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小説「ターコイズブルーのお月さま」一章

ターコイズブルーのお月様


一章

俺はスミダ・コウジ17歳、西南高校三年だ。
俺は、幼い頃から毎年夏になるとある同じ夢を見る。
初夏、霧のような雨が降るなかで、華奢な髪の長い女性が背中を向けて立っている夢だ。
年齢は、15歳くらいだろうか。
どこかを見ているのか、目を閉じているのか、
笑っているのか、泣いているのか。
女性の表情はわからない。
背中まで伸びた長い黒髪が時々揺れる以外は、
女性は背中を向けてただ、立っているだけだ。
子供の頃には随分な大人の女性に見えたが、今では、俺自身が女性の歳を追い越してしまった。
夢の中で耳を澄ませてみるが、風のおとさえ聞こえない。
ただ霧のような雨に濡れた黒髪が揺れているだけだ。
夏になると、一度か二度、彼女は夢に現れる。

2025年5月3日土曜日
その日の最高気温は27度、午前中はすごく良い天気だったが、午後から少し曇ってきた。
午後2時、この日、俺は午後2時から午後4時30分まで、水泳部の部活があり西南高校のプールで泳いでいた。
しっかりストレッチして身体を温めたとはいえ、
5月のプールの水は、氷みたいに冷たい。
俺たちは唇を紫にして震えながらプールに入った。

顧問のサエキ先生から、2キロの練習メニューが渡された。
5分も泳ぐと感覚が皮膚が麻痺して寒ささえ感じなくなる。
そんなプールで2キロなんて尋常ならざるじたいだ。
「大丈夫だ。泳いでいたら暖かくなる」
サエキ先生は笑顔いっぱいだ。
俺はこの人の笑顔にいつも騙される。
それでも、必死で泳いでいると、きつい練習もいつか終わりがくる。
それが救いだ。
毎回練習が終わると、疲れすぎてもう2度と水泳なんてするか、と思う。
でも、きちんと次の日にまたプールにいる。
多分水泳部員はずっと泳いでいないと、呼吸ができない異常人間の集まりなのだろうと思う。
俺も、3日も泳いでいないと水が恋しくなる。

練習を終えてロッカールームで着替えていると、同級生のサトウ・ジンが、鉛筆を手に持って、狭いロッカーの中に頭を入れて真剣な顔で何か書いている。
「何してんだ、サトウ」
俺は言った。
サトウは眼鏡をかけたまま、太った身体を持て余しながら、書いている。
「6月28日の高校最後の引退試合、ベストタイムで県大会を突破できるように、予めロッカーの天井に予想タイムと結果を書いているんだ。このタイムを突破できるように練習する」
サトウは、野太い声で行った。
俺は、サトウのロッカーの天井を覗き込んだ。
サトウの描いたものが一番新しい。
「このタイムで、県大会突破できたら、このまま消さないで高校の思い出としておいておく」
サトウは言った。
どうせ、掃除のおばちゃんに見つかってすぐ消されてしまう、と思ったが、サトウの落書きの隣に、歴代の諸先輩の決意やベストタイムが落書きしてあった。

まあ、サトウのやることだ。ほっておいたほうがいい。
サトウと俺は小学校の時から同じスイミングスクールに通う友達だ。
サトウは優柔不断な俺と違い、こうと決めたら決して曲げない。
周りの雰囲気に流されやすい俺とは正反対だ。

強情なサトウと、優柔不断な俺は、いつも二人で行動していた。
二人とも大勢の人といるのが苦手だった。

俺とサトウは窮屈な詰襟の学生服に着替えて自転車に乗った。
俺の制服は、首のプラスチックのカラーが割れていて、それに髪の毛が挟まって痛い。
俺たちは、高校の近くにある駄菓子屋で少し凍ったスポーツドリンクの大瓶を買って(この駄菓子屋はなんでも凍らせたがる)、
行く川沿いの堤防に二人して寝転がった。
見るとサトウは既に大瓶のスポーツドリンクの蓋を開けて、がぶ飲みしている。

その頃の俺たちにとって、水泳部の練習終わりに、冷えたスポーツドリンクを、がぶ飲みすることが、人生で一番の幸せだった。

スポーツドリンクを飲み終えた俺たちは、瓶を学生服のポケットに突っ込んで草の上に寝転んだ。
曇っていた空が晴れて青空が見えてきた。
「コウジ、聴いたか?今年は、運動会も、文化祭も中止らしいぜ」
サトウは言った。
「そうなんだ、初めて聞いた。誰の情報だ?」
俺は聞き返した。
「東南高校のニシムラ・トモコから聞いたんだ。東南高校ではもう発表されたらしい」
サトウは言った。
「でも、俺たちには関係ないな、どうでもいいことだよ」
俺は言った。
高校三年の俺たちにとって最後になる運動会と文化祭は、学校の諸事情により中止になった。

体育祭は西南高校単独の行事だが、毎年、文化祭はライバル高校の東南高校との合同だった。
俺たちの西南高校は設立100年の伝統校、一方、その後にできた東南高校は、できてまだ10年くらいだ。
両校は何かにつけて張り合うことが多かった。
しかし唯一、一年に一回の文化祭だけは、両校合同で行われていた。
文化祭中止の情報をくれたのは、
子供頃からスイミングクラブで一緒だった東南高校に通うニシムラ・トモコからだった。
小学校時代はス、サトウと、俺と、ニシムラは何かといつもつるんでいた。
今、ニシムラは学校が違うのであまり会うことはないが、東南高校水泳部のマネージャーをしているので、合同練習会でたまに会うとことがある。
しかし、それだけの付き合いだ。

2025年5月4日日曜部
次の日の水泳部の練習は大幅に増えていた。
「顧問教師のサエキのやつ、まだ5月なのに、この寒い屋外プールで午前3キロ、午後3キロで合計6キロも泳がせやがって、身体が動かん」
サトウは言った。
「腹立つから、飯食いに行こうぜ。飯食ってエネルギー燃やさないとな。飯行こう」
俺とサトウは立ち上がり自転車に乗った。


俺とサトウは、最近よく行く喫茶店“うみねこ”に向かった。
街をぶらついていて偶然見つけた喫茶店だ。
人混みを抜けて裏路地に入り、入り口を探す。よく探さないと入り口を見つけられない。いまだに時々迷う。
入り口のから地下へ階段が伸びていて、そこを下りるとドアには“喫茶 うみねこ”と書いた木製の看板がかかっている。
ホームセンターに売っているような板に“うみねこ”とぎこちなく彫刻刀で彫られている。
古びた木製のドアを開けると、狭い店内にレコード盤がぎっしり並べられている。
きれいに掃除された水槽にめだかが一匹。
天井は低く、照明は仄かにくらい。
テンポの複雑な耳慣れない音楽が小さくなっている。
サトウと、俺は今年に入ってからこの店を見つけた。

