属が決まった。『ドクター』の右腕に、やがては後継者になることを夢見た。
瞬く間にモーリッツは実績をあげ、旧セフィロト社のエリート技術者として頭角を現した。出世街道を歩いていた、と言ってもいいだろう。
ある日、モーリッツは「技術解析部」のチーフとしての転属を命じられる。第三者から見れば、彼の年齢からは前例のない、破格の大出世と言えるだろう。
祝福の言葉をかける同僚を、在りし日のモーリッツは鬼の形相でにらみつけた。ほかの社員が制止しなければ、殴りかかっていたかもしれない。
旧セフィロト社内の技術セクションにおいて「技術解析部」は二番手という認識が一般的であり、なにより『ドクター』が部長を務めるのは花形の「技術開発部」だ。
モーリッツは、己の実力を見くびられていると感じ、屈辱を覚えた。同時に、『ドクター』の規格外の頭脳を理解できない自分に気がつき、コンプレックスを募らせていく。
旧セフィロト社が支配下においた次元世界<パラダイム>の技術<テック>や魔法<マギア>を解析する業務のかたわら、あらためてモーリッツは導子理論の猛勉強を開始する。
あの『ドクター』の社内論文を読みあさり、過去の成果物をなめるように分析する。学べば学ぶほど、調べれば調べるほど、わからないことが増えていく。吐き気を覚え、苛立ちをつのらせる。
深紅のローブに顔を隠した謎めいた女──あの『魔女』が、モーリッツに接触したのは、そんな時だった。
「あなタは、このような職務で終わるような人間ではありません。わたシタチに協力してくれれば、より大きな仕事をお任せしましょう。どのみち、セフィロト社の命運も長くはないので……」
旧セフィロト社の企業植民地であったグラトニア、そこに立地する工場地帯を視察した折り、『魔女』を名乗る女は不適にもモーリッツの宿舎の部屋へと単身、現れた。
透き通っていて、それでいて蠱惑的で、にもかかわらずときおり耳障りなノイズのような抑揚の混じる、奇妙な声音の持ち主だった。
「協力? ぼくが、グラトニア・レジスタンスと? 到底、ありえないだろう……警備の目とセキュリティをかいくぐって、ここまで来た手際は評価するけどね……きみこそ、セフィロトエージェントにでも転職したらどうだい?」
モーリッツは、『魔女』の申し出を一蹴した。深紅のローブの女は、喰い下がることなく、あっさりと退室した。
この逢瀬は、しかし、当時の技術解析部部長の脳裏にこびりついた。不思議と社の警備部門に通報する気にはならず、モーリッツは『魔女』とのやりとりを自分の胸のなかにしまいこんだ。
→【矜持】
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