【第2部31章】落ちてくる、この空の下で (8/24)【領有】
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「グヌ……ッ!?」
『塔』の壁面を踏み切ろうとした瞬間、アサイラは平衡感覚の混乱を覚えて、跳躍を中断する。めまいかと思ったが、なにかが違う。
まるで超巨大建造物の側面が地面になったかのように、黒髪の青年の足裏は張り付いている。ゆっくりとグラー帝が降りてきて、対峙するように眼前に立つ。
降りる? 立つ? 地面から直立する『塔』の壁面に対して、なぜ、そんなことが起こる? 周囲の風景まで視界を広げれば、まるで上下が90°ねじれたような感覚を覚える。
『アサイラお兄ちゃん、これは──』
「なるほど……さっきまでの空中歩行と、同じ原理か? 裸の王さまが、『下』だ、と言えば、現実もそうなると……」
導子通信機越しに聞こえるララの声に対して答えるように、黒髪の青年はつぶやく。
「愚者なりに、ではある、が……学んではいるようだ。然り。グラトニアにおいては、次元世界<パラダイム>ではなく、余が上下の方向を……一言以ておおうならば、定義する」
腕組みする偉丈夫の言葉は、おそらく真実だ。魔法<マギア>とも感触が違うし、アサイラはピンポイントで重力を制御するレベルまで到達した技術<テック>を見たこともない。
グラトニアの専制君主は、膨大な構成導子量、圧倒的な存在強度で、引力の方向をねじ曲げている。とはいえ、次元世界<パラダイム>全体というわけではなさそうだ。
周囲を飛行するリーリスやクラウディアーナ、屋上から戦場を見守る『魔女』、あるいは次元巡航艇『シルバーブレイン』までは、重力変動の影響がおよんでいない。
目測だが、『下』方向をねじ曲げられたのは、グラー帝を中心に数十メートルの範囲といったところか。
アサイラが、ようやく状況の変化を理解したところで、眼前の偉丈夫の姿がかき消える。移動した。攻撃が来る。だが、どこから。前後左右、さらには上方からもあり得る。
グラトニアの専制君主の踏みこみを、人間の動態視力で捉えることは不可能だ。黒髪の青年は、全感覚を研ぎ澄ます。前方からの風圧と、突き抜けるような殺気を感じ取る。真正面から、来る。
「──ウラアッ!」
アサイラは、壁となるように『龍剣』を『塔』の壁面へ深々と突き立てる。身の丈近くある刀身の向こう側に、グラー帝が姿を現す。すでに右拳を握り、腕を振りかぶった体勢だ。
「グオラッ」
直撃すれば、一発でも即死するであろう破滅的右ストレートが、暴風を巻き起こしながら放たれる。バリケードのごとく攻撃進路を遮る『龍剣』の刀身など、お構いなしだ。実際、防壁としての効果は期待していない。アサイラの狙いは、その先にある。
「あやなせ、『星辰蒼尾<ソウル・ワイアード>』ッ!」
黒髪の青年の叫び声が、グラトニアの空に響く。拳を振るう偉丈夫が、わずかに眉を動かす。蒼銀の輝きを放つ刀身に、専制君主の右手首が抵抗なく呑みこまれ、次の瞬間、そこで動かなくなる。
刃の一部のみを糸状に変化させ、なおかつ即座にもとへ戻すことで、アサイラはグラー帝の利き腕を、手枷のごとく大剣のなかに閉じこめた。とはいえ、息をつく猶予はない。その気になれば、偉丈夫は力ずくで拘束から脱出するだろう。
コンマ秒の戸惑いを示す専制君主に対して、黒髪の青年は素早く背を向ける。相手の利き腕が一体化した大剣をかつぐように、壁から引き抜く。
「ウラアーッ!」
背負い投げの要領で、刀身の側面を、足場に向かって思い切り振りおろす。グラー帝の身体が、ハエたたきのごとく、『塔』の壁面に激突する。
「……ウラアッ!」
手応えはあったが、相手が相手だ。どれだけのダメージになっているかなど、わかりはしない。アサイラは次の動作へ移るべく、今度は超巨大建造物の壁面に片足を突き刺す。
「ウラアァァ──ッ!」
黒髪の青年は、石材のなかに突っこんだ脚を軸にして、その場で回転を始める。『星辰蒼尾<ソウル・ワイアード>』の刀身全体を縄状に変化させ、偉丈夫の右手首に絡みつかせた状態で、その身体をハンマー投げの要領で振りまわす。
専制君主を、このまま、地表に向かって投げ飛ばす──アサイラがそう思ったとき、回転が急に止まる。グラー帝が強引に両足で踏ん張って、黒髪の青年の円運動を無理矢理に止めた。ふたりの男の間に、蒼銀の輝きを放つワイヤーが、ぴんと張る。
「グオラッ」
「グヌウ!?」
諸肌をさらす偉丈夫は、右手首に巻きつく細く強靱な糸を、力任せに引っ張る。圧倒的膂力によって、アサイラの手の内から大剣の柄が離れる。持ち主から引きはがされた『龍剣』の刀身は、ワイヤー状から、もとの両刃の形状へ戻っていく。
「一言以ておおうならば……多少は、おもしろい手品であった。しかし、愚者よ。しょせんは……この剣ありきである、な?」
グラー帝は足元を蹴り、アサイラに向かって瞬間的に移動する。奪った大剣で、叛逆者を斬り捨てようと振りかぶる。刹那の出来事のため、戦況を見守る女たちは、援護はおろか、悲鳴をあげることすらできない。
当事者である黒髪の青年は、しかし、泰然として偉丈夫の斬撃を待ち受ける。いぶかしみつつも、偉丈夫は奪った大剣を振りおろす。
「ム……ッ」
刃は、振り抜かれた。にも関わらず、当惑の表情を浮かべたのは、グラー帝のほうだった。左右の拳を握りしめたアサイラは、無傷のまま、専制君主をにらみつけている。
大剣を握る偉丈夫は、なにが起こったか遅れて理解する。『龍剣』の刃は持ち主に触れる瞬間、糸状にほどけて、若草が肌をなでるように黒髪の青年の身体をすり抜けていた。
「いまので、わかったか。裸の王さま? そいつは……俺の剣だ。持ち主を傷つけることは、ない」
「なるほど。その言葉……一言以ておおうならば、道理である」
アサイラの言葉に、グラー帝は『龍剣』を持ち主へと投げかえす。黒髪の青年が柄を握りなおすと、どちらからともなく両者は身構えなおした。
→【横槍】
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