店主は、俺の父親と同じくらいの40歳過ぎの男性だ。
「いらっしゃい」
ドアを開けるとおじさんは笑わない顔で言った。
初めて来た時、このおじさんが怖かった。
おじさんは黙っていると、厳つくて怖いが、話すと案外気さくなところもある。
コーヒーは本格的みたいだ。
しかし、本音をいうと味音痴の俺たちに、喫茶店の本格コーヒーの味なんてわからない。
本当は甘い缶コーヒーの方がずっと気楽だし口に合う。
俺たちは、テーブル席に向かいあって座り、緊張しながらホットコーヒーを注文した。
「やっぱりコーヒーはブラックだよな」
サトウはわかったような顔で言った。
俺は、サトウに合わせていつも苦いブラックコーヒーを我慢して飲む。

おじさんが大きな白いマグマップにたっぷりのブラックコーヒーを入れて。俺たちのテーブルに置いた。
俺が顔をしかめながらブラックコーヒーを飲んでいるとサトウが言った。
「嫌なら帰ればいいんだぜ」
サトウはいう。
「いやじゃないよ」
俺は言った。
サトウは、なんでも1か10だ。
大好きか大嫌いか。
敵か味方か。
俺は、曖昧に返事しながらコーヒーに口をつけた。
口ではサトウに到底かなわない。
サトウは、俺のちょっとした表情の変化さえ読む。
そして言いがかりをつける。
だが、そうして言ってくれた方が俺は楽だ。
それを嫌がる人もいるが、俺はサトウの良いところだと思う。
一言『違う』と答えてやればそれで済む問題だからだ。
その後、サトウは安心して、また自分のコーヒーに口をつける。

“うみねこ”の唯一の天窓からうっすらと光がさす。
実際古びた店内で、高校生二人いるのはとても場違いで、居心地がよくない。
でも、正直にいうと俺はこの店の緊張感が好きだった。
木目のテーブル、
かび臭い匂い、
角が擦り切れた紙のレコードジャケット、
真っ黒のコーヒーが水滴になっていつガラス器落ちていくさま。
自分がどこか別の時間に迷い込んだような気分になる。

「すみません、何か食べるものできますか?」
サトウがおじさんに聞いた。
「ランチの時間終わりましたけど、ランチセットどうですか?材料まだ残ってますので。ランチセット頼んでいただけましたらコーヒー代半額にします」
おじさんは言った。
俺たちは、好意に甘えてランチセットを頼んだ。
“うみねこ”のランチセットは、近所の定食屋さんと変わらない値段で、結構なボリュームのごはんと野菜と揚げ物がつく。
今年に入って、偶然この店を見つけてから、俺たちは、少しお小遣いに余裕があると、ここでランチセットを食べ、ブラックコーヒーを飲むのようになっていた。


俺も、サトウも高校三年になり、周りの友達は、大学模試の結果や、塾の人気講師の話をするようになった。
俺が呑気なだけで。みんな早くから志望校や行きたい学部にむけて努力していたのだ。
高校三年になって初めて、俺は完全に取り残されていることに気がついた。
「スミダ、高校出たらどうするんだ」
進学指導のサエキ先生は言った。
進学組は、ずっとまえから準備しているし、就職組はこの時期すでに就職先が決まっているもの者もいる。
「すみません・・どこか入れる大学ありますか・・」
「ないな」
サエキ先生はキッパリ言った。
「行ける大学でなくて、スミダが自分で行きたいところ考えろよ」
サエキ先生は冷たく言った。

「コウジ気にすんな、俺たち、高校三年だって人生初めてなんだ。この上、行きたい大学なんてわかるわけない。サエキ先生の指導法は間違っている」
サトウにサエキ先生の面談の事を話すと、サトウは俺を気づかってそう言った。
俺はうれしかったが、こんな屁理屈捏ねられた教師は大変だろうな、とも思った。

2025年5月5日月曜日(祝日)
ゴールデンウイークまっ最中だが、運動部は練習だ。
今日は、ライバル高の東南高校と合同練習の予定だ。
朝の8:30にプールサイドに立つと、空は曇っている。
その日最高気温26度らしい。
しかし、今現在20度にも達していない。
ということは屋外プールの水温はさらに低いだろう。
俺は上下の青いジャージでストレッチしながらゾッとした。
ストレッチしていると、東南高校の水泳部がプールサイドにやってきた。
ゴールデンウイーク中合同練習する東南高校は、インターハイに出る選手もいる強豪高だ。
みんな、堂々としていて体つきが違う。
俺たち西南高校水泳部顧問の、サエキ先生が言った。
「今日俺は、ちょっとした打ち合わせがあるから、練習メニューは、東南のマネージーから聞いてくれ」
先生はなんだか嬉しそうだ。

「今日のプールの水温18度。18度あれば一度に4キロは泳げる。午前4キロ、午後4キロ。合計8キロだ。楽勝だろ」
ライバル校、東南高校のマネージャーのニシムラ・トモコが笑いながら言った。
「俺ら川魚じゃないんだから・・ほら、お湯の100度と、サウナの100度だって違うだろうに・・」
サトウはそう言いながらも、ストレッチが済んだら、さっさとジャージを脱いで、水に入った。
震えながら、肩まで水につかり、早くもプールサイドの時計を睨んでいる。
こんな時、よくそんな減らず口が出ると思う。
俺も黙ってプールに入った。
2025年6月28日に試合がある。そこで予選落ちしたら、俺の水泳生活は終わる。
おそらく俺にとっては引退試合になるだろう。

午前中の練習練習を終えて、
お袋が入れてくれた弁当を少し食った。
サトウは自分で作った特大弁当を食べている。
「コウジ、沢山食って、体温あげとけよ、午後からもきついぞ」
サトウは言った。
俺は弁当を無理やり口に掻き込んだ。
弁当を食べたら少し元気が出てきた。
太陽が出てきて、少し気温が上がったせいもあるのかもしれない。

弁当を食った後、午後の練習まで少し時間があるので、
俺とサトウは学校の近くにに昔からある個人経営のペットショップに出かけた。
小学生の頃、森で取れたクワガタをよく売りにきた店だ。
小学生の頃は、すぐ近くにクワガタやカブトムシがいる森があったのだ。
お店のおじさんとも顔馴染みだ。

最近、サトウは暇があればここに来て、店にいるトイプードルをずっと見ている。
ペットショップという呼び方は正しいのかわからないが、店主のおじさんはワンちゃんみたいな表情の面白いおじさんだ。
サトウが見ている巻き毛の茶色い犬は、ずっと部屋の端っこで座り込んでいる。
「あいつ出してやりたいな」
サトウは言った。
値段を見ると十万円と書いてある。
最初来たとき、25万円だったのが、どういうわけか半年たつと10万円になっていた。

