【第2部26章】ある導子学者たちの対話 (10/16)【窒息】
【飽和】←
『強がりはやめろ、『ドクター』。その状況から盤面をひっくり返すなど、誰が見ても、到底、無理だろう!?』
「なんとなればすなわち、モーリッツくん。このワタシにも、長考する時間をくれないかナ。デズモンドも、チェスでもっとも面白いのは窮地の盤面だ、と言っていたものだ……」
『あきれたあきらめの悪さだな、『ドクター』。二酸化炭素の充填を止めるつもりはないが、それまでのあいだなら好きなだけ考えればいい。貴方の敗北の確定したことを、より深く理解できるだろう』
スピーカーの向こうから、あざけりを含んだ声音と嘆息が聞こえてくる。ドクター・ビッグバンは、脳裏に気体運動のシミュレーションモデルを思い浮かべつつ、せっかく進軍した道を後退していく。監視カメラが、その姿を追う。
「なんとなればすなわち、『暫定解答<ハイポセシス>』が健在ならば、再構築の過程で二酸化炭素を吸収することもできたのだが……」
白衣の老科学者は、無念そうにつぶやく。館内放送から、鼻を鳴らす音が聞こえてくる。
『無論だろう。ぼくだって、それを見越して対応を選択している……機密性の高い部屋でも探して、たてこもってみるか? 籠城どころか、到底、時間稼ぎとも言えないほどの悪あがきだろうが!』
館内放送に乗って響く声は、近づく勝利の足音を聞いてか、昂揚し、饒舌になっている。だとしても、慢心は期待できない。
偏執的なほどに、石橋をたたき、念押しを重ねるのが、元セフィロト社技術解析部部長を勤めたモーリッツ・ゼーベックという男であることを、白衣の老科学者はよく知っている。
通路に等間隔に設置された監視カメラたちが、ぎょろぎょろと四方八方の様子を探っているのが、なによりの証拠だ。ドクター・ビッグバンが、なんらかの『仕込み』を施していないか、見落としていないか探っている。
軽い息苦しさを覚えはじめ、白衣の老科学者は口元をおさえつつ、脚を速める。前後左右の隣接ブロックから二酸化炭素が送りこまれているのならば、区画中央の付近──シフトアウトしたポイントには、それなりの酸素が残っているはずだ。
『なにか切り札でも隠しているのかと、警戒したが……貴方ともあろう人が、まさか、本当に手詰まりなのか? 到底、拍子抜けだろう』
まっすぐ伸びたドクター・ビッグバンの背中に、スピーカーから声を投げかけられる。かくしゃくたる老人の双眸に輝く精密義眼が、監視カメラを一瞥する。
『おとなしく負けを認めて、降伏したらどうだ? 『ドクター』の命には、到底、興味はないが、その頭に納められた知識は少しばかり惜しい。このままでは、貴方の脳細胞は酸素欠乏によって永遠に失われるだろうから……』
正面へ向きなおった白衣の老科学者は、歩調をゆるめることなく首を横に振る。館内放送に乗って、あきれたようなため息の音が聞こえてくる。
『到底、理解できない強情さだ。投了するならば、貴方の頭脳にためこまれた情報を吸い出し、ぼくが有効活用してやろうと思ったのだが……肉体は朽ちても、築きあげた理論は永遠に輝き続ける。科学者にとって、これほどの名誉もないだろう?』
「らしくないかナ、モーリッツくん? スティルメイトには、まだ少しばかり時間がある……そもそもグラトニア帝国の有り様は、このワタシの理念とは大きく異なる。投降はありえんよ」
酸素が薄くなってきたのか、ドクター・ビッグバンの足取りは重く、口にする言葉もとぎれとぎれだ。
『ならば、貴方の肉体は1000の欠片に解剖したうえで、分析させてもらう。『状況再現<T.A.S.>』を実装するために、どのような処置をほどこしたのか、興味がある……いや、まずは『脳人形』化して、残党をおびき寄せるエサとして使うべきだろう。そのあとは……』
流暢に舌がまわるスピーカー越しの声を聞き流しながら、白衣の老科学者は足を止める。『塔』の内部へ最初に転移<シフト>した地点だ。脳内でのシミュレーションによれば、この場所ならば二酸化炭素の満ちるまでの猶予が一番長い。数分の差ではあるが。
『さて、『ドクター』。貴方の最期のときが近づいている。遺言、あるいは辞世の言葉があるなら、ぼくも聞くだけのことはするべきだろう』
「では、モーリッツくん。なんとなればすなわち、冥土のみやげとして質問さてもらおう……この『塔』の建造目的は、なにかナ」
まくしたてるようにしゃべり続けていた館内放送の声が、唐突に沈黙する。ドクター・ビッグバンは、目を細めて監視カメラを見あげる。
「モーリッツくん、ここに来てだんまりかナ。ならば、このワタシの所見を先に述べることにしよう……なんとなればすなわち、外と内の両面から観察した結果、巨大な避雷針のような……なんらかの誘導装置という印象を受けたが?」
スピーカー越しの返事はない。ただ、息の呑むような音が小さく響いたことを、白衣の老科学者の耳は聞き逃さない。表情を苦しげにゆがめながらも、にやり、と口角をあげる。
「なんとなればすなわち……キミの沈黙をもって、肯定と解釈してもかまわないかナ。モーリッツくん? 付け加えるならば、軌道エレベーター規模のサイズと、くわえて次元融合現象から類推するに、この『塔』は虚無空間から……」
『……黙れッ!』
短い怒声とともに、なにかを叩きつけ、壊れる音が館内放送から響く。
『正答か誤答かは、関係ないだろう。『ドクター』……ぼくは、貴方を『塔』から生かして帰すつもりはない……つまるところ、その知見を持ち帰ることも……到底、かなわないのだからッ!!』
スピーカーの向こうからは、激情を宿しつつも、冷酷に言い切る声が聞こえてきた。
→【屈辱】
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?