【第2部8章】星を見た塔 (15/16)【後退】
【未知】←
「ふむうぅぅ……」
ナイフ投げの構えをとる『伯爵』は、パワーアシストインナーの出力を右腕に集中させる。同時に、己の膂力も極限まで高める。
「フ──ンッ!」
引き絞られたクロスボウの弦を撃つように、張りつめた筋力を解放する。『伯爵』の手の先から、高硬度の刃が銃弾のごとく飛翔する。
「──ぬうぅんッ!!」
元エージェントは、パワーアシストインナーの出力を瞬間的に下半身へとスイッチする。増幅された脚力で、思いきり地面を踏み切る。
偉丈夫の額に向かって投擲されたコンバットナイフを追いかけるように、『伯爵』は跳躍する。目にも止まらぬなめらかな動作で、跳び蹴りの体勢になる。
「──フンッ!!」
腕組みしたまま、どこかつまらなそうな表情を浮かべたまま微動だにしない大男に、刃の切っ先が触れ、その柄頭を押しこむように伊達男のかかとが踏む。
持てる限りの力を振り絞り、相手の頭部にコンバットナイフを穿ちこむ一撃が命中する。にも関わらず、『伯爵』は不穏な違和感を覚える。
──パキィ……ンッ。
甲高い音が、地下空間に響く。多機能片眼鏡<スマートモノクル>越しに、元エージェントは目を見開く。
セフィロト社の技術の粋を集めて作られた高硬度の刃が、砕け散った。切っ先が突き刺さったはずの偉丈夫の額には、傷ひとつついていない。
(ふむ……しとめるまで行かなくとも、ひるませることができれば……などと思ってはいたが!)
猫のように空中で身をひねり、『伯爵』は岩肌に着地しようとする。キャスケット帽の影で、その表情は驚愕にゆがむ。己の体術が、通用しない。
滞空する元エージェントは、目の前の偉丈夫の姿がわずかに揺らぐのを見る。はじめは、目の錯覚かと思う。違う。
両足が地面に触れる刹那、『伯爵』の鼻の先まで大男が接近している。偉丈夫が無造作に歩み寄っただけでも、速すぎて動態視力がついていかない。
「……ふギイッ!?」
気がついたときには、横なぎの衝撃に弾き飛ばされていた。痛みが、遅れてやってくる。偉丈夫が、羽虫を払うように無造作に腕を振ったと理解する。
(なんという……身体<フィジカ>能力かね!)
元エージェントは、あえて衝撃に逆らわずに吹き飛ばされる。受け身をとりつつ、ごろごろと地面を転がり、ゆっくりと起きあがる。
「ふむ。これは困った。必要十分な装備を調えたつもりだったのだが……まさか、丸腰になるとは思わなんだ」
内心の動揺を隠すような平静な声音で、しかし『伯爵』は正直な所見を口にする。幸い、グラー帝と呼ばれた男の追撃はない。
両拳を握りしめ、格闘技の構えをとりつつ、元エージェントはあらためて相手の力量を類推する。
かつて対峙した『イレギュラー』と誇称される青年の戦闘能力を大きく上回り、体感ではフルパワーの『社長』にも匹敵する。
もっとも、『社長』の戦闘能力はセフィロト本社のメインリアクターから供給される導子エネルギーありきのものだ。
グラー帝と呼ばれる偉丈夫は、そのような外付けのパワーソースには頼らず、ただ単体の存在としてこの力量を持ちあわせているように見える。
(ふむ……まるで、恐竜を相手にする昆虫にでもなったような気分かね)
汗と泥の混じった嫌な臭いが、鼻につく。相対する大男のアメジストのような髪が、闇のなかでもよく目立つ。その下の眼が、『伯爵』を見る。
『そのままァ! 動くな、色男ッ!!』
拡声器越しのしわがれた声が、洞窟に反響する。次の瞬間、轟音が響く。マム・ブランカの愛車『スカーレット・ディンゴ』の主砲が、火を噴いた。
グラー帝の追撃が中断し、『伯爵』は命拾いする。弾丸が直撃し、砲撃にともなう白煙が攻撃目標である偉丈夫を包みこむ。
『どうだあ! ブランカ団をなめるなッ!!』
戦車弾の女頭領が、快哉をあげる。元エージェントは、冷静に多機能片眼鏡<スマートモノクル>の熱源探知で、土煙のなかの様子を探る。
「……洒落にならない冗談は、よしてくれないかね」
誰に言うでもなく、『伯爵』は独りごちる。やがて白煙が晴れ、多機能片眼鏡<スマートモノクル>ごしに見えていたシルエットが露わとなる。
偉丈夫が無造作に片腕をあげ、その手のひらで真正面から徹甲弾を受け止めていた。大男は、鉄の塊を無造作に投げ捨てる。
「エルヴィーナ。これは、原住民の兵器か? 一言以ておおうならば、粗野である」
「戦車の砲にございます。技術<テック>主体の次元世界<パラダイム>とはいえ、グラトニア製のものには遠く及びませんので」
「ふむ……セフィロト製、の間違いではないかね?」
水を差すような『伯爵』の言葉を受けて、グラトニアの男女二人は同時に顔を向ける。視線の先に、声の主の姿はない。
キャスケット帽の伊達男は、パワーアシストインナーの力も借りて、すでにスプリントを開始して、洞窟を横切るように駆けはじめている。
取り落としたスモークグレネードを拾うと、一息に階段を飛び越えて、破壊された隔壁のまえに着地する。再度、跳躍して老婦人の戦車のうえに陣取る。
「御婦人、全速後退だッ!」
『素人が戦車乗りに指示するな、色男!!』
グラー帝が地面を蹴るのと同時に、『スカーレット・ディンゴ』の車輪が回転する。『伯爵』の眼前に偉丈夫が着地し、またすぐに距離が離れはじめる。
アメジストのような髪の下でふたつの瞳が不気味な輝きを放ちながら、『伯爵』の視線と交錯した。
→【撤収】
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