俺とサトウは、しゃがんで、トイプードルをじっと見つめていた。
仔犬は、きっと友達が欲しいだろうし、散歩だってしたいだろう。
そのうち初めて見る、若い女性の店員さんドアを開けて、仔犬を抱いて外に出てきた。
「抱きますか?」
サトウは首を横にふった。
店員さんは二十代くらいで、アルバイトかもしれない。
今日、店主のおじさんはいないようだ。

「散歩に連れ出してほしいんだけどな。あなたが遊んでくれたら、その間に、この子のお部屋を掃除できるから」
店員さんは、サトウに少しお願いするような顔をした。
サトウは目を輝かして、頷いた。
店員さんから排泄処理用の袋を受け取り、サトウは手慣れた様子で子犬にリードをつけて、店の外に出て地面に立たせた。
小さなリードをつけた仔犬は、道路に出た。
そして、胸を張って風の匂いをかいだ。
さすが、狼の末裔だけのことはある。
小さいけれど堂々として威厳がある。

ペットショップの隣は公園になっていて、同じように犬を散歩させている人が時々いる。
午後から、晴れてきたので、とても気持ちの良い風が吹いてくる。
仔犬は少し歩いては、風の匂いをかいだり、おしっこしたりする。おしっこするとサトウは、ペットボトルの水で流す
「コウジ、こいつ可愛いな」
いつもは無口なサトウが俺に言った。
「ここに引っ越す前、一軒屋に住んでて、子供のころ、こんな犬と暮らしていたんだ」
いつも苦味走った顔のサトウがとても平和そうに穏やかに話した。
仔犬は何度かおしっこした後、一度うんちをした。
サトウは驚く様子もなく、うんちをサッと袋に入れた。

散歩を終わって店に戻ると、犬の部屋はすっかり綺麗になっていた。
「ありがとう」
店員さんは言った。
「とても平和な散歩でした。一回うんちしました」
サトウはみょうにかしこまって店員さんに言った。
「そう。きっと楽しかったのね。顔見たらわかる」
そういって店員さんはクスッと笑った。


2025年6月28日日曜日、
早朝から俺たち、西南高校水泳部は、海上の埋立地にできたばかりの真新しい巨大な室内プールに向かった。
近々予定されている国際的なスッポーツ大会のために、わざわざ海を埋め立てて新築された室内プールだ。
光栄なことに、そのスポーツ大会より先に俺たちの水泳大会をそこで開催させてくれるらしい。

俺はクロール100メートル、一種目だけエントリーした。
クロールはとにかく選手人口が多い、
この大会で初めて大会に出る選手から、インターハイクラスまでそろっている。
俺は、自分の出番が近づくと誰にも言わないで、控え室にいき、
息を潜めて、自分の出番を待った。
名前を呼ばれて、8番のコース台にたち、プールの水面を見た時、
小学校一年から、なんとなく続けてきた水泳人生の終わりを感じた。
“テイク ユア マークス(位置について)”
のコールとともにスタートの姿勢になり、
電子音とともに、50メートル先の壁に向かって、思い切りジャンプした。

前半50メートルはとても快調だった。
人生でいちばんの泳ぎだったかもしれない。
しかし50メートルのターン後、後半、身体が動かなくなった。
ゴールして見上げた電子掲示板の俺のタイムは、ベストにも届かない平凡なものだった。
あっけなく予選落ちで俺の水泳選手生活は終わった。

サトウは2種目にエントリーして、1つレースで辛うじて予選を突破した。
400メートル個人メドレーだ。
俺から見ると一人で、バタフライ、背泳、平泳、クロールの順番で100メートルずつ4種目、合計400メートルも泳ぐなんて正気の沙汰でない。
「お前もそう思うだろ、みんなそう思うんだ。だからあえて俺はその種目を泳ぐ。泳ぎ方にコツがあるんだよ」
サトウはいつもそう言う。

自分の出番が終わった俺は、西南高校水泳部の応援席から少し離れて、一人でサトウの決勝レースを見ていた。
ふと、隣を見るとライバル高の東南高校マネージャーのニシムラ・トモコが缶コーヒーを持って俺の隣にいた。
ニシムラ・トモコと俺とサトウは、小学校の頃、同じスイミングスクールに通った幼なじみだ
「お疲れさま」
ニシムラは言った。
「別に疲れてないよ。予選で一本泳いだだけだから」
俺は答えた。
「素直じゃないな。悔しいオーラ全開だよ」
ニシムラは冷えた缶コーヒーを俺のほっぺたに押し付けて笑った。

ニシムラと俺は並んでサトウの出番を待った。
見ていると、400メートル個人メドレーの決勝レースが始まろといている。
七コースに、小柄なサトウが見える。
「ああ見えて、サトウくんなかなか策士だからね。きっと控え室から彼のレースはすでに始まっているのよ」
ニシムラは言った。
とは言ってもレースが始まれば、あいつの作戦はただ1つ、得意のバタフライでできるだけリードを開いて、あとは最後のクロールまで抜かれないようにひたすら我慢するだけだ。
個人メドレーで決勝に残る連中はどいつも、最後のクロールがばか速い。サトウは飛び抜けて速い種目はないが四種目に苦手がない。それがサトウの強みだ。

綺麗にスタートをきったサトウは、前半でリードを広げて、
最後、クロールで何人かに抜かれながらも、なんとか4位でゴールした。
「やった!」
ゴールした瞬間、俺は思わず拳を振り上げて叫んだ。
たぶんサトウにとっては体力も智力も目一杯出し切った結果だ。
とても力づよい泳ぎだった。
「サトウ、よくやった!」
俺は、プールから上がれないでいるサトウに大声で叫んだ。
「そんな大声だす、コウジくん久しぶり」
ニシムラは笑った。
「よかったね。タイムによっては上の大会へ行けるかもね」
ニシムラは控えめに言った。

ニシムラ・トモコと俺は、幼稚園の頃から同じスイミングスクールに通っていた。小学三年の時、団地に引越してきたサトウがスクールにきて三人は友達になった。
ニシムラは、その後選手コースに行きしばらく会っていなかったが、今は東南高校の水泳部マネージャーをしている。


ニシムラは、ニッと笑って俺の背中を思い切り叩いた。
「いや、いいもん見せてもらった。いつもクールなコウジくんが熱くなってて面白かった!ありがとうね」
ニシムラは、笑いながら、自分の東南高校のグループの方に歩いて行った。
ニシムラが叩いた俺の背中は、いつまでもじんじん痛んだ。


引退試合を終えた夕方。俺とサトウは、なんとなく喫茶店“うみねこ”に向かった。
“うみねこ”の重い扉を開けると、おじさんが一人テーブルに座って、流し台の掃除をしていた。
「おじさん、なんか食べるものある?」
サトウはおじさんに話した。
「残り物ですがスパゲティーナポリタン食べますか?」
俺たちは、頷いてカウンター席に座った。
「サトウ、4位おめでとう」
俺は言った。
「ありがとう」
サトウは珍しく素直に礼を言った。
しばらくして、カウンターの向こうで、じゅっと、油が跳ねる音がして、玉ねぎが焦げるとても良い匂いがしてきた。
水蒸気が上がり、大鍋に大量のスパゲティーが投入される。
俺たちは無言のまま、スパゲティーナポリタンが出来上がるのを待った。
ケチャップの匂いがして、腹がなった。

