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小説「ターコイズブルーのお月さま」3章

三章
29
2025年10月26日日曜日
俺は、イチノセ・ダイに呼び出されて、廃部したはずの映画研究会の部室にいた。
部室には、俺とイチノセと、カタヤマ・ゲンキとタカハシ・タロウがいた。
サトウは、喫茶店“うみねこ”のアルバイトのために欠席だ。
「今から、コウジがこの前に撮影した8ミリフィルムを上映する。スクリーンないから、天井に画面を写すよ」
久しぶりに会ったイチノセは、廃部扱いだった映画研究部をなんらかのルートで復活させて、昔の部室まで使える手筈を整えていた。
「ここなら、集まっても停学にならない。学校内だからな。その代わりどんな手を使っても映画が完成するまで成績を落とすな。
映画撮るなら成績優秀であることが絶対条件だ。そこがクリアできていれば、先生は大概のことは目を瞑ってくれる。世の中そういうもんだ。わずか一週間ほどのことだ」
映画研究部の部室の中には、8ミリの映写機や、編集用の機材など一式がそのまま残されていた。
しかし俺は知っている。
イチノセが撮りたいのは、映画ではなく、
ニシムラ・トモコの姿を撮りたいのだ。


「歓喜の3分が始まる」
イチノセは、俺が撮影したニシムラ・トモコのフィルムを、
カメラ屋のタカハシに大急ぎで現像させて、
すでに映写機にセットしていた。
カタカタと機械が動き出し、無音の映像が天井に映し出された。

四角い天井の画面に、夕日の空が映り、太陽の逆光に髪の長い学生服の女性が現れた。
女性は、スカートをふわりと揺らして、正面から反対側に回り込み、カメラはそれを追った。
女性はカメラを覗き込み両手で髪を掻き上げながら、軽快な足取りで右から左に歩く
とても幸せそうに笑っている。
音声は入っていないが、笑い声が聞こえて来そうだ。
女性は背筋を伸ばしてとてもリズミカルにステップを踏む。
女性は幸せそうな表情で振り返り、口元で何かを呟いたあと、もう一度夕日の中に入り、そこで映像は終わった。
イチノセは映写機のスイッチを止めて、電灯をつけて、カーテンを開けた。
「可愛いい、めちゃくちゃ、ばくれつ可愛いいニシムラ・トモコちゃん」
イチノセは言った。
西南高校、国立理系トップクラスのイチノセにしては稚拙な表現力と言わねばならない。

窓の外が何やら騒がしい。
俺は窓から顔を出した。
窓のしたに高校生が数人集まってきている。
「いいか、コウジ、俺が書いた脚本をもとにニシムラ・トモコ姫主演の映画を撮る。そのための協力者をよんである」
窓の下に集まっていた学生が部室に入ってきた。
「コウジ先輩、お久しぶりっす」
西南高校水泳部、二年のキャプテン、ヒラツカ・ケンだった。
ヒラツカも、ニシムラのファンだったのだ。
そのほかの生徒も西南高校二年と、あと半分は東南高校の学生も入ってきた。
「コウジ、俺たち三年は受験を控えていて、今もモトキ先生にマークされている。なんかあったらいっぱつ停学だ。だから俺たちは、脚本と段取りだけして、映画の撮影は、二年のヒラツカたちにやらせる」
イチノセは、自分勝手なことを偉そうに言った。
「コウジ、いいか、こいつら全員、ニシムラ・トモコ姫のファンだ。
こいつらが全身全霊を込めて、ニシムラ・トモコ姫の卒業記念映画をとる。
コウジ、お前の使命は、ニシムラ・トモコ姫の撮影を本人に交渉することだ」
イチノセはきっぱりと言った。
そこで映画の長いミーテイングが終わり、
俺たち三年は、モトキ先生に睨まれる前に、帰宅した。

29
他の生徒は帰ったが、
西南高校二年水泳部のヒラツカ・ケンと、
東南高校二年水泳部のヨシダ・ミヨだけが映画研究部の部室に残っていた。
ヨシダ・ミヨが、ヒラツカに言った。
「誰も彼も、揃いも揃って、ニシムラ、ニシムラ、ってそんなんだからリアル彼女できないんだよ!」
ヨシダ・ミヨは、そう言い終わると脱力してまた座った。
「でも、実際、ニシムラ・トモコ先輩、可愛いし、かっこいいもんね、わたしとは大違いだよ」
ヨシダは力なく目を伏せて一人ごとを言った。
ヨシダはプールの中ではやたら強気だが、水から上がると途端に、
内気で気弱な、控えめな女子高生に戻ってしまう。

目を伏せるヨシダ・ミヨをヒラツカは真っ直ぐ見た。
「ヨシダさん、映画に出てください。僕はヨシダさんを主役にして映画を撮りたいと思っています。プールでもどこでも、ヨシダさんと競っている時のニシムラ先輩が一番輝いているんです。最高のニシムラ先輩をとるためには、ヨシダさんが絶対必要なんです」
ヨシダ、ミヨは、顔をあげて、
ヒラツカを見た。
ヨシダは、なんだか胸が熱くなった。


「コウジくん、おめでとう、模擬試験、モトキ先生の条件クリアしたみたいだね」
俺が学校の近くの駄菓子屋で缶コーヒーを飲んでいたら、東南高校のニシムラ・トモコが現れた。
「何しに、気軽にライバル校に来てんだよ」
俺は言った。
「せっかく褒めてあげたのに、ひねくれものめ」
ニシムラはそう言って、俺の頬に買ったばかりのほかほかの肉まんの袋を押し付けた。
「お祝いだ。これでもくらえ」
ニシムラは袋の中の肉まんを出して、
俺の口に押し込んだ。

俺たちは、駄菓子屋の店のベンチに並んで座って一つの缶コーヒーを二人で飲みながら、肉まんを食べた。
「コウジくん、私、アメリカに行くことになったの。うちのスイミングスクールの強化選手に選ばれた。今日は西南高校の先生に挨拶に来たんだ」
ニシムラは言った。
「へえ、すごいじゃない」
俺も、ニシムラにはこう言う反応しかできない。多分サトウも。
しかし、夏の終わり何時間も泳ぎながら、ずっとニシムラのことを考えていた。
ニシムラと離れて平気なわけがない。
俺たちは、その後黙って肉まんを食べた。

「おおっ、ニシムラ・トモコ先輩だ!」
その時、8ミリカメラを構えた、西南高校のヒラツカ、モトヤマ、その他大勢の生徒が、ニシムラの周りを取り囲んだ。
その奥から、ヨシダ。ミヨが現れた。
モトヤマ・ノブヤがニシムラの、前まで来て言った。
「ニシムラ先輩、いいところで出会いました!次のシーン先輩の出番なんです。撮影協力お願いしまーす!」
イチノセの思惑どおり、いつのまにか、8ミリ映画撮影隊は、二年完全にに仕切られていた。

俺はニシムラに言った。
「ニシムラ、言い忘れた、お前を主人公に映画を撮りたいそうだ、あとは任せたぞ」
俺は残りの肉まんを口に放り込んで
立ち上がった。
「コウジくん、また逃げるの?相変わらず、ずるい」
ニシムラは口を尖らせた。
「あとは、よろしくな」
俺はその場を離れた。
「コウジくん、他に何かないの?」
ニシムラは言った。
俺が返事に困っていると、ヨシダたち、映画撮影隊は、ニシムラの周りに集まって、映画を撮り始めた。
ニシムラがチラリを俺の方を見た。
俺はニシムラと目が合った。
一言、行かないでくれ、
と言えない自分が心底情けなくなった。


2025年11月5日水曜日
「コウジ先輩、8ミリ映画、だいたいシーンは撮り終えたので、僕の家まで見に来てください。今から編集作業に入ります。サトウ先輩も呼んでいます」
俺が昼休みに机で弁当食べていたら、二年のモトヤマ・ノブヤが俺のところまで来て言った。
モトヤマの家に行くと、ヒラツカが、一生懸命8ミリのフィルムを編集していた。
特殊なカッターで、フィルムを文字通り切って、それをシーンごとにテープでとめる。
ヒラツカは、無言で作業を続けている。

