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細川興元はなぜ出奔したのか?

細川興元は細川藤孝の次男。
細川忠興の弟です。

興元の出奔についてちょっと気になるところがあるので吐き出し。


興元、出奔


関ヶ原合戦の功績により細川家は領地が丹後から豊前に変わります。
慶長6年12月、領地が豊前に代わってはじめて幽斎・麝香が中津城を訪れます。
その時、中津城には細川家一門が大集合。一方、興元は所労(風邪という説も)を理由に欠席、興秋を名代にしています。

忠興がそれをいぶかしんだところ小倉城から興元出奔の知らせを受けます。

・与五郎殿(興秋)ハ直ニ中津へ被留置、小倉城改の奉行として村上八郎左衛門・飯河豊前を早速被遣候、玄蕃殿ハ小倉御在城ニて松井と共ニ両家老職なりしに、流石に陪臣と成事をいきとほり、黒田甲斐守長政と密に謀し合せ、長政より小倉の大橋に迎舟を越され、大坂に遁れ被行候由

・丹後ニてハ与十郎(孝之・幽斎四男)・松井(康之)よりも少身なるを、相身代にして弐万五千石遣候ニ、無理なる不足と被仰候

この「与十郎・松井よりも少身なるを~」について少し気になるんですよね。


なぜ石高が少ないのだろう?


興元は元足利家臣だった松井康之と同じく細川家の家老という立ち位置です。
そのため、おなじ家老といっても松井康之より扱いが下になるのは分かります。しかし、20歳近く年離れている末弟の孝之(1585生)より扱いが下なのは、やっぱおかしい気がするのです。

関ヶ原前の動向を軽くまとめてみます。

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