「お前さ、何か俺に話さないといけないことあるだろう、黙りやがって」
サトウは突然言った。
「近畿大会出場おめでとう」
俺は言った。
「そんなこと聞いていないよ」
サトウが何に怒っているかわからなかった。
あるいは、単に腹が減っているだけかもしれなかった。
「コウジ、人生で本当に大事なものはそれほど多くない。利口なフリするな。俺は一番大事なものをしっかり掴むぞ。掴んだらぜったい離さない」
サトウがそこまで言ったところで目の前にうまそうな大盛りスパゲティーナポリタンがきた。
「これは、店からのおごりです。
コウジさん、水泳部引退お疲れ様でした」
店主は笑わない顔で言った。
「サトウさん、決勝4位おめでとうございます」
サトウは嬉しそうに笑った。
「全く、コウジはいちいち、やることがずれているんだ」
サトウはそう言って、大盛りスパゲティーナポリタンを食べ始めた。
口の周りにケチャップがついている。
カウンターでは店主のおじさんがエプロンを外して、大きめの白いコーヒーカップにブラックコーヒーを入れて飲んでいた。
俺は、店主を見て初めてブラックコーヒーがうまそうに思えた。


2025年8月22日土曜日
夏も終わりに近づいた8月22日土曜日
お盆も終わり、夕方になると少し涼しい風が吹き始めた。
その日、サトウは用事があるということで、珍しく俺は、一人で街をブラブラしていた。
まだ暑いが、明らかに日差しも、風の匂いも違う。
高校最後の夏なんだな、と俺は実感した。

一人では手持ち無沙汰で
結局いつものように喫茶店“うみねこ”に向かった。
「いらっしゃい」
いつもどおりおじさんがいた。
おじさんは、テーブルで帳簿をつけている。
「今日は一人ですか?」
おじさんは何気なく聞いた。
「はい」
俺は答えた。

「ご注文は?」
おじさんは言った。
「今日は少し肌寒いからホットコーヒー。ブラックで」
俺は答えた。
この前、おじさんが飲んでいたブラックコーヒーがひどくうまそうに見えたのだ。
おじさんは何も言わずコーヒーの豆を挽き始めた。
俺はおじさんがコーヒーを挽く時の様子が好きだった。
静かな店内にコーヒーを挽く音が静かに響いた。
おじさんはコーヒー豆にお湯を注いだ。
コーヒーの香ばしい香りが漂ってきた。

「コウジさんは、高校卒業したらどうされるのですか?」
珍しくおじさんから話しかけてきた。
「はい・・まだ決まってないんです・・よくわからないんです・・」
俺はそう言ったきり、黙ってしまった。
俺は仕方ないから、コーヒーを
口に運んだ。
苦味が口に広がった。
コーヒーカップを手に取り、どう答えるの正解なのか、考えあぐねていると、おじさんが言った。
「コウジさん、喫茶店は退屈さを味わうための場所でもあるのです。
ここでは、話したい時話して、黙りたい時は黙っていたらいいんですよ」
おじさんはそういいながらシンクを布巾で吹き上げた。

俺はすっかりコーヒーを飲み干すと、勘定を払って外にでた。
なんとなく海が見たくなり、歩いて港の公園にむかった。
その時、堤防の端のベンチに、ひと組みの男女が見えた。
俺ははっとした。
シルエットに見覚えがあった。
女の方は東南高校のマネージャーのニシムラ・トモコだ。
ニシムラは普段と違いとてもお洒落に着飾っていた。
ボーダーのラインが入った、スカート短めの白いワンピースに緑のポシェットを、たすき掛けにして、黒いハイヒールを軽やかに履いている。
隣の男はサトウだ。
何故だか俺はひどく動揺した。
別にサトウと、ニシムラがいっしょにいてもなんの問題もない。
俺だって、水泳大会で一緒にいたではないか。
俺は、どうしてこんなに動揺しているのか、自分でもわからなかった。

6   
いつの間にか、高校最後の夏休みも終わろうとしていた。
子供の頃からずっと毎日のように一緒にいたのに、俺はサトウと、もう一週間以上も会っていなかった。
サトウからも連絡がさっぱり途絶えた。
サトウと会う前に以前に、自分がどうしてこんなに動揺しているのかわからなかった。
言葉にならない感情が次々沸いてきた。
ほんのちょっとしたことで俺はどうにかなってしまうのだ、と初めて気がついた。
クラブを引退した後、わずかな夏休みの残りを、
俺はずっと部屋に閉じこもって過ごした。
そして部屋の天井ばかり見ていた。
何かをはっきりさせるのが怖かった。

2025年8月29日金曜日、
夏休み残り3日になって、俺は急に思いたって、夜行列車に乗った。
あの日以来ずっと部屋に閉じこもっていた。ある日ふと遠くに行きたくなったのだ。
母親にだけ告げて、夜暗くなってから俺は荷物を持って家をでた。
午後11時、駅のホームに人はまばらだ。
俺は、海まで行く列車の一番安い切符を買った。
この街からできるだけ遠いところに行きたかった。
俺は子供の頃、家族で行った海辺の街を目指した。

午後11時すぎ、列車は人のまばらなホームをゆっくりと発車した。
俺は四人がけのコンパートメント席に一人で座り、ずっと頬杖をついて窓の外を見ていた。
真っ暗な外を見ていると、心が麻痺してきて何も考えなくても良いような気がしてきた。
そのうち俺は眠っていた。
夢に、15歳の女性が現れた。いつもどおり後ろ姿のみだ。
たまには振り向いてくれれば良いのに。
夢の中で俺は思った。