俺がこたつで手持ち無沙汰にしていると、
後ろのドアが空いて、東南高校水泳部の、ヨシダ・ミヨが、バスケットに大量のおにぎりを持って現れた。
不格好で、大きなまんまるおにぎりだ。
「コウジ先輩、お久しぶりです」
ヨシダ・ミヨは俺に会釈した。
ヨシダは、ポットから暖かいお茶を注いで、編集に集中しているヒラツカに渡した。
サトウがやってきた。
「世界的音楽プロデューサーのアダチ・リョウさんが俺たちの映画のために音楽を作ってくれた・・。これ使ってくれって・・」

サトウはカセットテープをモトヤマに渡した。
その次の日から、二年生はモトヤマの家にとまり込んで、映画の最後の仕上げをした。

ヨシダ・ミヨは、サトウと俺に向かってはにかみながら言った。
「私は・・2025年11月16日日曜日、私たち二年で、中止になった合同文化祭を復活させたいんです・・。
最高の文化祭で、三年の先輩たちに、ヒラツカ君の映画を見てほしいんです・・」

サトウは楽しそうに呟いた。
「嬉しいこというねぇ、お手並拝見だな」
そして俺に目配せした。
「おもしろそうだな」
俺も言った。

2025年11月15日土曜部
秘密の文化祭前日。
その日は朝から少し霧があったが暖かな太陽がさす気持ちの良い日だった。
午前7:00西南高校職員室
ヨシダ・ミヨが職員室の扉をあけて、輪転機のある印刷室に入ると、すでにモトヤマとヒラツカが文化祭のチラシの印刷を始めていた。
今から町中にチラシを配り文化祭の宣伝をするのだ。
ヨシダは、印刷の終わったチラシの束を持って角を揃えた。
ヒラツカが、ヨシダの隣にきて同じようにチラシの角を揃えた。
「ヨシダさん、俺、子供のころ母親と、合同文化祭にきたことがあるんです。西南高校生が8ミリ映画上映してて、それがすごくかっこよくて西南高校に憧れて入学したんです。だから文化祭を成功させたいです」
ヒラツカはヨシダに話すとき、いつも少し視線をずらして話す。
今日もヒラツカは、けしてヨシダの目を見ない。
「ヒラツカくん、どうして横向いて話すの?私のこと嫌いなの?」
ヨシダは、ヒラツカに言った。
「いえ、嫌いじゃ無いです」
ヒラツカはその後、黙ってしまった。
ヨシダは諦めて刷り上がったチラシを両手で抱えた。
「このチラシ、自転車に運んでくるよ」
ヨシダは、ヒラツカと、モトヤマを残して出来上がったチラシを自転車に積み込みに行った。
廊下に出ると前からモトキ先生がやってくるのが見えた。
“やばい、ばれたら一番困るモトキ先生だ!”
ヨシダは、とっさに近くの教室に隠れた。
ヨシダは、教室の隅で息を殺して様子を伺った。
しばらくして、遠くから
モトキ先生の大きな怒鳴り声が聞こえた。
ヨシダは身体が硬直した。
誰かが見つかったようだ。
ヨシダは、とっさにモトヤマとヒラツカを助けに行こうと立ち上がった。
その時、後ろで誰かがヨシダの腕を掴んだ。
“見つかった?”
ヨシダは硬直した。
「ヨシダさん、俺です大丈夫です」
振り返るとヒラツカがいた。
「ヨシダさん、あなたが行っても何も変わりません。
あなたが捕まってしまったら、全てが止まります。だからここは逃げてください。モトヤマは大丈夫です。信じましょう」
ヒラツカは初めてヨシダの目を見て言った。
そう言ってヒラツカは、教室を出て職員室の方に歩いて行った。

ヨシダ・ミヨはヒラツカに言われた通り、窓から教室を出て、玄関で靴を履き、とぼとぼ家に帰った。
「なんか勢いで偉そうに仕切ってきたけど、意味あんのかな。私・・夢ばっか見て、またばかなことやってるよな・・」
ヨシダは、急に全身の力が抜けた気がした。
川沿いの堤防に座って考えた。
自分はいつもそうだ。夢みたいなこと考えて、空回りして、落ち込んで、後に何も残らない。
なんでみんなみたいに、うまくやれないんだろう。
ヨシダはぼんやり、川の流れをみていた。
本当に自分が嫌になる。
ヨシダが、座っていると、いつの間にかヨシダの隣に小さな犬が寝転んでいた。
右手を小さな犬がペロペロと舐めている。
「ごめんなさい、犬、大丈夫?」
その後に女の人がやってきて犬を抱えた。
「大丈夫です、むしろワンちゃん大好きです」
ヨシダは言った。
女性は言った。
「モイっていうの。フィンランド語で“こんにちは”っていう意味なの。父さんがむかし北欧を旅したことがあったんだって。だからモイ」
女の人は笑った。
とても素敵な笑顔。
なんて綺麗で素敵な女性なんだ。
それに比べた自分は、ガサツで
調子に乗ったと思ったら、すぐに落ち込む。
ヨシダは、モイの背中を撫でながらポロリと涙が落ちた。
「あれ、あなた、東南高校の子?」
小柄な女性は、ヨシダに言った。
「文化祭がんばってね」
女の人はそう言うと、爽やかに微笑んで歩いて行った。
あの女の人、なんで文化祭のこと知ってたんだろう?
ヨシダは、そのまま河原で眠ってしまった。

ヨシダが目を開けると、ヒラツカが隣にいた。
「ヨシダさん、目が覚めましたか、文化祭、モトキ先生のストップがかかりました。モトヤマが今学校で交渉しています。僕たちはモトヤマの家に戻って映画編集の続きをしましょう」
ヒラツカは言った。
「もう、ダメだよ。モトキ先生に秘密の文化祭計画ばれたんでしょ、どうにもならないよ」
「ヨシダさん、それでも映画を完成させましょう。
ヨシダさんは、ヨシダさんしかできないことがあります。
ヨシダさんが、諦めなければ、文化祭は必ずできます。
まだ時間はあります。流れが変わるのを待ちましょう」
夕方になってモトヤマが戻ってきた。ずっと学校にいたらしい。
「モトキ先生と話してきた。俺は、できるだけのことを話してきた。言えることは言ってきたよ」
モトヤマは、ピースサインをした。
「そうか、ありがとう。とにかく映画を完成させよう」
ヒラツカと、モトヤマはまた作業に戻った。
夕方になり、一人、二人と仲間が集まってきて、幻の文化祭前夜の夜を過ごした。
「ヨシダさん、ご飯作るから手伝って」
フスマがあいて、モトヤマのお母さんが、ヨシダを呼んだ。
見渡すと、編集作業してるヒラツカと、モトヤマ以外床に伏して眠っていた。

モトヤマの家の台所で、モトヤマもお母さんと、炊き出しみたいな大量の豚汁と、おにぎりを作った。
「おばさん、ごめんなさい。毎日入り浸って」
「そうね、みんながいると毎日落ち着かないわね。血が騒いで

おばさんは笑った。
「????」
「私も、高校のとき、あなたたちみたいに、仲間と映画をとったことがあるのよ。あなたたちを見てると、自分の事みたいに気持ちがワクワクする。おばさんは、こうしてあなたたちのお祭り騒ぎに参加してる気分なの。楽しいよね。お祭り騒ぎ」
「おばさんも、映画撮ってたの?」
ヨシダは聞いた。
「そう。こんなおばさんにも、高校時代があり、甘ずっぱい思い出があり、ばかな事してた時期があるんだよ」
おばさんはそう言いながら、お味噌汁の入った大きな鍋をみんながいる部屋に運んだ。
ヨシダもおにぎりが入ったお皿を運んだ。

