ショートショート【ピリカ文庫】秋の気配
その朝、蛇口から流れた水を、彼女は久しぶりに冷たいと感じた。
引きずっていた眠気が、一瞬で吹き飛ばされる。
ひとつでも秋の気配を感じたら、あの計画を実行すると、彼女は夏のうちから、心に決めていたからだ。
早く、しなくちゃ。
秋がまだ、気配のままでいるうちに。
季節が完全に変わったら、あのひとは、自分の家庭へ帰ってしまうのだから。
そんなこと、させるもんか。
彼女は引出しから、小さな木箱を取り出し、ふたを開けた。
鋼の刃に、風紋の模様が刻まれた、美しいナイフが現れ、誘うようにきらめく。
その刃を見つめて、彼女はきゅっと唇を引き締めた。
彼を、絶対に帰さない。
◇◆◇
「おまえとの関係は、俺がこの街にいる間だけだからな」
2年前、そう言われて始まった恋だった。
いずれ、彼はまた転勤で、本社に戻る。それは同時に、この街では単身赴任の彼が、彼女を捨てて、自分の家庭に帰るということだ。
彼女も、それを承知していたはずなのに。
「俺、秋になったら、本社に戻るって決まったよ」
いつも以上に乱暴に抱かれた後、彼がそう言った時、彼女の心に沸き上がったのは、強烈な独占欲だった。
「初めから、わかってたよな?」
嫌。奥さんのところに帰すなんて嫌。
「おまえとは、秋が来たら終わりだな」
秋が来たら、終わり。
「……わかった」
裸の胸をタオルケットで隠しながら、彼女はそう答え、小さく笑った。
それなら、秋が来る前に、あなたと私の時間を止めてしまえばいい。
◇◆◇
一緒に、きれいな貝殻を探して。
週末、彼女はそう言って、彼を海に連れだした。
「貝殻なんて、何に使うんだよ」
「手芸用に、フリマアプリで売るの」
見た目には、夏と変わらず輝く太陽の光を、それほど熱いと感じない。ここにも、彼女を急かす秋の気配があった。
「向こうを探してみない?」
貝殻を適当に拾いながら、彼女は彼を、岩場へと誘導していく。
そして、狙い通り、人目につかない岩の陰に入ったとき。
「あっ、でかいのがあるぞ」
彼が突然、そう言いながら、自らしゃがみこんだ。
今しか、ない。
彼女はすかさず、肩にかけたバッグから、ナイフを取り出した。
私はあなたを、絶対に離さない。
そして、両手で柄を握り、彼の背中に刃を突き立てようとして……。
次の、瞬間。
「うっ!」
突然、彼女の腹が、燃えるように熱くなった。
「俺とのこと、ぺらぺら喋られちゃ、まずいからな」
ぞっとするほど、無機質な彼の声が、その衝撃に続く。
彼女は、刺されたのだ。
勢いよく振り向いた彼に、隠し持っていた包丁で。
私、は。
美しいナイフを握ったまま、彼女は崩れ落ちる。
あなたと、私の時間を、止めたかった。
それなのに、どうして、あなただけが、歩み去る、の。
彼女の頬に触れる、濡れた砂が、夏にはありえないほど冷たかった。
秋は、もう、来て、いたんだ。
そう悟ると同時に、視界が暗くなり、波音が遠ざかっていく。
そして、彼女は永遠に、その呼吸を止めた。
〔了〕
ついに、あの「ピリカ文庫」から、
「秋の気配」をお題に、オファーをいただきましたっ❣️
むふふふぅ、この時を待ってたぜ🤎
だって、ピリカ文庫の作品は、
ピリカさんのラジオ「すまいるスパイス」で
朗読していただけるんだもぉん❣️
せっかくなので、ちょっと……いや、
かなり毛色が変わったのを、書いてみました💦
パーソナリティの皆様、
朗読、楽しみにしてます💙💚💛💜❤💗💖
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