朝方、俺は寒さで身震いして目が覚めた。
「この席座ってもええか?」
俺が目を開けると背中に大きな荷物を背負ったおばさんが乗ってきた。
俺は身体を起こして席をつめた。
おばさんは重そうな荷物を背中から下ろして、座席に置いた
「寝てたのにごめんな」
おばさんは言った。
外はうっすらと明るくなっていてきた、もうすぐ朝だ。
まだ太陽が上がる前の薄い闇の向こうに微かに海が見えた。
そのうちおばさんは、おにぎりを取り出して食べ始めた。
俺がその様子を見ているとおばさんはおにぎりを1つ差し出した。
「ぼく、おにぎり食べるか?」
“ぼく”と呼ばれて、子供扱いされたみたいで俺は少しむっとなったが、俺は頷いて、おにぎりを1つもらった。
そして口を大きく開けてかぶりついた。
「おいしい」
おにぎりは美味しかった。
このところ、食事も美味しく感じられず、ただ飲み込んでいただけだった。
久しぶりに、食べ物の味を感じた。
「この向こうの町で朝市があるんや。この荷物は全部イチジクや。うちで作ってるんや」
おばさんは荷物からイチジクを1つ取り出した。
「食べてみ」
手で皮を剥いて差し出した。
おばさんの手はシワだらけで、ざらざらだったが、とても器用にイチジクの皮を剥いた。
俺は1つ口に入れた。
イチジクは柔らかく、ほんのりと甘く胃の中に入ってもなんだか体を温めてくれるようだった。
「今は、美味しいもんたくさんあるから、君らの口には、合わへんかもしれへんけどな」
おばさんは笑った。
イチジクはとても美味しかった。
いつまでも喉の奥で、イチジクの暖かい甘さが感じられた。
「おばさん、イチジク二個売ってください」
俺は思わず言った。
おばさんは嬉しそうに、イチジクを二個出した。
俺は百円玉を二枚差し出した。
「まいどあり」
おばさんは言った。
そのうち列車は静かに止まった。
駅に停車したのだ。
おばさんは重そうな荷物を背負い直して席を立ち上がった。
立ち上がってから俺の足元を見た。
「あれ」
おばさんは俺の足音のあたりに手を伸ばして何かを拾った、そしてそれを俺に見せた。
おばさんの手には、青く輝く宝石のあしらわれた、指輪が乗せられていた。
「これ君の持ち物やろ」
俺は宝石の輝きに目を細めた。
「俺、こんな高そうな指輪持ってません」
俺は言った。
「そうか・・おかしいな・・ここには君しか居らへんかったのにな・・」
おばさんは言った。
「私思うんやけど、それたぶん君の持ち物はやと思う。しっかりもっとき」
おばさんは俺の掌に指輪を載せてしっかり握らせた。
「また、どこかであえたらええね」
「はい・・ありがとうございます」
俺は頭を下げた。
列車が動き出したところで、俺はおばさんの降りた駅が自分の目的の駅だと気付いた。
慌てて、ドアに向かったが、もう列車はかなりの速度で走り初めていた。
俺は、諦めて座席に戻った。
俺はズボンのポケットに指輪を入れた。
窓から外を見ると、
列車は曲がりくねった絶壁が続く海岸線を走っていた、はるか崖の下は海で、波が岩に当たって白く輝いている。
列車はとても長い時間、曲がりくねった断崖の線路を走った
俺は何度もポケットの指輪を指で撫でた。
そうしていると、いつの間にか列車は、終点を迎えたらしくゆっくりと停止した。

俺は、リュックを抱えて列車を降りた。
駅は簡単な木造の建物とホームだけの、誰もいない無人の駅だった。
はじめて降りる駅。
知らない町。
ホームに立つと強い風を感じた。風は潮の匂いがした。
俺は中学に入った時もらった腕時計を見た。
まだ、早朝6時半だ。

俺は差額分のお金と切符を駅の切符箱に切符を入れて駅をでた。
駅を出るとすぐそこに長い砂浜が見える。
強風が吹いているせいで波は高い。
風の音と、波の音がすごい。
俺は、風に苦労しながら砂浜に座り込んで海を眺めていた。
そのうち、俺はふと思い立ってカバンからノートを取り出してちびた鉛筆でスケッチを始めた。

海は少し荒れていて、波は高い、サーフィンをしている人が見えた。
俺は、横線で区切られたノートに、目の前の風景を描いた。
昔はよく、絵を描いた。
サトウと、ニシムラと三人で教科書の端にパラパラ漫画を書いたりした。
書き上げた風景を見て少し寂しくなったので、スケッチしている自分を描きこんだ。

サーフィンの人が、海から上がってこちらに歩いている。
ウエットスーツでよくわからなかったけれど、サーフィンの人は女性だった。
「もうすぐ台風が来る。良い波来るんだけど、そろそろ危ないから上がったよ」
女性は言った。
ウエットスーツの背中のファスナーを下ろして上半身だけ脱いで腰で結んだ。
鍛え上げられた、たくましい上半身だった。

「これのむか?」
女性はポットを出して、紙コップに何か飲みものを入れて、俺に渡した。
コップから湯気が上がっている。
「わたしは好きなんだが、癖があるからな」
「ありがとうございます」
俺は頭を下げて、コップを受け取り一口それを飲んだ。
懐かしい味だ。
たちまち、小学校の自然学校の事が頭に浮かんだ。
すごく甘くて苦い味。
「これ・・・飲んだことあります・・」
遠泳を終えて浜に上がった時飲んだのだ。
「そうか、それは生姜湯だよ。クセはあるが体が温まる。クセのある食い物の方が記憶に残るものなのかもしれないな」
女性は言った。
「実は、風の強い、こんな朝から見慣れない学生が海岸にいたので、心配になって上がってきたんだ。こう見えても私は、先生だからな」
俺は、リュックにイチジクがあるのを思い出した。
リュックからイチジクを1つ出して、女性にわたした。
「イチジクだな。懐かしいよ。田舎のばあちゃん家で作ってるんだ。ありがたくいただくよ」
女性は美味しそうにイチジクを頬張った。
俺は何か言いたかったが、言葉が出なかった。
そうしているうちに雲が切れて太陽が見えた。
「綺麗だな。最高の朝だ。私たちはついてる」
女性は背伸びしながら言った。
「台風がやばくなる前に、もう少し良い波を待つよ。イチジクありがとう」
女性は言った。
俺が見ていると、女性は波に倒されても、流されても何度もサーフボードで波に乗ろうとした。
少し、小雨が落ちてきたので俺は帰りの電車に乗った。

   
その日の夕方ごろになって、俺は自分の最寄り駅に帰ってきた。
駅を降りると辺りは霧がかかっていて、霧のような雨が降っていた。雨はだんだん強くなってきた。
俺は傘を持っていなかった。この雨の中濡れながら家に帰るのは辛い。
俺は諦めて引き返した。駅からすぐのショッピングセンターに映画館がある。そこなら濡れずに行ける。
何か適当に映画を見て時間を過ごそうと思った。
映画が終わるころ雨も上がっているかもしれないし、店で傘を買うこともできる。
映画館に行くと午後9時20からの映画のレイトショーがまだ間にあう。
別に時間潰すだけだ。
どんな映画でも良かった。
俺は適当にチケットを買って映画が始まるまでの間コーヒーを頼んで、喫茶スペースで時間を過ごしていた。
スケッチのノートを鞄から出して、映画館の様子をスケッチした。
海に行ってから何かのスイッチが急に入ったように絵が描きたくなった。
書いていると気持ちが落ち着いた。
コーヒーが運ばれてきたので、
俺はスケッチの手を止めてコーヒーカップを持とうとすると、ふと目の前に一人の女性が俺に背中を向けて座っていた。
黒いトップスにスカート、
そして長い黒髪。
首筋から顎へのラインがとてつもなく美しい。
女性はサッと立ち上がり、スカートを揺らしながら俺に向かって歩いた。
「こんにちは」
女性は俺に声をかけた。
俺は驚いた。
「君、今朝、海であったな」
女性は俺に問い詰めた。
俺が黙っていると女性は意外なことを言った。
「生徒手帳出して」
俺は素直に生徒手帳を出した。
「西南高校三年のスミダ・コウジ」
女性は俺の名前を読み上げた。
「偶然だけど、二学期から西南高校進路指導部勤務になった、
モトキ・アメだ。生徒手帳は預かる」
俺は、騙されている気分になった。
そのあと、緊張で全く映画に集中できなかった。



