見出し画像

【第2部8章】星を見た塔 (16/16)【撤収】

【目次】

【後退】

「チィ……ッ!」

 キャスケット帽の影で、『伯爵』は露骨な舌打ちをする。気がついた瞬間には、洞窟の奥にいたはずの偉丈夫が、空間を超越したかのように間近にいた。

 瞬間移動などではないことは、先刻の差しあいで理解している。相手の脚力があまりにも高すぎるため、距離のアドバンテージが一瞬で喪失したのだ。

「生身の人間がチーターと百メートル走をすれば、このような気分かね」

 伊達男のつぶやきを意に介する様子もなく、キャタピラがうなり声をあげて『スカーレット・ディンゴ』は通路をぐんぐん後退していく。

 グラー帝は、隔壁のまえでまだ動かない。元エージェントは、汗のにじんだ手をにぎりしめ、多機能片眼鏡<スマートモノクル>越しに目を細める。

 本気を出すまでもない、あるいは、その気になればすぐにでも追いつける、と言われているようで『伯爵』は状況にそぐわぬ苛立ちを覚える。

 戦車団頭領の練達の操縦技術は、視界を確保できないにも関わらず、バック走行でスムーズにT字路を曲がる。

「一言以ておおうならば、腹ごなしである。オードブル程度にはなろう」

 偉丈夫の宣告が角の向こうから聞こえると同時に、『伯爵』は煙幕弾のピンを抜き、後方に向かって走行する戦車のうえから通路へと投擲する。

──ブシュウゥゥゥ!

 グラー帝が『スカーレット・ディンゴ』へ最接近するまえに、濃煙が通路に充満して、双方の視界をつぶす。

「……榴弾だ、御婦人!」

『さっき言わなかったか、色男! 指示するな、ってな!!』

 砲塔のうえでひざ立ちになる『伯爵』の声と同時に、滑腔砲が弾丸を吐き出す。通路の壁に着弾すると同時に、盛大な炸裂音が反響する。

『バケモノめ、くたばりなァーッ!!』

 マム・ブランカは、さらに戦車の搭載機銃による掃射で無数の弾丸を叩きこむ。全速後退を続ける戦車のうえで、『伯爵』はデバイスを操作しはじめる。

「……くだらぬ蛮行である。汝ら、己自身を知れ」

 ひどくつまらなそうな男の声が、聞こえてくる。白煙のなかから、榴弾と銃弾によって装束を破かれ、諸肌の露わになったグラー帝が歩み出てくる。

 鍛えられ均整のとれた筋肉の上半身には、やはり、傷ひとつついていない。予想通りの光景を認めつつも、『伯爵』は再度の舌打ちをする。

『なんなんな、このバケモノは……ッ!?』

「ドラゴンよりも頑丈とは、恐れいるかね……御婦人、速度を緩めてはだめだ! このまま後退を維持しろ!!」

『そろそろ、交差路の壁にぶつかるころな! あたしゃ、いつまでも目ぇつぶって運転し続けることなんてできないよ!?』

「壁にぶつけるつもりで、かまわず真っすぐ退がり続けろ! 我輩がどうにかする。いや……いま、しているところだッ!!」

 通路の床面を蹴ろうとしたグラー帝が、一瞬、足を止める。喧噪にまぎれて、真紅の戦車の後方から、聞き慣れぬノイズ音が響く。

──ヴウゥゥ、ンッ。

「次元転移ゲート、個人仕様<パーソナルモデル>……限界半径で緊急展開ッ!」

 キャスケット帽の伊達男が叫ぶとほぼ同時に、空間に楕円形の緑色の輝きが現れる。『スカーレット・ディンゴ』の車体が、後部から光のなかへと呑みこまれていく。

 諸肌も露わな偉丈夫に対して、『伯爵』は多機能片眼鏡<スマートモノクル>ごしに、にやり、と笑う。

 砲塔に居座る伊達男ごと、真紅の戦車の全体が緑色の輝きのなかへと消滅する。追撃を中断したグラー帝が見送るなか、次元転移ゲートが閉じていく。

 やがて『伯爵』とマム・ブランカの姿は、『スカーレット・ディンゴ』の車体ごと、はじめから居なかったかのように忽然と消滅する。

 上半身の裸体をさらす大男は、空気の焦げたような独特の残り香を感じながら、しばらく通路の真ん中で足を止める。

「一言以ておおうならば……賢明である」

 グラー帝は、腕組みしたまま直立し、しばし通路の真ん中にたたずむ。つまらなそうに周囲を一瞥し、やがて、もと来た道を歩き始める。

「お待ちしておりました、陛下。如何でしたので」

 人智を超えた速度で敵に迫ったとは思えない、ゆっくりとした歩調で戻ってきたグラー帝を、真紅のローブの女が隔壁のまえで深く頭を下げて出迎える。

 諸肌をさらす偉丈夫は、返事もせずに階段をくだって天然洞窟へと戻っていく。女も無言であとに付き従う。

「お召し物の替えは?」

「先に『食事』を済ます」

「御意にございます」

 天然洞窟には、征騎士アルフレッドのほかに鎖で拘束されたパワードスーツ甲冑兵二人の死体も転がっている。

 グラー帝が『伯爵』を追撃するさい、たまたま進路上にいたため踏みつけとなり、身体があらぬ方向にへし折れて絶命した。男女にかまう様子もない。

 真紅のローブの女は、グラー帝の歩みの先に顔を向ける。『伯爵』が岩盤に刻みこんだ魔法陣が残っている。

 苦々しげに女の口元が歪む。白くしなやか指が、次元世界<パラダイム>の中心を指さす。

 大蛸の足を思わせる触手が一本、虚空から顕現して地面をなぎ払う。残された魔法文字<マギグラム>ごと、岩肌が削りとられる。

 平らに整地された次元世界<パラダイム>の中心へと、グラー帝は歩みよる。『伯爵』が呪符を置いた場所に、偉丈夫のたくましい右手のひらが触れる。

 刹那、捕食者をまえにしておびえる小動物のように、世界は身震いした。

【第9章】

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?