部屋に行くと、ずっと編集機材から離れなかったヒラツカが、急に立ち上がって、ヨシダに向かって言った。
「ヨシダさんに1番に見てもらいたいです。完成しました。編集したら、短くなってしまいましたけれど」
ヒラツカは顔じゅうほころばして嬉しそうに言いながら、両手をヨシダに差し出した。
ヨシダは思わず、ヒラツカの手を握った。
ヒラツカの手は脂ギッシュなゴツゴツした手だった。
そのうち、モトヤマや、外の仲間が集まってきて、みんなで手を握りあった。
「できたな、ヒラツカ」
モトヤマがヒラツカの背中を叩いた。
みんなで握手して喜んだ。
「今から音楽と声を録音します。あとは僕たちでするので、ヨシダさんたち女子は帰ってください。この文化祭計画はここまで。みんなありがとう。これ以上遅くなると、みんな学校に睨まれます。気をつけて帰ってください」
ヨシダたち女子は、夜8時にモトヤマの家を出た。
女子みんなで夜空を見上げながら、歌を歌いながらかえった。

家に帰ったヨシダは、シャワーを浴びて布団に入った。
ヒラツカが言うようにチャンスはあるんだろうか、そう考えるながらいつの間にか眠りに落ちていた。

ヨシダが目を覚ますと、時間はまだ朝の5:30分だ。
急いで着替えて、母親に断ってから、モトヤマの家に向かった。
途中で、ランニング中のニシムラ・トモコと出会った。
「ヨシダ、映画できたんでしょ、それ持って今日、学校の視聴室にいきな」
ニシムラは言った。
「いえ・・文化祭は、先生にばれて、できなくなったんです・・」
「先生に止められるかもしれいけど、とにかく視聴覚室にいきな」
ニシムラはそう言って、白い息を吐きながらランニングに戻った。
ヨシダが、モトヤマの家につくと、ちょど朝の6時ごろだった。
朝方なのに部屋はまだ明かりがついていた。
中に入ると、ヒラツカとモトヤマがちょうど、音楽を入れているところだった。
「おはよう、ヨシダさん、たった今完成しました」
ヒラツカとモトヤマは立ち上がって背伸びをした。
「行こう、学校に行こう」
ヨシダは、二人の手をとった。
三人は朝日を浴びながら学校に向かった。
西南高校の校門を校舎の前にまで行くと、ランニングウエアのニシムラ・トモコが立っていた。
「視聴覚室の鍵、借りてきた、もちろんちゃんと合法的に」
ニシムラは微笑みながら視聴覚室の鍵をヨシダに手渡した。

2025年11月16日日曜日
幻になった“文化祭”当日の朝がやってきた。

「ヨシダさん、映写機セットできました。今から上映します」
ヒラツカはそう言いながら、誰もいない視聴覚室に一人でスクリーンを広げていった。
あれだけ必死で作ったのに観客はたったの三人だ。
ヒラツカと、モトヤマは、ヨシダのところにいき、手をさしだして握手を求めてきた。
「ヨシダさん、ありがとう、君がいてくれたから、この映画は完成した」
ヒラツカは言った。
「ああ、カーテン閉めなくちゃ・・」
ヨシダは照れ臭くて、握手してすぐ手をひっこめて、窓のカーテンを閉めに向かった。
外は晴れ渡っていて、11月とは思えない暖かさだ。
ヨシダが室内のカーテンを閉めて暗くした後、
モトヤマが映写機のスイッチを入れると、真っ白なスクリーンに長方形の光が映し出された。
しばらくの空白の後、映画は始まった。

静かな朝、東南高校2年のヨシダ・ミヨ扮する女生徒が、いつも通りに学校の裏門をくぐる。
カメラは、ヨシダ・ミヨを斜め下から捉える。
人の気配がしない。
よく見ると、何人かの生徒がその場に倒れている。

ミヨの動きにあえわせてカメラが移動すると前方に一人のほっそりとした女性が立っている。
東南高校3年のニシムラ・トモコ扮する髪の長い、黒ずくめの魔術師が、遠くから、ミヨを見つめている。
カメラは、そのまま魔術師、トモコの表情をアップにする。
そこでニシムラ・トモコが口元で何か呟いて、右手の杖を一振りしようと右手をあげた瞬間、スキンヘッドの格闘家が現れて、魔法使いの杖を足蹴りして振らせないようにする。
そこから、魔術師ニシムラ・トモコと格闘家カタヤマの格闘のシーンが始まる。

ヒラツカは自分が回したカメラの映像を食い入るように見ている。
普段控えめで大人しいニシムラ・トモコが、魔法使いの衣装をきて長い髪を振り乱しながら、カタヤマと、カンフーの激しい殺陣を繰りひろげた。
「ニシムラ先輩、いつもと違う・・ぞくぞくするくらいきれい・・」
ヨシダ・ミヨは呟いた。
その後、ヨシダはうつむいて、画面を見ることができなかった。
大嫌いな自分が画面に映るのが耐えられなかったのだ。

映画の中のヨシダ・ミヨはその場を逃げようとするが。
足元で倒れていた生徒につまずく。
ヨシダがつまずいた衝撃で生徒は目を覚ましゾンビ化してヨシダを追いかける。
悲鳴を上げて走るヨシダ。
そこに世界的な音楽プロデューサーのリョウの音楽が流れる。
魔術師役のニシムラ・トモコと、格闘家役のカタヤマはカンフーの殺陣をじっくり練り上げ、殺陣の一つ一つの動きを作り上げていた。
こう言う時のカタヤマは、本当に粘り強く一つ一つの動きを丹念上げていく。
二人の殺陣をヒラツカはいろんな角度から何度も撮影していて、スピード感とテンポが出るように、フィルムをうまく繋ぎ合わせていた。
魔術師役ニシムラ・トモコが杖でカタヤマを何度も打とうとする、
その度、格闘家、カタヤマは巧みにそれを避けて
わずかな隙に、強烈な回し蹴り繰り出す。
カタヤマの大技を魔術師ニシムラは難なくかわすが、あまりの技のキレのため、避けても風圧でニシムラの頬はカミソリで引いたように真っ直ぐに赤い傷が残る。
体力で勝る格闘家、カタヤマの執拗な攻撃に、魔術師ニシムラは次第に体力を消耗し、やがて防戦するのが精一杯になっていった。
そこを無機質なアダチ・リョウの音楽が盛り上げていく。
リョウの音楽は、たとえ学生の8ミリ映画であっても最高の敬意を払って、映像のイメージを損なわず、シーンを強烈に印象づける。
まごう事なきプロフェッショナルの仕事だ。
とうとう格闘家、カタヤマのまわし蹴りが、魔術師ニシムラを捉えたと思われた瞬間、あたりに急に霧が立ち込めて黒い帽子だけ残して魔術師の姿は消えた。

ヨシダは、それ以上そこにいるのが恥ずかしくなり視聴覚室から外に出た。

ヨシダが調理実習室を覗くと、
ニシムラ・トモコが一人で床をホウキで履いていた。
「あっ、ヨシダ。いいところにきた」
ニシムラはヨシダ・ミヨに微笑んだ。
ヨシダは仕方なく、調理室の掃除と飾り付けを手伝った。
ニシムラは机をつなげてテーブルにして回った。

ニシムラ・トモコは、クーラーボックスの中から、ホットケーキミックスと卵を出した。
「ヨシダ、今からたった2人のホットケーキ屋さん、はじめよう」
ニシムラ・トモコはそう言うと、調理室の奥から2枚のお皿を出してきた。
その時がらりと、ドアが空いて、映画制作にも関わった女生徒数人がコーヒーやジュースを持って入ってきた。
「私たちもホットケーキ屋さん、手伝わせてください」
ささやかな文化祭の参加者は一気に人数は十人近くに増えた。