サトウ・ジン
夏休みが終わるまで後わずかだ。
サトウは高校生活で初めて一人きりの夏の終わりを過ごしていた。
2025年8月27日木曜日
サトウは、6月28日の試合で県大会を突破して、10月の地方大会に出場が決まっていた。
水泳部顧問のサエキ先生の手配で、大会まで朝6:30から8時までスイミングスクール選手コースの練習に入れてもらっていた。
そして練習が終わったら、図書館で勉強して、夕方になると毎日一人で喫茶店“うみねこ”へ向かった。
夕方はだいたいサトウと、いつも詰碁集を解いているお爺さんの二人だ。
サトウは、コーヒーを一杯だけ頼んで、じっとドアが開くのを待ち続けた。
誰よりも自分の感情に正直なサトウが、あの日からうまく笑うことができなくなっていた。
サトウはただ黙って決まりごとのように毎日夕方“うみねこ”に向かった。
サトウはそのうち、“うみねこ”のおじさんとアルバイトの契約書を交わして、客の皿を洗ったり、テーブルを拭いたり、ついにはコーヒーを淹れるようになっていた。
店で働くようになると、今まで知らなかったいろんなことを知った。
のんびりやに見えるおじさんは、店の隅々までとても気を配っていた。
サトウは自分がカウンターの奥に立つようになり、このなんでもないように見える喫茶店の隅々まで、おじさんの気遣いが詰まっていることに気がついた。
夏休みの終わり、8月29日、
おじさんは、サトウに給料を渡した。
わずかだが、サトウは初めて自分で金を稼いだ。
サトウの高校最後の夏休みが終わろうとしていた。


2025年8月29日金曜日、
少し曇り気味で、8月にしては涼しい夕方だった。
アルバイトが終わって、
初めての給料をもってサトウはペットショップに向かった。
赤トンボが飛んで、もう秋の風が吹き始めている。
相変わらず、トイプードルはそこにいた。
だいぶ大きくなっている。
サトウはトイプードルを見て、久しぶりに少し笑顔がでた。
「今日は一人なのね」
女性店員さんが出てきた。
「はい。よかったら散歩行きますよ」
「ありがとう。散歩、お願いできる?この子もう半年も飼い主が見つからないの店長さんが里親を探そうって言っているの」
店員さんは困った顔をした。
サトウは、自分の財布を見たがとても買える金額はない。
しかもサトウの家は県営の団地だ。
サトウは、仔犬にリードを丁寧につけて外に連れ出した。
この犬はあちらこちら動き回り、
好奇心旺盛だ。草の匂いを嗅いだり、走ったり、戻ったり。
それを落ち着いつきがないと受け取る人もいるだろう。
サトウは、自分の子供時代を少し思い出していた。
落ち着きがなく、ちょっとした事で喧嘩してしまう、
話しだすと止まらない。
やがて学校に行けなくなり、
両親は腫れ物に触るようにサトウに接した。
だがそれは違った。
今ならわかる。
親父とお袋はサトウの好きなようにさせてくれた。
信じてくれていた。
そして好きな水泳だけは続けさせてくれた。
そしてサトウを信じてくれる友達がいた。
コウジとトモコは、サトウがスイミングにサボろうとすると、
家の前まできてサトウを誘った。
今ならわかる。俺は守られてここまできたんだ
サトウは思った。
サトウは仔犬に、にっこり笑った。
一時間ほど歩いて、ペットショップに戻ると、店員さんは、ゲージの中を全て取り払い、綺麗に吹き上げていた。
「あれ、この子、どこに帰ったらいいんですか?」
サトウは言った。
「ううん、この子店長に言って、私が譲り受けたの。
しばらく私の家で里親が見つかるまで預かるつもり」
店員さんは笑った。
「ちょっと着替えてくるね」
店員さんは、店の奥入り、しばらくして、赤いスカートと、ベージュのブラウスに着替えて現れた。
「今日は、私もう仕事終わりだから、この子連れて帰るわ。ごめんなさい、もしよかったら近くだから連れてきてくれない?」
店員さんは、仔犬を撫でながら行った。

「私は、シイノキ・ホノカ23歳あなたは?」
「僕は、サトウ・ジンです。高校三年生です」
「サトウ・ジンくん、無理を言ってごめんね」
そうして、サトウと、ホノカと、仔犬はペットショップを出発した。


ホノカは長い髪を頭の後ろで束ねて身軽に歩いた。
しばらく歩くと、ぽつりぽつりと大粒の雨が空から落ちてきた。
サトウは素早く仔犬を抱き上げた。
ホノカは、自分のカバンか折り畳み傘を出して開いてから、
仔犬を抱くサトウに傘をさした。
「わたし、雨の日が好き。晴れている日よりずっとね」
ホノカは、水たまりを大股で避けながら、楽しそうに歩いた。
ホノカと一緒なら雨も風も楽しめそうだな、サトウは思った。

サトウと、ホノカは一件の古い一軒家についた。
「ありがとう。助かったわ。あがってもらいたいところだけど、さすがに私も女の子なので、ここまででお願い。勝手でごめんね」
ホノカはすまなさそうに言った。
ホノカは一人で住んでいるのだろうか。広い庭がある立派な一軒家だ。
サトウは頷いて、仔犬をアメに預けようとした。
仔犬は急にサトウのお腹の上でおしっこを漏らした。
「嬉ションだ。嬉しくておしっこ漏らしたんだよ」
ホノカが言った。サトウの制服のシャツとズボンがおしっこで濡れた。
「ごめんね、仕方ないな。あがって」
サトウが家の中に入ると、ほとんど家具のない畳の部屋に、トランペットが1つと、古いレコードプレーヤーと数枚のレコード。あとは本やノートが床に落ちているだけだった。
すでに犬のトイレが置いてあった。
「何にもないでしょ。テレビもラジオもないの、かろうじて、古いレコードプレーヤーだけ。レコードがあるからね。ほら、これに着替えて」
アメは、シンプルなTシャツと、ブルージーンズをもってきた。
ジーンズは、太り気味のサトウには入りそうにない。
「ありうがとうございます」
それでもサトウはそういうと、浴室でシャツと、ジーンズに着替えた。
ジーンズは、お腹をへっこませたら、なんとか入った。丈が短くてて、スネが出てしまうけれど。
サトウが浴室を出ると、ホノカが一枚の紙を持って座って待っていた。
ホノカとサトウはなんとなく肩を並べて、床に体操座りした。
「これ、この子の血統書。ほら、おじいさん、ムーン・ウオーカー、って名前だって」
ホノカは言った。
「ホノカさん、この子の名前あるんですか?」
サトウは聞いた。
「この子はモイではどうかしら。フィンランド語で“こんにちは”って意味なの。私の母さんが昔フィンランドに旅行したことあってよく私に“モイ、ホノカ”って言ってくれたの」
「へえ、モイか」
サトウは感心した。
辺りは暗くなって来た。
窓から月明かりだけが二人を照らした。
「いつか、あのお月様に行ける日がくるのかしら」
「お月様でモイを散歩させたいですね」
サトウとホノカは、お互いがお互いの体温を感じながら、しばらくそのまま座っていた。
「ホノカさん、僕帰ります」
急にサトウはそう言って立ち上がった。
「制服は洗って返すからね」
ホノカはそう言って玄関までサトウを送った。
「ホノカさん、ありがとうございます。帰ります」
サトウはそういってホノカの家をでた。
ホノカのシャツは良い香りがした。
サトウは落ち着いた幸せな気持ちになった。

