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【第2部18章】ある旅路の終わり (1/16)【棲家】

【目次】

【第17章】

 寝台のうえに横たわっていた壮年の男性が、ぱちり、と目を開く。仰向けの身のうえにかけられた毛布を退けると、ゆっくりと身を起こす。

 足を床につけると、モーションセンサーが反応して、照明が点灯する。さほど広くない部屋の様子と、その主である男の姿が闇のなかから浮かびあがる。

 ベッドとサイドテーブルのほかは、大した調度品も置かれていない空間は、旧セフィロト社における平社員向けのワンルームとして標準的なモデルだ。

 そして、この部屋の現在の主は『伯爵』と名乗る、かつてセフィロト社の上級社員<スーパーエージェント>だった男だ。

 覚醒したばかりにもかかわらず、いささかも寝ぼけた気配のない『伯爵』は、寝間着姿のままストレッチをし、ゆっくりと全身の筋肉をほぐしていく。

「ふむ。さすが、ドク。いつものことながら、仕事が早いかね」

 ベッド横のサイドテーブルのうえに、几帳面なほどていねいに正方形型にたたみこまれた黒いインナーウェアがある。手足の先と頭以外を、すっぽりとおおう作りだ。

 パワーアシストインナー。『ドクター』が『伯爵』のために、オーダーメイドした導子兵装のひとつ。着用者の身体能力を補助する、下着型の人工筋繊維だ。

 寝間着を寝台のうえに脱ぎ捨て、鍛えられた四肢と胸板をあらわにした壮年の男性は、ウェットスーツを着るようにパワーアシストインナーを着用する。

『伯爵』の諸肌にふれた人工筋繊維の自動補正機能が働き、わずかに締めつけるような感覚とともに全身にフィットし、密着していく。

 この半年間ですっかり慣れてしまった感覚を味わいながら、壮年の男性は窓際に歩みよると、カーテンを開く。照明の光量が自動的に絞られる。

 もっとも、窓ガラス越しに差しこんでくる光も、人工の灯火だ。『伯爵』の居室があるビルは、旧セフィロト社の完全閉鎖型ドーム施設の内部に入れ子構造で立地している。

200526パラダイムパラメータ‗XP-00

 壮年の男性は、目を細めて眼下へ視線を向ける。中央広場とその周辺のいくつかのビルが解体されて確保されたスペースに、造船所を思わせる巨大機械が鎮座している。

 この半年間、『伯爵』の協力者である『ドクター』が独自に建造を進めていた次元巡航艦『シルバーブレイン』……その完成寸前の姿だ。

 ビルを横倒しにしたかのごとき巨大機械の周囲を行き来している無数の人影は、建造に協力してくれた、この次元世界<パラダイム>の原住民の小人たちだ。

 旧セフィロト社は、とるに足らない原始人と判断していたが、『ドクター』いわく次元巡航艦の組み立ては彼らの助力なしには成し得なかったという。

「そちらも……つつがなく進んでいる、ということかね」

 壮年の男性は視線をあげると、背後へ向きなおり、広くはない居室を横切る。突き当たりのクローゼットを開くと、ていねいにクリーニングされて吊された燕尾服が目に入る。ここ半年、袖を通していない。

「我輩にも、ふたたび、ファッションを楽しめる日々が来ると良いのだが」

 お気に入りの礼服ではなく、『伯爵』は中世の貴族が狩猟に興じるがごとき装束を身にまとう。帽子かけから手に取るのは、シルクハットではなくキャスケット帽だ。

 最後に洗顔を済まし、自慢のカイゼル髭と頭髪をワックスでていねいに整え、壮年の男性は身支度を完了する。

 身を屈めた『伯爵』は、サイドテーブル下に納めていた抱えるほどのサイズの円筒状の装置を取り出す。特殊合金製のシリンダーの中央に小窓があり、内部に格納された緑色の輝きの様子をうかがえる。

「おはよう。ご機嫌はいかがかね?」

 壮年の男性は、装置のなかへ親しげに言葉をかける。緑色の光が返事をするように明滅するのを見ると、『伯爵』はシリンダーをストラップ付きの耐衝撃ケースのなかへ納め、かつぐ。

 この半年間、慌ただしく無数の次元世界<パラダイム>を行き来していた『伯爵』の現在地点は、かつてセフィロト社が『ゴミ捨て場』として利用していた世界だ。

 本来の名前を失い、『XPー00』という素っ気ないコードネームで呼ばれていた次元世界<パラダイム>は、次元外からの観測を拒絶し、それゆえに転移も困難な特性を持つため、『伯爵』と『ドクター』の隠れ家としてはこのうえなく適していた。

「だとしても……我輩も、長居しすぎたかね」

 壮年の男性は、独りごちる。そろそろ敵対勢力──グラトニア帝国の連中に、この潜伏場所を割り出されていてもおかしくはない。

 攻めるに難しい次元世界<パラダイム>ではあるが、旧セフィロト社の導子テクノロジーを有し、さらに13人もの次元転移者<パラダイムシフター>を運用する勢力だ。やりようは、いくらでもあるだろう。

 そろそろ部屋を出ようと考えた『伯爵』は、愛用のステッキと片眼鏡<モノクル>を探し、『ドクター』に預けていたことを思い出す。

 壮年の男性は、手ぶらのまま居室の自動扉をくぐり、廊下に出る。階段を降りていくと、ビルのエントランスを改造した即席のリビングルームへ行き着く。

「おはよう、デズモント。今朝も、偏差の中央値に収まる時刻でお目覚めかナ? まったく、生活リズムが完全ランダムな女性陣にも、見習ってもらいたいくらいだ!」

 白衣を羽織り、頭にコック帽をかぶったかくしゃくたる老博士──『ドクター』が、陽気な口調で、『伯爵』に声をかけてきた。

【装備】

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