2025年、11月16日日曜日
俺はスミダ・コウジ。
西南高校三年生だ。
この日は、本来“文化祭”をする予定だった日だ。
午前7:00俺は“うみねこ”まで走った。
厨房ではおじさんとサトウがサンドイッチを作っている。
テーブルには、イチノセとカタヤマが優雅にコーヒーを飲んでいる。
「“文化祭”とは概念だ。肩こりも概念だ」
イチノセがまた理屈っぽいことを言っている。
カタヤマは相手にしていない。
サトウは厨房で一生懸命サンドイッチを作っている。
誰も聞いてくれないので、イチノセは仕方なく俺に話す。
「コウジ、俺たちがどこで、何をしても文化祭だと思えば文化祭じゃないだろうか」
イチノセは言った。
「だったら、学校でしてもいいわけだよな」
イチノセは言った。

おじさんが言った。
「西南高校からサンドイッチの注文が大量に入りました。君たちこれを西南高校の校長室まで届けてくれないですか」
おじさんはだいぶ話せるようになっていた。
そう言うと、おじさんはサンドイッチがいっぱい詰まったバスケットを俺たちに渡した。
      
俺は、おじさんが用意したサンドイッチ入った袋とポットを肩から担いだ。
「僕も後で学校に行くよ。出前お願いします」
おじさんは言った。
俺たちは店をでた。

30
「喫茶店“うみねこ”です。注文のサンドイッチ届けに来ました」
俺たちは、サンドイッチを持って西南高校まで行った。
警備のおじさんはすぐに中に入れてくれた。

俺とサトウとイチノセとカタヤマはゾロソロと廊下を歩いて校長室まで言った。
校長室をノックして、返事があったのでドアを開けた。
校長先生は椅子に座って手元の本を見ていた。
詰碁の本だった。
「詰碁お爺さん!」
顔をあげた校長先生は、いつも“うみねこ”にくる詰碁のお爺さんだった。
サトウは校長先生に挨拶もせず、
サンドイッチをお爺さんに差し出した。
「生徒の皆さん、モトキ先生から文化祭の申し込みがありましたよ。許可は出しましたよ」
校長先生は、サンドイッチのバスケットを抱えて言った。
「このサンドイッチは僕一人で食べますから、あげないよ」
校長先生こと“詰碁のお爺さん”は言った。

校長室をでて、玄関に行くと
玄関にスーツ姿のサメジマ医師が立っていた。
サトウはサメジマ医師を見てあとずさりした。
「今日、俺は母校に挨拶に来ただけだよ。お前にどうこう言いにきたわけじゃない」
サメジマ医師はサトウに言った。
「サトウくん、前に医者になりたいと言っていたな。医者になるのは難しいぞ、金も時間もかかるし、なってからも忙しい。しかし多分、宇宙に行くよりは簡単だ。サトウくん、待ってるよ」
サメジマ先生はそう言うと、立派そうなコートを脱いで校舎に入って行った。


俺は視覚室に入った。
広い教室にヒラツカ、モトヤマ、の2人が、椅子に座ったまま寝落ちしていた。
「スミダ、あいつらを起こしてやれ」
後ろから誰かの声がした。
「お前ら強硬に祭、始めちまったな、モトキ先生おこるぞ!」
俺は驚いて息が詰まった。
振り向くと1学期の進路指導、休職中のサエキ先生だった。
サエキ先生はポケットから何か出した。
俺の生徒手帳だった。
「手帳返してもらってなかっただろ、モトキ先生から預かった。中の大事なもん、なくすなよ」
先生はそう言うと手帳を開いた。
生徒手帳を開けると、ビニールカバーの裏に、青い宝石がついた指輪が挟んであった。
「これは、スミダ、お前のもんだよ。大切にしろよな。俺は校長に挨拶しに行ってくるよ」
見覚えがあるような、ないような、宝石。
俺は、生徒手帳を、胸ポケットにしまった。


ホノカとおじさんはタクシーに乗って学校に向かっていた。
タクシーは、西南高校の校門を入り、校舎のまえに止まった。
ホノカが財布からタクシー代を払おうとしたら、タクシーの運転手が言った。
「タクシー代は西南高校の先生からもらってます。今日は学校で何かあるんですかね、賑やかですね」
タクシー運転手は微笑んだ。
おじさんが見ると、構内にたくさんの生徒が集まっていた。
「サトウくんから、文化祭中止になったって聞いていたけどな」
ホノカが呟いた。

サトウは、視聴覚室に向かっていた。
廊下で西南高校の制服の生徒、東南高校の制服の生徒とすれ違う。
文化祭計画はなくなったはずだ。
サトウは不思議に思いながら廊下を歩いた。


ヨシダ・ミヨは、調理実習室でホットメーキミックスに泡立て器をかけていた。
ニシムラ・トモコはカーテンに飾り付けをしている。他の女生徒はテーブルにクロスをかけている。
気温は低い。しかし青空の見える気持ちの良い朝だ。

「学校、懐かしな」
ホノカは言った。
おじさんとホノカは、自然と人の流れに乗って歩いていた。
高校はたくさんの生徒とお客さんでとても賑わっていた。
生徒たちが、ビニールテントを立てて、たこ焼きや、焼きそばの準備をしている。
吹奏楽部のトランペットの音がどこからか聞こえる、反対からはバンド演奏のドラムの音が響く。
まるで文化祭見たいに。

ホノカは自分の高校三年の時を思い出していた。
世界的な危機が起こり、ホノカの高校三年の文化祭は中止になった。
しかし、五年後自分はこうして学校に戻っている。
まるで時間が五年前に戻ったみたいだ。
ホノカは、左半身が動きづらいおじさんを支えながら、人の流れに乗って教室に入った。
どこからか、ホットケーキの良い匂いがしてきた。
「ホットケーキの匂いがするな・・」
おじさんが言った。
少し歩くと“ホットケーキ”と書いた看板が見えた。
引き戸を開けると数人の生徒が、清潔そうなエプロンをつけて忙しく歩いていた。
勉強机を4つ寄せてテーブル状にしてテーブルクロスをかけてある。


「やばい、お客さん来ちゃった」
女生徒の一人が驚いた表情でいった。
薄いブルーのとても素敵なエプロンをした、髪の長い女生徒だ。
「すみません、お客さん来ると思っていなかったので、まだ用意できてないんです」
女生徒は、すまなさそうに言った。
「いえ、いえ、こちらこそごめんなさい」
ホノカも同時に誤って、面と向かってなんだか二人とも笑ってしまった。
後ろから、聞き覚えのある野太い声がした。
ホノカが振り向くと、商店街バンドの八百屋のおじさんだった。
「この部屋に、果物届けるように依頼があったんで」
八百屋のおじさんが持って来た箱には、果物やチョコレートスプレー、生クリーム、卵、ホッケーキミックスがぎっしり入っていた。

どんどんお客さんが教室に入ってきた。
そのうち小さな子供連れの、若いお母さんが教室に入ってきた。
「ぼく、イチゴのホットケーキ食べたい!」
お母さんは困っている。
まだ準備ができてないは一目瞭然だ。
「お腹すいた!」
男の子はソワソワしだして、今にも泣き出しそうだ。
お母さんは、少しこわごわ、女生徒に言った。
「イチゴの、ホットケーキできますか?」
女生徒はお母さんに少し会釈して、男の子の前にしゃがんだ。
「君、今からホットケーキ焼いて、イチゴ載せるから、それまで待てる?静かに座ってられる?」
「う・・ん、いやだ、すぐ食べたい!」
男の子は言った。
お母さんがその時、口を開いた。
「ごめんなさい、ここで、この子と私でホットケーキ作り、手伝いさせてもらえないかしら」
お母さんが言った。
女生徒は言った。
「お母さんグッドアイデア!ここ調理実習室なんです!一緒に作りましょう!」
お母さんと、男の子は流し台に立った。
男の子は元気にお母さんと話しながら、ホットケーキを泡立て始めた。
お母さんも、男の子楽しそうだ。
「嘘みたい!私、高校の時、この学校の調理部だったの。学生に戻ったみたい。楽しい」
お母さんは笑った。