10
2025年8月31日日曜日
サトウにとって高校生最後の夏休み最終日、
サトウは、スイミングクラブで水泳の朝練をしてから、
すぐに喫茶店“うみねこ”に向かった。
なんだか、今日を逃してはいけない気がしていた。
エプロンをつけて、テーブルを拭き上げていると、ドアのベルが、からんと鳴った。
サトウは、ドアを振り返った
常連の詰碁のお爺さんだった。
サトウは肩を落とした。
サトウは、さっきからテーブルの同じところばっかり拭いている。
常連のお爺さんは、ベレー帽をとって、テーブルに腰掛けてカバンから詰碁の本を出してぶつぶつ言っている。

サトウは急いで、お爺さんのところに水をもって注文を取りに言った。
急ぎすぎてエプロンも紐が、椅子のかどに引っ掛かり、椅子を倒してその反動で、水もこぼしてしまった。
店主のおじさんは見かねてグラスを磨きながらサトウに言った。
「サトウくん、今日は仕事終わっていいよ。コウジくんの家に行って来たらいい」
おじさんは言った。
「いや、ここに残ります。俺がコウジの家に行く理由はないです」
サトウは言った。
おじさんはため息をついた。
「理由がなくても、会いに行くのが親友だよ。このまま卒業して後悔しないように」
おじさんは言った。
サトウは、おじさんに丁寧に頭を下げて、エプロンを外して、ドアからダッシュした。


「コウジ!降りてこい」
サトウは、コウジの家まで行き、玄関のしたから、二階のコウジの部屋に向かって大声で叫んだ。
「コウジ、文句あるなら、出てこい!」
サトウは水泳部の中でも肺活量のある方だ。人の倍は大声が出る。
近所の家から窓をピシャリと閉める音した。
5回目に叫んだとき、家のドアが開いて、中学生のコウジの妹が出てきた。
「お兄ちゃんなら、今朝、水着持って出かけましたけど」
妹は迷惑そうに言った。
「そうなんだ、ありがとう」
サトウは、妹に礼を言って、一度家に帰り、自分のプールバッグを持って西南高校のプールに向かって走った。

サトウは、西南高校の門をくぐって、土剥き出しの坂を、息を切らしながら登った。
西南高校にはたくさんの木が生えている。
まるで森の中にいるみたいだ。
学校創立時から西南高校の卒業生は卒業する時、
木を植える。
だから毎年西南高校の森は深くなる。
創立百年の西南高校の一番古い木は樹齢百年だ。

プールの方から、ライバル校の東南高校の現役の水泳部員が歩いてくるのが見えた。
今日は東南高校との合同練習があったようだ。
サトウの後輩の西南高校の二年部員ヒラツカ・ケンとすれ違った。
「サトウ先輩、お疲れ様です。今日は午前中で合同練習終わりました。しかし・・」
ヒラツカは、心配そうにサトウに言った。
「俺たち現役生の練習は終わりましたが、コウジ先輩全然プールから上がってこないです。俺たちがプールに来たときはもう泳いでいて、今も泳いでいます」
「やっぱり」
サトウはプールに走った
案の定、一人で黙々と泳ぐ生徒がいる。
サトウはプールサイドで急いで水着に着替えた。

「コウジ先輩、お昼ご飯も食べないでもう3時半も泳いでいるんですよ」
西南高校の後輩二年の新キャプテンのモトヤマ・ノブヤが困り切った顔で言った。
「いいよ、俺、見てるから、おまえら帰れ。明日から新学期だしな」
サトウは言った。

サトウは、プールの水を右手ですくって身体にかけてから、震えながら足から水に入った。
「さみぃ」
8月31日にもなると水温も随分下がって来ている。
「コウジにはぜってー負けない」
サトウは言った。

11
俺はスミダ・コウジ。
俺は夢中で泳いでいた。
苦しかったのは最初に1時間くらいで、その後は嘘みたいに身体が軽くなった。
25メートルのターンをするたびに、自分の余計なモヤモヤがどこかに消えていくような気がした。
馬鹿とも、ナルシストとでもなんとで思ったらいい。
ただ、泳がずにいられないんだよ。


隣のコースに誰か入った。
呼吸のタイミングと、くせのあるバタフライのフォームで、すぐサトウとわかった。

もう平気だと思っていたが、サトウを目の当たりにするとせっかく消し去ったドロドロの感情がまた浮かびあがってきた。
俺は前だけ見るように努めた。見ていいのは、プールの底の白いラインと、呼吸した時の真っ青な秋の空だけだ。
集中するんだ。
俺は自分に言い聞かせた。
サトウは黙々と泳ぎつづける俺の隣で、自分の存在を見せつけるように同じように泳いだ。
俺はサトウを気にしないように気落ちを集中させた。
気にしないようにするとますます気になる。
俺は両手、両足に力をこめてスピードをあげた。

プールのフェンスの向こうで、ライバル校の東南高校マネージャー、ニシムラ・トモコはじっとコウジとサトウの様子を見ていた。
東南高校の新しい主将、二年のヨシダ・ミヨがニシムラ・トモコにズカズカと歩いて行った。
「ニシムラ先輩、練習終わりましたよ、帰らないんですか?」
ヨシダはまっすぐニシムラ・トモコを見て言った。
「ヨシダか・・」
ニシムラはそう言った切り黙ってしまった。
「ニシムラ先輩、どういうつもりなんですか、そんな高みから、男二人を見てて楽しいですか!」
ヨシダは厳しい口調でニシムラ・トモコに言った。
ニシムラ・トモコは、早朝、コウジがプールに入ってからずっとコウジの姿を見ていた。
「それは優しさのつもりですか?私にはただ人の気持ちをもてあそんでいるだけに見えますが」
ヨシダは言った。
ニシムラは答えた。
「私は、小学校の時から、サトウくんと、コウジくんと友達なのよ。で、夏休み前に、サトウくんから、付き合って欲しいと告白されたの、でも返事できなくて・・」
トモコは言った。
「ニシムラ先輩、オトコの話はもうどうでもいいです。勝手にしてください。それより、腰の故障、完治したらしいですね。また、泳ぐのですか?」
ヨシダは鋭い目でトモコを見た。
トモコはヨシダの目をしっかり見返した。
「私は複雑なことはわかりません。でも、ニシムラ先輩には泳いでいて欲しい」
ヨシダは言った。

