【第2部26章】ある導子学者たちの対話 (13/16)【潜在】
【矜持】←
──Alert……Alert、Alert、AlertAlertAlert
モーリッツの精神は、わずか数秒の夢想から現実に引き戻される。眼前の導子コンピュータの内蔵スピーカーから、けたたましい警告音が鳴り響いている。
「……いまさら、なにがあった! 『ドクター』は、到底、動きようがないだろう!?」
神経質そうな顔立ちでやせ気味の男は、中指と人差し指でノンフレーム眼鏡のつるを押しあげ、モニターとキーボードに向かいあう。
ドクター・ビッグバンを閉じこめた区画の監視カメラの映像を確認する。白衣の老科学者は、動いていない。周辺に、異常も検知できない。
次に、隣接ブロックの状況を確認する。ドクター・ビッグバンを閉じこめる隔壁の封鎖は維持され、つつがなく二酸化炭素の充填も進んでいる。
「悪くないだろう。いや……待てッ!」
言語化できない違和感を察知したモーリッツは、老科学者を包囲する四方の区画のひとつをフォーカスする。
リアルタイムで送信される映像からは、異常は見あたらない。しかし、ノンフレーム眼鏡をかけた技術局長は、研究開発の経験から、この手のインスピレーションが侮れないことを知っている。
モーリッツの10本の指が高速でキーボードを叩き、甲高い打鍵音が中央制御室に反響する。監視カメラの映像記録を、時間軸に沿ってさかのぼっていく。
「やはり……案の定だろう! だが、これは……何者だ?」
ドクター・ビッグバンとは異なる人間の影を、監視カメラが捉えていた。背格好からは、女に見える。時間的には、征騎士の『脳人形』を戦場となっていたブロックに向かわせた直後。
なにより注目すべきは、正体不明の女はローカルネットワークの端末から『這い出てきた』ように見えることだ。
装飾過剰のドレスに身を包んだ人影は、まだ封鎖するまえだった隔壁をくぐり、隣接区画へと向かっていく。モーリッツは、監視カメラの記録映像を切り替える。
予想通りというべきか、女は新たに踏みこんだブロック側のコンソールの端子に触れる。すると、第2の侵入者の姿にノイズが走り、そのまま見えなくなる。
「消えた……のでは、ないな? 電脳ネットワークに潜行する転移律<シフターズ・エフェクト>の持ち主……と、考えるのが妥当だろう……」
タイピングの速度をゆるめることなく、ぶつぶつとモーリッツはつぶやく。ノンフレーム眼鏡の男には、該当する人物に、心当たりがある。
セフィロト社時代、デッド・オア・アライブの敵対者リスト上位に記載されていた女──通称『淫魔』だ。モーリッツは直接、接触したことはないが、交戦レポートのなかに精神に加えて電脳空間にも潜行した、という報告があった。
「だが、どうやって、『塔』のなかへと潜りこんだ……? 次元転移ゲートでシフト・アウトしたのは、間違いなく『ドクター』ひとりだっただろう……」
自分でつぶやいて、ノンフレーム眼鏡の男は、はっ、と息を呑む。電脳ネットワーク、すなわち情報空間に潜行できるということは、なんらかの電子記録媒体のなかに身を隠すことも可能、と考えるのが妥当だ。
そして、区画制御室において、ドクター・ビッグバンは導子コンピュータにメモリーカードを挿入した。あたかも、電脳ウイルスに感染させることが目的であるかのように。
「……あのときかッ!」
モーリッツは、ぎりぎりと歯噛みする。タイピング速度を増して、監視カメラの映像記録を検索する。推測どおり、『淫魔』らしき女はローカルネットワークへの潜行と区画接続部での現出をくりかえして移動している。まっすぐ、中央制御室を目指すルートだ。
「AAからAF区画のルート封鎖……および、攻性プログラム起動! 急げッ!!」
ノンフレーム眼鏡の男は、館内放送に向かってがなり立てる。『塔』を構成する32767はそれぞれ独立し、ネットワークを形成していない。ゆえに、こちらからの指示を直接、飛ばすことはできない。
群知能型独立モデルは、ハッキングに対しては無類の強靱さを誇るが、逆に指示を取ばす場合は、人間同士でおこなうようなアナログな通信と対話をおこなう必要がある。当然、その反応はきわめて遅い。
「クソ……ッ! あの毒婦め、ぼくと『ドクター』の決闘に横やりを入れるとは……無粋、ここに極まれり……だろう!?」
モーリッツは親指の爪をかみながら、指示を飛ばした区画制御システムからの応答を待つ。待てども待てども、レスポンスはない。反応が遅いとはいえ、鈍いにもほどがある。
かわりに、追加のアラートメッセージが中央制御室に響く。神経質なやせ気味の男は、ただでさえしわを寄せた額に、さらに深い断崖を刻む。
「ええい、こんなときに……なにがあった!?」
サブモニターを起動し、システムの警告の詳細を確認をすると、モーリッツは眼球がこぼれ落ちそうなほどに双眸を見開く。
ドクター・ビッグバンを閉じこめていた隔壁のひとつが、開いた。『淫魔』が通過した区画側だ。おそらく、区画制御システムは、あの毒婦によって掌握されている。
いくら待っても、応答がないわけだ。監視カメラの向こうで、白衣の老科学者が移動を開始する。ノンフレーム眼鏡の男は、両手で拳を作ると、思い切りキーボードを叩きつける。
血圧と心拍数の上昇、くわえて感情の乱れを自覚したモーリッツは薬瓶に手を伸ばす。向精神薬の錠剤を数えることなく手のひらのうえに乗せると、ざらざらと口のなかへと流しこむ。
「おのれ……到底、看過できる事態ではない。だが……盤面は、依然、ぼくの有利だろう。手駒も、カードも、こちらのほうが断然に多いのだからッ!」
がりがりと錠剤をかみ砕くと、水もなしに嚥下したノンフレーム眼鏡の男は、マイクを手元に引き寄せつつ、息を吸いこむ。
「巡回警備にまわっている『脳人形』どもは、至急、中央制御室に結集せよ! 各ブロックの制御システムは相互監視によるクリアリングをおこない、ぼくに結果を報告しろ!!」
モーリッツは、がなり声で館内放送に指示を乗せる。胃の粘膜から向精神薬の成分が吸収され、精神が冷静さを取りもどしつつある。過呼吸ぎみだったノンフレーム眼鏡の男は、肺のなかの空気を吐き出そうとして、モニターの映像に目が釘付けになる。
「『淫魔』め……ッ!」
キャスター付きのいすから勢いよく立ちあがりつつ、モーリッツは毒づく。隔壁が、閉まっていく。中央制御室のある区画だ。招集をかけた脳人形たちは、まだ到着していない。
「すでに、管制システムに侵入していたか。ぼくを孤立させる算段だろう。だが……到底、門外漢のやることだ! 直々に排除してやる……毒婦ッ!!」
どすん、と音をたてて腰を落とし、ふたたびキーボードと向かいあったモーリッツは、血走った目でモニターをにらみつけた。
→【蚕食】
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