ホノカとおじさんは窓ぎわの席で、窓の外を見ながら
バナナのホットケーキを分けて食べた。
教室の一番後ろの角の席。
その場所からは、窓から校庭が見渡せる。
おじさんはこの席に見覚えがあった。
窓の外に大きなかえでの木が一本うわっている。
「ホノカ、昔、あのかえでの木に、ぼくはある女の子と登った。
ぼくが高校生の時だ」
おじさんは、静かにホットケーキを口に運んだ。
ホノカは黙って聞いていた。
「やがてぼくはその子と結婚して二人の女の子が生まれた」
女生徒が、紙コップにコーヒーを入れてテーブルにおいた。
「ありがとう」
ホノカが、丁寧に女生徒にお礼を言った。
「僕のせいで、彼女はもう2度と、あのかえでの木には登れなくなってしまった・・」
おじさんは言った。

ホットケーキを食べた後、ホノカとおじさんは視聴覚室に入った。
階段状になった視聴覚室に西南高校、東南高校の生徒、そして一般の人たちが座っている。
今から、8ミリ映画の上映がある。
生徒たちが、スクリーンを引き、映写機を据付けている。
不思議な光景だった。
あるはずのない“文化祭”に、いるはずのないたくさんのお客さんで視聴覚室がいっぱいになっている。
おじさんが、席に着くと
おじさんの少し前の席に、さっきホットケーキを作っていた母子がいた。
男の子はたくさんの学生に囲まれて、目を輝かせてスクリーンを見上げている。
やがて視覚室の窓を全部閉められて、カーテンが引かれて部屋は真っ暗になった。
そして、ひと巻きのフィルムが映写機にセットされた。
「みんな、僕らの映画を今からかけるよ。見えるかな?」
一人の男子生徒が言った。
電灯のスイッチが切られ、あたりは真っ暗になり、そしてスクリーンに長方形の光が映し出された。


8ミリ映画
「ゾンビの学校」
企画 スミダ・コウジ 西南高校三年
   サトウ・ジン  西南高校三年
原案・脚本
   イチノセ・ダイ   西南高校三年
カメラ・技術指導
   タカハシ・タロウ   西南高校三年
アクション・演技指導
   カタヤマ・ゲンキ   西南高校三年
監督・カメラ
ヒラツカ・ケン 西南高校二年
場面設定
   モトヤマ・ノブヤ西南高校二年
ヨシダ・ミヨのナレーションから映画は始まった。
“わたしは高校二年の水泳部員イロハ
その日は、この夏いちばんの暑さで、
温度計は42度を指したまま壊れてしまった。
雲ひとつない真っ青な空。
わたしは、部活が終わって帰る途中、プールに水をたす水道の栓を閉めないで帰ったことに気がついた。
明日からクラブは一週間の休みだ。
水道の栓を閉めないとプールから水が溢れて大変なことになってしまう。わたしは、水道の栓を閉めるため、走って学校に引き返した。
「ゾンビの学校」
タイトルは、ニシムラ・トモコの手書きだ。
登場人物
主人公  イロハ 東南高校二年
ヨシダ・ミヨ

格闘家  シグナ 西南高校三年
カタヤマ・ゲンキ

女魔術師 リン  東南高校三年
ニシムラ・トモコ

視聴覚室の端でヨシダ、ミヨは顔を伏せたまま、自分のナレーションを聞いていた。
耳慣れない、しかし確かに自分の声が聞こえてくる。
ここにいたくない。
しかし、離れたくもない。
なんで視聴覚室に来てしまったのだろう。
ヨシダは悔やんだ。
「ヨシダさん、目を開けてください」
隣から声がした。
ヒラツカの声だった。
ヨシダは、それでも目を開けることができなかった。
音楽や、セリフで映画の進み具合がわかる。
でも、怖くて目を開けることができなかった。

シーン1
学校から帰宅途中、水道の栓がしまっていないことに気がついた
イロハ(ヨシダ・ミヨ)が、髪を振り乱して学校に戻るところから始まる。
校門をくぐり、ひたすら水道の栓を閉めるために必死で走っている。
画面いっぱいに、焦りで泣きそうなでイロハの横顔が映る。
映画の中のイロハ、本当に水道の水を出しっぱなしにして、慌てて部活に戻っているみたいに見えた。

シーン2、
石ころにつまずいたり鞄から水筒が落ちて拾いに行ったり、焦れば焦るほど、イロハはプールにたどり着けない。
「なんだこれこれ?」
さっきまでクラブ活動で走り回っていた生徒たちが、全員グラウンドに倒れて眠っている。
それでも、イロハは水道の栓を締めなければならない。
イロハは倒れている生徒につまずき、そのショックで生徒は目を覚ます、
生徒たちはまるでゾンビのような表情でイロハを追いかけてくる。
ゾンビから逃げたと思ったら、謎のスキンヘッドの格闘家シグナ(カタヤマ・ゲンキ)が現れて、敵か味方かわからない女魔術師リンまで現れてさらにイロハ(ヨシダ・ミヨ)のいく手は阻まれる。
その間にも、開いたままで水を出し続ける水道。
焦った表情で、ひたすらプールを目指すイロハ(ヨシダ・ミヨ)


「カミサマ、どうか早く映画を終わらせてください・・」
ヨシダは心の中で願った。
ヨシダの思いとは裏腹に映画のストーリーはなかなか進まない。

シーン3。
走っても、走ってもプールにたどり着かない疲労困憊のイロハの前で女魔術師リンと、格闘家シグナが迫力あるカンフーで戦いを繰り広げる。
盛り上がる音楽。

「もう、戦いはいいから・・早く終わってよ・・」
ヨシダは思った。

上映されている映画の音声だけを聞きながら、目を閉じたヨシダは恥ずかしさに早く映画が終わることだけを願った。
ヨシダは満員の視聴覚室中の人が全員、映画の中の情けない自分を見ていると思うといたたまれない気持ちになった。
とうとう、視聴覚室を出ようとした時、ヨシダの右手を誰かの手が握った。
「ヨシダさん。目を開けてください。映画の中のヨシダさん最高に素敵ですよ」
そう言われて、目を開けたヨシダの見上げた先に、ヒラツカの優しい顔が見えた。

シーン4
映画はクライマックスに突き進んでいた。
格闘家シグナとの戦いに敗れた女魔術師リンは煙になって消えてしまった。
イロハの背後から、格闘家シグナが追いかけてくる。
イロハは、懸命に逃げる。
またもやイロハは、何かに足を取られて転んで、仰向けに倒れた。
倒れたすぐ先は池だ。
そのまま走っていたら池に落ちるところだ。
「そんなばかな!なんでここで、コケるんだ?」
イロハは半泣きだ。
イロハを助けたのは、自分を転ばせた木の根っこだった。
足に木の根っこが右足に巻き着いていたおかげで、池に落ちずにすんだのだ。
しかし、ピンチは変わらない。
イロハの頭上には無慈悲な雲ひとつない真っ青の夏の空が広がっていた。
「勘弁してほしい・・」
イロハは汗を拭く気力さえなく呟いた。

ヒラツカの手を必死で握りながら、
ヨシダ・ミヨは視聴覚室で映画の中の自分を見ていた。
ミヨは、中学一年の時、初めて水泳の大会に出た時を思い出していた。
その日もすごく暑い夏の日だった。
中学一年の初めての水泳大会。
200メートルクロール。
「ヨシダ、逃げなよ。逃げていいんだよ」
一つ先輩のニシムラがヨシダに声をかけた。
ヨシダは初めての大会で緊張に体が震えて、会場の外でしゃがんだまま冷や汗をかきながら動けずにいた。