ヨシダと、トモコはかつて同じ中学の水泳部だった。中学までほとんど泳げなかったヨシダにとってトモコは目標であり、神だった。

トモコは、時には褒め、時には突き放しヨシダに泳ぎを教えた。
ヨシダは、トモコを追いかけて東南高校に来たが、ヨシダが水泳部に入った時には、トモコはすでに水泳をやめていた。
かつて自分に泳ぎを教えてくれたトモコに、褒めて欲しい一心でヨシダは今まで水泳を続けてきていた。

記録を残したり、レースで勝つだけがスポーツではない。
それもニシムラから学んだ。
しかし、本当のニシムラ・トモコという人間をヨシダは知っていた。
優しい笑顔のニシムラ・トモコは仮の姿だ。
ニシムラ・トモコは誰よりも執着心があり、
勝つためにはどんな犠牲も厭わない。残酷で、非情で、そして最高に美しく気高い。
泳いでいる時のニシムラは誰も寄せ付けない女王のようなオーラを纏っていた。
だから、今のトモコをヨシダは見ていられなかった。
レースの中でしか生きられないのに、レースから逃げている。
ヨシダにはそんな風に見えて仕方なかった。


俺は昼をまたいで、もう四時間以上泳いでいた。
サトウも黙々と隣を泳いだ。
俺が先に止まるわけにはいかない。
俺はさらにスピードをあげた。
夕方4時をすぎたくらいで、
サトウに異変がおきた。
俺は、しばらく何が起きたか、わからなかった。
急にサトウの姿が見えなくなった。
振り返ると、サトウが水底に沈んでいる。
足が、つったのかもしれない。

ニシムラ・トモコはフェンスの向こうで叫んだ。
「やばい!溺れる!」
アップアップして溺れそうになっているサトウを見て遠くで見ていたニシムラ・トモコが動こうとしたが、ヨシダ・ミヨがニシムラを止めた。
「もし行くのなら、サトウ先輩のこときちんと受け入れてあげてください。もしニシムラ先輩が、サトウ先輩のこと大事に思っているのなら」
ヨシダは言った。
ニシムラは動けなかった。


両足をつって、溺れそうになっているサトウの方に俺は必死で泳いだ。
俺は気がつくと、夢中でサトウを持ち上げようとしていた。
俺は、サトウをやっとのことでプールサイドに引っ張り上げて、足をストレッチした。
サトウも俺も、何か話そうと思うけれど、言葉が出ない。
寒くて口の筋肉が動かない。

俺たちは、かろうじてタオルで身体を拭いて、プールサイドに仰向けに倒れ込んだ。
いつの間にか夕方になっていた。
微かな夕焼け空に、たくさんのトンボが飛んでいる。
俺はとても久しぶりに気持ちが落ち着いているのに気がついた。
その時、聴き慣れない女性の声がした。
「お前ら、なにやってる!早く帰れ!」
俺とサトウが振り向くと、長い髪を揺らしながら、
黒いスカートの女性がたっていた。
「お前ら早く帰れよ。私は、2学期から、サエキ先生に変わって水泳部の顧問をするモトキ・アメだ。これから厳しく行くからな、覚悟しろよ」
俺は驚いた、映画館で俺の生徒手帳を取り上げた女性だった。
俺とサトウは、よろよろしながら立ち上がった。


俺たちが、部室に向かっていると、部室の前に東南高校のニシムラ・トモコの顔が見えた。
「あんた達、どこまでばかなのよ!いい加減にしなさい!」
トモコは言った。
そしてサトウに向かって言った。
「サトウくん、私は忙しいんだ。だから、交際のお申し込みはお断りします、あしからず」
トモコは明るく笑った。
俺は、サトウの方を見た。
サトウは、ぼうぜんとしていた。

部室で、サトウはロッカーに頭を入れて、春に自分が書いた目標タイムを消して、10月のレースにむけて新しく目標タイムを書き直した。
「コウジ、愛ってなんだろう」
タイムを書きながらサトウが真顔で俺に言った。
「神聖な部室でやめてくれ、お前が言うとエロい」
俺は言った。
「どっちにしても、俺はふられたんだ」
サトウは言った。
「だいぶ前に東南高のヨシダ・ミヨがお前に気があるって、ヒラツカが言ってたぞ」
俺はサトウに言った。
「ヒラツカの言うことは7割ウソだ。それにヨシダは美人だがおっかない。それよりコウジ、飯付き合え、お前のおごりで」
「なんで俺の奢りなんだよ」
俺は言った。
「“うみねこ”ランチ大盛りコーヒーつきな」
俺たちは、自転車に乗って、“うみねこ”に向かった。

12
川沿いの堤防を自転車で走っていると、遠くに、トランペットを練習している女性がいた。
傍にリードに繋がれた仔犬が安心しきった表情で眠っている。
幸せな情景だった。
俺とサトウは、自転車を置いて草の上に腰かけた。
「人生はハッピーになるようにできてる。だから俺は、誰になんと思われても、好きなようにやってやる」
サトウは言った。
「勘弁してくれよ、そのたび俺が割りをくう」
俺は言った。
サトウに振り回されているのは、ほんとだ。
しかし、曲がりなりにも、俺がなんとかやって行けているのは、サトウがいたからだ。
「“ハッピーになるようにできている”ってのは死んだ親父のほとんど唯一のまともな見解なんだけどな」
サトウは立ち上がって、トランペットを吹いている女性を見ていた。
「コウジ、“うみねこ”いくぞ」
サトウは立ちあがった。
俺たちは喫茶店“うみねこ”へ向かった。

13
“うみねこ”の前まで来ると、今日は中がいやに騒々しい。
ドアを開けると、西南高校、水泳部の部員たちで店はいっぱいだった。
「コウジ、ついに俺たちの隠れ家を知られてしまった」
サトウは真剣に言った。

常連の詰碁おじさんは、「騒々しいね」と言いながらなんだか嬉しそうだった。
俺と、サトウと店主のおじさんで水泳部員全員分の、スパゲティーナポリタンを作った。
俺と、サトウの分の勘定は後輩たちが払ってくれた。
奴らも俺とサトウのことを心配してくれていたんだ。

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