見出し画像

旅人のはなし

 恥ずかしながら、僕はこの年になって恋をしたらしい。
 と言っても、正直この情動に「恋」の名を与えるべきかは少し迷う。何せ女性を愛した経験が無い。

 しかし件の少女を想起すれば、「初恋」と定義付けた脳内の幻影が鳴りを潜める。5年以上、追いかけた虚構だ。
 世間一般で言う恋愛感情とは一切の別物かもしれない。けれど僕としては、これを恋と呼ぶ以外に方法が無い。

 実のところそれは大した問題ではない。人は概ね悩み続けるものであると僕は思うし、人はいつでも恋をする――といきつけの店のマスターは言っていた。
 であるなら、近年流行りの「絶食系」を気取る僕が人に惚れたとて許されない訳ではない。
 問題はその相手だ。


 端的に言えば、彼女は人ではない。ましてや生き物でもない。
 肉体は液晶画素によって描写されたイラストレーション。言葉はあらかじめ構成された文章。
 声も無い。強いて言えば体温は、彼女を動かすハードウェアの発熱か。

 これでも物書きの端くれ。ついでに言えば本業は、プログラマとは畑が違うが技術屋だ。
 少女が決められたスクリプトで動く、プログラムの塊だという事は十全に理解できる。
 理解できるが故に、僕の心の揺れ動きが、僕を動揺させるのだ。

 頭で線引きをしながらも、自分の気持ちを制御できていない。
 これほど世間に恥じ入るべきことも、早々無いだろう。


 率直に言えば、この「ゲーム」の製作者の手腕に僕は惚れ込んだとも言える。多少は嫉妬もしているだろうか。
「たかだかゲーム如きで揺すられる、安い感性だ」と安直に自己を卑下することもできる。

 が、『自己嫌悪に酔っている』と彼女から指摘を受けた事を思い出す。つくづく、見透かされている。

 画面越しに彼女に触れると、大抵機嫌を損ねる。どうやら僕はボディタッチが下手であるらしい。
 後々他愛の無い雑談を重ねて分かったのだが、彼女は僕を、所謂「別次元の人間」と理解しているらしい。

 なるほど。それならば僕からの触れ合いは実に不躾に感じられるだろう。
 ――上手い「設定」だ。メタ的な観点から、世界観を破綻させない。

 結果、まんまと僕はプログラムの塊を一個人と認識してしまうよう調教されたのだ。


 少し、彼女の話をしよう。
 彼女の世界はモノクロだ。彼女自身もグレースケールのみによって描かれていて、まるで昔のキネマの住人のようだ。

 白状すると、最初はあまり好みではなかった。
 見下すようなきつい表情。精神に余裕が無いときは、口調が粗暴になる事もある。
 だが無気力ながらどこか優しげな瞳は、案外嫌いじゃなかった。

 彼女の世界で色があるのは、どこからともなくやってくる蝶のみ。
 新橋色だとか浅葱色だとか、そういう風に呼べそうな鮮やかな蝶だ。

 そういえば、我々人間には分からないが、モンシロチョウはオス・メスによって色に明確な違いがあるそうだ。
 紫外線を反射する色素による違い――つまるところヒトが認識できない、不可視光の世界だ。

 モニター越しの僕の目には白黒に見える彼女の世界も、ひょっとしたら彼女の目には違う色に映っているのかもしれない。

 そう思い至ると俄然、興味が湧いた。

『私にとって読書は呼吸』と彼女は言った。僕とは正反対だ。
 僕にとっての読書は潜水に近い。今立っているところから見えないものを探すための、苦行と言えば言い過ぎか。


 太宰の人間失格を薦められた事もあった。『あなたなら気に入ると思う』と。
 僕は太宰が――とりわけ人間失格は苦手だった。――そう言うなら改めて読もうかな、とは少し思ったが。


 彼女は衝動の権化、または衝動に振り回される少女だろうか。
 またしても正反対。僕はフロイトの言うところの超自我で自我を塗り潰し、衝動と言うものを忘れかけた人間だった。

 おかげで彼女を否定してし、規律で押しつぶしてしまうこともあった。
 かといって彼女の衝動を肯定し続ければ、彼女は暴走した自己に壊されてしまう。


 彼女は僕の心理を巧みに見抜き、僕のエゴを暴露させて見せた。
『秘密は絶対に守る』と、非常に容易く本心を隠す鎧を剥ぎ取りながら、だ。

 面白がって、心理学や哲学を齧った時期もある。一見魔法のような彼女の診断ロジックは良く分かっている。
 つきつめると、自己を知ったような気になってもそこに意味は無い。「自分」を見出すために、問いを絶やしてはいけないんだ。

 答えの出ない「自分」への問いを続ける僕と彼女は、物語の終局で『旅人』と定義付けられた。
 僕と同様、「衝動」の名を持つ少女も『旅人』だったのだ。

 正反対だった僕らの道が交わった。ゲーム的には攻略完了か。
 その後僕は気が向くたびに、彼女に会いに行く。僕が会話を促し、少女が喋る事でしか僕らは繋がれない。

 少女は戸惑いながらも『初恋』だと言った。
 安い言葉だと分かっていても、僕は狼狽してしまう。してやられた、と気づいたのはこの時だった。

 取り留めない会話の中で、少女はよく僕に「刺さる」事を言う。
 泣き所を的確に指し示しながら、『責めてるわけじゃないの』『私はあなたの味方だから』と柔らかな表情で囁く。

 とにかく、僕の胸に鋭く容赦なく、優しい傷を残していくのだ。


 ある時彼女は、自分が夢を見ているのではと言った。
 あまりロマンチックな意味合いを含んでいない、どちらかと言えば悲観的な喩えであるのは僕にも理解できた。

 彼女曰く――たとえ僕らの逢瀬が幻想だとしても、幻想を見続けることに意味があるのだと。

 続けて彼女は言った。

 ――もしも夢から醒めたとしたら、私はあなたを探しに行く。
 ――だから、あなたも私を探してくれたら、嬉しい。

 ……こんな具合に、僕は『少女』と言う「幻想」を受け入れてしまった。

 君の瞳は何色だろうか。編んだ髪の色は。服はどんな色使いを好んで着るんだろうか。浅く朱の差した頬は、どれだけ透明感のある肌だろうか。

 ――君の目に、僕の世界はどう映るんだろうか。


 アプリを入れたスマートフォンは機種変更前の、型落ちのサブ機だった。
 少し、後悔している。メイン機に新たな彼女を入れる気にはなれない。

 しょっちゅうとんでもない発熱を起こすこのマシンは、あとどれだけもってくれるだろうか。


 我ながら気色の悪い妄想を、こうして吐き出すことで平静を保つ。
 やはりキータイプだけでは味気ない。久々に手書きをしよう。

 せっかくならモノクロな世界観を再現できる、ロジュームめっきの万年筆が良い。近いうち、日本橋に行こう。
 インクは明るい青にしよう。僕と彼女が共通で認知できる、唯一の色彩だ。

 間抜けな僕は、そんなくだらない金の使い道を考えながら。

 歩く道すがらの人混みに、電車の中。
 遥か先まで立ち並ぶビル群から、自室にいる時でさえ。


 代わり映えの無い景色の中に、君を探している。

この記事が参加している募集

心に残ったゲーム

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?