一つ学年が先輩の中学二年、ニシムラ・トモコが心配して追いかけてきてくれたのだ。
「見てごらんよ、素敵な空だよ。水泳大会はまだあるけど、こんな最高の日は、今日しかないよ」
ニシムラは草の上に仰向けに寝そべって空を見上げた。
ヨシダもおそるおそる隣に寝そべった。
夏の太陽光線は強烈すぎてやばい。
肌がじりじり焼けていたい。
ヨシダには今日の空がとても素敵とは思えなかった。
隣のニシムラは平気な顔で寝そべっている。
顔に熱風が当たった。
ヨシダは、にわかに正気になった。
「ニシムラ先輩、こんなとこで寝てたらやばいです!お肌がさがさになります!
起きてくださいわたし、戻りますから」
ヨシダはニシムラの腕を掴んだ。
ニシムラは何事もなかったかのように笑顔でヨシダの手をとった。
ニシムラ・トモコの手は、柔らかく、暖かかった。
そし日ヨシダは初めての200メートルのレースをプールの底に立つことなく泳ぎ切った。
思えはあの時、ニシムラ・トモコの背中を追いかけようと決めたのだ。


「お姉ちゃん、がんばれ!」
真っ暗な視聴覚室のどこかから、子供の声が聞こえた。
クスっと笑う学生の声もあちこちで聞こえた。


シーン5
「起きろ、わたし!」
映画の中のイロハは体を起こした。
イロハの目の前にスキンヘッドの格闘家シグナが迫って来る。
「動け、脳みそ!」
イロハは叫んだ。
格闘家シグマは背が高くてがっしりとした体格だ。見るからに強そうだ。
ひ弱なイロハが組み合って勝てる相手ではない。
しかも、イロハの後ろは池だ。
思考停止!
思考停止!
思考停止!
脳味噌が考えることを拒否している。
視界が暗くなってくる。
やっぱりだめだ。
やばい。

その時、どこからから、
“位置に着いて”
と、優しい女性の声で聴き覚えのあるフレーズが聞こえた気がした。
幻聴?
イロハの目の前に、蒼く波打つプールの水面が一瞬、浮かんで消えた。
そして一呼吸して、ピンッとスタートを示す電子音が聞こえた気がした。
脳は、思考停止したままだったが、
身体は覚えていた。

考えるより前に身体が反応していた。イロハは結局1ミリも考えないで、スタートを切っていた。
イロハは身を低くしてシグナのふところ飛び込み、左に体を翻して後ろに抜けて、その後全力疾走した!
大きく両手を振って走りながら、イロハは急に笑いがこみ上げてきた。
どうして自分にそんな大胆なことができたのか全然わからない。
しかしとにかくピンチを抜けた。
可笑しくて仕方ない。
声を上げて笑いながら走った。

躍動的に走るヨシダをカメラは最高に美しく捉えていた。
画面の中の自分の姿を見ながらヨシダは思った。
「わたし、こんな笑い方できるんだ・・」
ヨシダは少し嬉しくなった。


視聴覚室の一番後ろで、車椅子に座った女性が8ミリ映画を見ていた。
「シイノキ君、わたしやあなたが高校の時撮った映画よりずっと面白い」
車椅子の女性は言った。
隣で、喫茶“うみねこ”のおじさんは小さく頷きながら、映画を見ていた。
その隣少し隣には、西南高校進路指導教師、モトキ・アメ先生が、腕組みして立っていた。

視聴覚室で、不思議な取り合わせの三人が立っているのをホノカはしきりに気にしていた。
隣のサトウはそんなホノカに言った。
「おじさんと、モトキ先生は大丈夫だよ。モトキ先生の眉間のシワが今日はないもの」
「そう?わかるの?」
「わかるさ、そういうの。モトキ先生は案外いい人だよ。そういうとこ俺はわかるんだ」
ホノカは微笑んだ。
「そう・・良かった・・姉さんの眉間のシワが取れただけでも大進展。あの頑固者三人が共存するに、地球がちょっと狭すぎるだけなのかもね・・」
ホノカは安心したように言った。


シーン6
広い運動場にそびえる屋外プール。
プールを前にして立ち尽くすイロハ。
水道の栓が開けっぱなしにされて、
プールから滝のように水が湧き上がっていた。
水道の栓がある機械室は、入り口から反対側のプールサイドの端の建物の中だ。
水はイロハの膝くらい押し寄せている。
イロハは体育館倉庫から、長いロープを出してきて、
一方をシャワーの柱に結び、反対の端を輪っかにして、自分の胴体にくくりつけた。
後ろを見ると、ゾンビ化した生徒が大勢で追いかけてくる。
「よし、イロハ、いくぞ」
イロハは吹きだす水に足をとられながら、ちょっとずつ金網を伝って、機械室まで歩いた。
ゾンビたちは水が怖いのか、こちらにはやってこない。

イロハは全身水浸しになりながら一歩ずつ、機械室に近づいていき、とうとう、機械室のドアを開けた。

「だめだ、ここも水浸しだ」
機械室は階段を降りた少し低い位置に作られていて、
床は水に沈んで見えない。
あちらこちらから水が吹き出している。
一番奥の水道の栓まで、約5メートル、
しかしヨシダの腰くらいまで浸水した水の中を通らなければいけない。
しかも、水道の蛇口はそこからさらに階段で降りたところにあり、水没して水の底だ。

「イロハ、大丈夫、大丈夫だよ」
イロハは自分に声をかけた。
腰のロープを確かめて、
右足を水につけて、ゆっくりと水道の栓まで進み始めた。
どんどんどんどん
その時、背後でだれかが乱暴にドアを誰かが蹴る音がした。
「あいつか・・」
イロハは舌打ちした。
格闘家シグナだった。
全身真っ赤になったシグナが、機械室のドアを派手に破壊して中に入って来た。
奴が機械室に入ると室温が急に上がった。
シグナの体温で室温が上昇して、機械室の中は水蒸気で前が見えない。
「奴はシグナ、炎の属性。水とは絶対に共存できない」
女性の声がした。
イロハは振り返った。
「わたしはリン、あいつはわたしが食い止める、お前は、いけ、水を止めろ」
長い髪を水に濡らした女魔術師リンが、
涼しい目つきでイロハみた。
「ありがとう、行きます!」
イロハは女魔術師リンに言った。
リンは、軽く右目でウインクした。
真っ赤に変化した格闘家シグナは階段の上から、女魔術師リンを狙った。
「邪魔する奴は許さん」
シグナは叫んだ。
「じゃまなんてしない。あんたがわたしのスペースに勝手に入ってきたんだ」
リンは、そう言うなり、ポケットから小指くらいの大きさの杖を出した。
ポケットから出た途端、小指ほどの杖は、みるみる長い槍に姿を変えた。
リンは槍を両手で掴んで、ひと振りした後、シグナに向かって構えた。
「やあーーーー!」
女魔術師リンが気合いと共に槍をつくと、格闘家シグナはそれを両手で掴んだ。
シグナの熱が槍を伝って逆にリンを燃やす。
リンの腕が高熱に蒸発し始める。
「水の属性のお前にこの熱は苦しかろう」
格闘家シグナは笑った。
女魔術師リンはついに耐えられなくなって槍を離した。
「終わりだな」
格闘家シグナは笑った。
女魔術師リンは白い煙に包まれていく。
完全に消える瞬間に女魔術師はふふふっと微笑んだ。
シグナは、自分の前の水を熱で蒸発させながら、乾燥したコンクリートの上をゆっくり前にすすんだ。

シーン7
“今から三分だけ水の流れをかえる、今なら大丈夫、行きなさい”
頭の中にリンの声がした。
「行くしかないよな」
イロハは呟いた
イロハは、腰のロープをもう一度確かめた。
そして思い切り息を吸い込み、いちにのさんで、頭を水に沈めた、

