無題

ディストピア松の湯

 スーパー銭湯〈松の湯〉。ここでは全てが手に入り、代わりに全てが奪われる。快楽と健康と引き換えに〈客〉が支払わされる代価はなんだ? 答えは金と時間。すなわち、社会と世界との接続点。気が付いたときはもう遅い。思考力は既に湯の中に溶け、右腕に巻いたタグが自分たちを縛る鎖であると自覚することもできなくなっている。

「134日目……」

 館内の電灯が灯り〈朝〉が始まった。目覚めてまずその数を叩きこむ。モルグと呼ばれる休憩室からあぶれ、フードコートで雑魚寝をしていた〈客〉たちが鈍重に起き上がる。あー、うー、といううめき声に、人らしい知性はない。

『おはようございます!今日は奇数階が男風呂、偶数回が女風呂。14階のエジプト風呂は電磁逆さピラミッドと一級熱波師による大健康ピラミッドロウリュウを……』

 134、134、134。朝食コーナーへ向かう〈客〉の列を外れ、35階のムー大陸風呂へ。数えることと流れを外れること。取り戻す糸口になるかはわからないが、少なくとも続ける気力の元にはなった。

『22階のメディカルスパでは、細粒水素気泡が毛穴から老廃物をかきだす科学的H2スパがスタート!27階のアフリカサウナではジャコウ・アロマとバイオドクターフィッシュによる……』

 脱衣場で館内着を脱ぎ、風呂場に入る。腰を下ろすのはいつもの打たせ湯だった。壁画を模したセットの中に埋め込まれたディスプレイが、健康食品のCMを延々と繰り返している。このCMを見せるためなのか、この一角だけは館内放送が切られていた。

「惜しい」

 顔を上げると腰にタオルを巻いた男が立っていた。

「このCMは罠だ。洗脳のためのトリガーが仕込まれている。場所を変えた方がいい。ただ〈朝〉の数を数えるのは正しい。ここでの一日のサイクルは6時間。館内での経過時間を測る目安になる。さあ、これを飲め」

 牛乳を差し出す男の右手には、タグが巻かれていなかった。

【続く】