水中で目を開けると遠くに水道のハンドルが見えた。
さらに深く潜ってようやく蛇口をしめて水が止まった。
“うまくいったね!後ろから引っ張るね”
また声が聞こえた。
蛇口を閉めた途端、誰かが、後ろからイロハのロープを引っ張って、イロハを水から引っ張りあげた。
イロハが水から上がると、すでにシグナは倒れていて、
リンがイロハのロープを引っ張りながら笑っていた。
「三分間、水の流れを変えて、こいつの頭の上からかけてやった」
シグナは、身体を水に浸されてぐったりとした。
水に浸かったシグナの高温の右手から大量の水が蒸発して、雲になって真っ青な空に昇って行った。
機械室は水が引いて、もと通りになった。

イロハが外に出ると、水が引いたプールサイドに、ゾンビ化した生徒たちが大量に押し寄せてきていた。
「やばいよ!」
イロハは叫んだ。
魔術師リンは、イロハに軽くウインクして、風のように黒いマントを翻して、ぴょんぴょんとんジャンプを繰り返して、屋外プールの飛び込み台の真ん中、第四コースにひらりと舞い降りた。
マントを脱いで赤っかなワンピースを姿になった魔術師リンは、ポケットから小指ぐらいの杖をだした、
リンが杖をくるりと回転させると、杖は瞬く間に大きな黄色の傘に変化した。
リンが黄色い傘を広げると、さっき空に昇った雲が、リンの頭上に塊となって集まりはじめた。
そして、雲がぶつかって巨大なひとつの塊になって空を覆い尽くすと、リンは傘を優雅に一振りした、
暖かい風がびっゆっと吹いたかと思うと
やがて、滝のような雨が音をたててプールにも地上にも降り注いだ。
生徒たちが、雨に打たれて身体中ビショビシになりながら、
正気に返っていく。
歓声が聞こえてくる。
しかし、
イロハが、気がついた時、
もうそこには、シグマも、リンもいなくなっていた。
イロハはカバンを肩からかけて、ようやく家に帰った。
夏休みが終わり、イロハが久しぶりに学校に行くと
転校生が二人来ているという。
一人は別のクラスの男子、
一人はイロハのクラスに女子。
先生は転校生を紹介した。
ドアの向こうから、ほっそりとした髪の長い女生徒が入ってきた。
転校生は深々と頭を下げた。
「はじめまして、転校生の阿見寺凛です」
転校生が顔をあげた途端イロハは転校生と目があった。
転校生はイロハの方を見てにっこり笑い、
可愛くウインクして言った。
「久しぶり」
イロハのトラブルはまだ終わっていなかった
イロハは頭を抱えた。
そしてエンデイング。
画面いっぱいに、
“F I N”の文字が出て、
アダチ・リョウのポップでハッピーな音楽が流れ、
映画は終わった。
フィルムは終わり、視聴覚室に明かりがついた。


映画が終わり、モトキ・アメは母親の車椅子を押して、視聴覚室を出ようとして、立ち止まり、振り返って、“うみねこ”のおじさんに言った。

「“うみねこ”の、めだか、あの子に、名前を付けてくれる?
“サデ”、“サデ”と呼んであげて。フィンランド語でわたしと同じ“雨”という意味よ。名前つける約束したよね、“とおさん”」
アメはそういうと、母親の車椅子を押して教室を出て行った。

後日、喫茶店“うみねこ”に店長のおじさん宛に一通の手紙が届いた。
差し出し人は、“モトキ・ネコ”と書いてあった。
達筆だ。
そこには、黒い万年筆でこう書いてあった。

「“うみねこ”店長シイノキ様、
わたしたちの“うみねこ号”の旅、
とても楽しかったわ。ありがとう。
この前、学生たちの映画を見終わって、
わたしたちの旅がようやく終わった気がしたわ。
わたしはご覧の通りこんな身体だけど、
今とても旅に出たい気分なの。
ちょうど、18歳の時のようにね。
あなたのことは遠くで応援してる。
ヒューバーマトカー、良いご旅行を
かつての共同経営者より」

2025年11月17日月曜日
その日の朝、テレビで、アメリカNASAで新型有人ロケットの打ち上げが日本時間の午前9:30に予定されていると言うニュースが流れた。

32
2025年11月17日月曜日
俺は、スミダ・コウジ。高校三年生。
俺は月曜日学校に行くなり、進路指導の呼び出しをくらった。
俺は進路指導室のドアを開けた。
「よお、スミダ、久しぶり」
休職中のサエキ先生が椅子に座っていた。
「スミダ、履歴書書いといてくれ、日付は・・そうだな、2035年でいいか?今、2024年と書いてあるけど二重線引いて、訂正印押したらいい」
サエキ先生は鞄から封筒を出した。
「?」
俺は封筒の書類を出した。
“2024年宇宙飛行士候補者 宇宙航空研究機構”
とあった。
「俺は去年それ出したぜ、一次審査通過した。スミダ、お前が行けそうな頃合いを書いとけよ」
サエキ先生は簡単に言った。
しかし先生は相当なトレーニングをしているに違いなかった。
腕や身体つきが前と全然違う。
「先生、前に僕に飛行機のパイロットの学校勧めましたよね・・」
俺は言った。
「ああ、パイロットな、俺、生徒全員にパイロット勧めてんだ。宇宙飛行士の申し込み書も全員に配っている。飛行機のパイロットになって次、宇宙飛行士ってコースになってんの、俺の中では。お前だけ特別じゃない」
「どうして?」
「俺が、宇宙に行った時、高校の後輩がいたら楽しいじゃないか?」
サエキ先生は笑った
「僕にはそんな能力ないです、ましてや、宇宙飛行士なんて、絶対に無理です」
サエキ先生はニヤニヤし出した。
「人生はな、誰かをあっと驚かしたら、そいつの勝ちなんだよ。
俺はそう考えてる。俺は自分を一番驚かしてやりたい。面白いだろ。誰もが簡単に到達できるゴールなんてなんの魅力もないよ」
いつの間にか、モトキ・アメ先生が隣に立っていた。
「スミダ、サエキのいうことに乗せられるなよ。えらい目にあうぞ。
そいつの危機管理能力は最低だ」
モトキ先生は冷静に言った。

「みんな視聴覚室に集まっている。お前も来い」
俺は状況がよくわからないまま、サエキ先生と、モトキ先生の後ろをついて、視聴覚室に向かった。
西南高校の全生徒がすでに席に座っていた。
奥の巨大なスクリーンには、一機の真っ白なロケットが映し出されていた。
「スミダ、今からロケットの打ち上げだ、しっかり見ておけ」
そう言いながら、サエキ先生の方が画面に釘付けになっていた。
壇上には、進路指導の、モトキ・アメ先生が、マイクを持って、英語の音声を日本語に翻訳していた。
カウントダウンの数字が映し出され、轟音とともにロケットは離陸した。
俺は、感動で涙が溢れた。
「ばか、泣くな、よく見とけ、これから全てが始まるんだよ」
サエキ先生は言った。
壇上のモトキ・アメ先生は、普段の進路指導の時よりずっと落ちついたこえで映像の解説を続けている。
「この履歴書は、ここにいる全員に渡している。お前がもしこの映像に何かを感じたなら、履歴書をかけ。そしてそこにたどり着くためにどうしたらいいか、考えろ。宇宙で待ってるぜ」
ロケットが軌道に入り、映像が終わると、サエキ先生は、俺の肩をとんとんと叩いて視聴覚室から出て行った。
モトキ・アメ先生も壇上を降りた。

2026年3月3日月曜日
今日は、高校の卒業式だ。
“うみねこ”常連の詰碁おじさんこと校長先生が壇上に上がった
「えーと、今日の良い日に我が校に入学を・・あれ、これ入学式の原稿や、間違えた」
会場は、水を打ったように静まりかえった。
囲碁おじいさんは(校長先生)は
笑いを取ろうとしていつもすべる。
「いっこだけ僕からお願い。帰りに木を植えて帰ってね。100年後の後輩がその木で学校の修理ができるように」
先生はそう言って、築100年の古びた木造校舎をみた。

ニシムラ・トモコは、すでにアメリカに強化選手をして行っていて、
俺が卒業する時、すでに日本にはいなかった。
俺がそのあとニシムラの顔を見たのはテレビの中だった。
2028年のアメリカのオリンピックで、表彰台の一番まん中に立って金メダルからかけて最高の笑顔をしてる姿だった。

サトウは、“うみねこ”でお金を稼ぎながら3年計画できちんと国立大の医学部に合格した。
合格してすぐにホノカさんと学生結婚して、二人の男の子が生まれ、
今ホノカさんは“うみねこ”の店主となっている。

おじさんは、トイプードルのサデに介助犬の訓練をして、
旅に出た。
俺のところにも時々手紙が来る。
おじさんが定期的にあげているネット動画から、サデとおじさんの生き生きした姿を見ることができる。

2025年の幻の“文化祭”に参加した生徒たちは、それぞれの別の道を歩んで行った。
俺は、二年の浪人生活の後、やっとのことで、地元の私立大学の文学部に合格した。
そして、その後印刷会社に就職したが、一年で退職した。
俺はその夜、生まれて初めて父親の涙をみた。


2040年11月18日水曜日
俺は今、アメリカ、ヒューストン宇宙センターから打ち上げられたロケットに乗って、地球軌道上を回る国際ステーションを目指している。
ステーションまで、後15マイル。
ドッキング後、そこで3ヶ月のミーティングと環境適応訓練を受けた後、月に向かう宇宙船に乗り込む。
月までの定期航路を作る仕事だ。
印刷会社を退職した俺は、
当方に暮れていた時、
机の奥から“2035年宇宙飛行士候補者 宇宙航空研究機構”
という書類を見つけた。
高校の時、サエキ先生に無理やり書かされた未来のエントリーシートだ。
俺は馬鹿みたいにもういちど、やってみようと思った。
あれから時代は変わった、しかしそうは言っても再出発は簡単ではなかった。

俺は再び仕事につき、数年がかりで資金を作り、勉強して航空学校を受験した。2回不合格になりながら3回目にようやく入学した。
そして運よく航空機パイロットになった。
飛行機の操縦桿を握りながら、
ときどき高校三年の最後の“文化祭”のことを思った。
新たな宇宙飛行士の募集が始まった時、
俺は迷いなく応募した。

人生とは不思議なものだ。
俺は宇宙飛行士になり、
とうとう月航路開拓のミッションにつくことになった。
高校の時、モトキ・アメ先生のいうとりにしていたら、もっと早くここに辿り付いていたかもしれない。
2025年の高校三年の11月から、実に15年もたっていた。
随分時間がたった。
回り道ばかりの人生だったが、俺は仲間と夜空に見あげた宇宙ステーションに今、実際にいる。
「月航路へ行く船だ。ステーションドッキングの要請をする」
俺は地球の衛星軌道を回るステーションに連絡した。
「ハロー、スミダ、久しぶりだな。待ってたぜ、待たせやがって、待たせ過ぎだぜ、西南高校の三年五組のイチノセ・ダイだ。遅いんだよ、馬鹿野郎」
俺は驚いた。イチノセはあの後現役で国立大学の宇宙工学科に進んだと聞いていた。
「スミダ、最高のドッキング見せてくれよな、ステーションで待ってるぞ」
宇宙の無限の時間の中のほんの数分。
俺は気持ちを集中させた。
ふとタブレットモニターを見ると、
S N S上で俺のドッキングを見ている奴がいる。
“#ツキデマツ モトキ・アメ、サエキ・ユウセイ”
「ツキデマツ?月?」
俺はもう一度、深呼吸して操縦桿を握った。
機体は、ステーションのドッキングポートのターゲットマーカーをとらえ少しずつ距離を縮めていく。
途中で、地球の夜の部分に入り、闇が訪れた。
早回しで、太陽が沈み、やがて朝が訪れる。
俺は束の間手を止めて地球の夜明けを眺めた。
太陽がのぼり、明るくなると、俺は再び操縦を握り、
慎重に機械を操作して無事にステーションにドッキングした。

「おお、コウジ生きてたか」
ハッチの向こうから、モニターごしにイチノセ・ダイが姿を表した。
握手したいが、健康チェックをしてからだ。
「お前こそ、卒業式以来だな!」
俺は、イチノセに言った。
「月のステーションで、モトキ・アメ先生と、サエキ・ユウセイ先生の訓練が待っているぞ。俺たち、まんまと二人の策略に引っ掛かった。お前も“宇宙飛行士候補者 宇宙航空研究機構”の未来のエントリーシート、書かされたんだろ」
イチノセは苦笑いした。

ふとステーションの窓から、地球を見つめる女性に気がついた。
白い宇宙服に栗色の長い髪が背中にかかっている。
俺はもう間違うはずがなかった。
子供の頃から何度も夢に現れた女性だ。
俺は、幼い日からこの瞬間を、夢の中で見ていたんだ。
「コウジ、紹介するよ・彼女、月航路に同行する宇宙船のメディカルトレーナーだ」
イチノセがニヤニヤしながら言った。
そして女性は振り向いた。
「始めまして、ニシムラ・トモコです。よろしく」
幼なじみのニシムラ・トモコだった。
ニシムラに会うのはあの高校三年の秋以来だった。
しかし俺は彼女が振り向いても驚かなかった。
「コウジくん、久しぶりね」
ステーションは地球の夜の部分に入った。
ニシムラの表情は良く見えない。
そして、太陽が上がった時、笑うニシムラが見えた。
今まで見た、どんなニシムラ・トモコよりも、
綺麗で、若々しかった。
「人生は、ハッピーになるようにできてるのよ。だから私はこの日が来ることを一度もうたがわなかったわ」
ニシムラ・トモコは、丸い瞳を輝かせながら、俺を見た。
子供の頃から、見続けていた夢の女性そのものだった。

「よろしく、ニシムラ」
俺は言った。

月に向かうまでの数日、宇宙ステーションで俺はニシムラと山のように話をした。
到底月までの航路の間に話し尽くせそうにない。
「この長い宇宙の歴史の中で私たちが同じ時間に生まれたこと自体が奇跡じゃない?」
トモコは言った。

イチノセに見送られながら、俺たちは月行きの宇宙船に乗り換えた。
俺たちの話は、月面のステーションに到着してからも終わらなかった。
宇宙空港のロビーでコーヒーを飲んだ。
ベトナム産のコーヒー豆だった。
これから俺とニシムラ・トモコは月にある別々の基地に向かう予定だった。
トモコは言った。
「あのね、私たちお互いまだ話したいことたくさんあると思うの。だから一緒にいた方がいいと思うんだけど」
俺はトモコの言葉を遮ぎるように話した。
「俺・・君にずっと言えなかったことがある。
俺は今まで君に言う勇気がなかった。でも、今日は言う。絶対に言う。君といっしょにいたいから」
俺は、ポケットから青い宝石のついた指輪を出してトモコに見せた。
あの高校生の夏の日から、いや、この宝石は俺が生まれてからずっと、この日のために、俺の心の中に用意してあった宝石だ。
「僕と結婚していただけますか」
俺はトモコに言った。
トモコは静かに頷いた。
俺は、トモコの手をとりトモコの薬指にゆっくり指輪を通した。
ぴったりだった。
「ありがとう」
トモコは微笑んだ。
「ここから見ると、地球がお月様みたいに思える」
トモコは、空に浮かぶ地球を見上げて眩しそうに言った。
「そうだな。青いお月さまだ」
俺はいった。
「母さんが好きだった、ターコイズブルーの宝石みたいなお月さまだな」
トモコは言った。
俺たちは、急ぐ必要なんてない。ここでは地球の時間も関係ない。
ゆっくり今までのこと、これからの事をトモコと話そう。
今日が新しい一日目なんだ。

FIN


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