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永禄の変の時、細川忠興はどこへ逃げたのか

永禄8年(1565年)、足利義輝が三好家により二条御所を襲われて討死した「永禄の変」が勃発します。
その際、義輝の弟・足利義昭を京から脱出させたのが忠興のパパこと細川藤孝(のちの幽斎)。

永禄の変が起こった当時、忠興は1歳半(かわいい!)
京も混乱を極めていたため、忠興は乳母とともに京の町屋に隠れ住むことになります。

その町を綿考輯録では「洛辺田町」と記しています。




永禄の変の時、忠興はどこにいた?


そもそも、永禄の変の時忠興はどこに住んでいたのか、という所が不確定要素ばかりなんですよね…!泣
『綿考輯録』には、忠興は京都・一条戻橋の小川屋敷で生まれたと記されています。現在の晴明神社の近く。

推定ですが、多分このあたり。

1歳半という年齢のことを考えても、永禄の変の当時、忠興はこの辺りの屋敷で暮らしていたんじゃないかな?と思います。

で、永禄の変が起こった二条御所はこのあたり。

現在の京都御所の少し近く、現在の平安女学院大学の敷地内にあります。
だいたい歩いて20分くらい。結構近い。

徒歩20分圏内なので永禄の変が起こった当時は騒ぎがすぐに聞こえる範囲。ちょっと判断を間違えればすぐに巻き込まれかねない距離感かなと思います。


忠興が乳母と隠れ住んでいた町は現在のどのあたり?


永禄の変が起こった後、忠興が乳母とともに隠れ住むことになったのが「洛辺田町」。
しかし、この地名は『京都市の地名』『京都府の地名』で調べてみてもヒットしません。
おそらく文章のニュアンスから「洛中のあたりの田町」という意味でもありそうです。


…なら、候補地を探してみようじゃないか!(血涙)



『洛辺田町』の候補地を探してみよう


①銀閣寺エリア


以前、とある郷土史会の講演会に参加した際
「銀閣寺前の田町とつく町が沢山あるエリアに逃げたのでは」
と仮説されていました。

確かに銀閣寺近辺には

・浄土寺上南田町
・浄土寺下南田町
・浄土寺西田町
・浄土寺東田町

と「〇〇田町」とつく町が集中してるんです。

ちょっと拙いですが、現在の町名をマークするとこんな感じ。
京大の裏手側、かつ藤孝のいとこである吉田家ゆかりの吉田神社も近くにあるエリアです。

今出川通まで向かい、そこから加茂大橋を渡り東へ直進すれば向かえるルート。徒歩だと約50分くらい。

左から細川家の小川屋敷(暫定)、二条御所、銀閣寺の〇〇田町エリア

問題は永禄の変の当時、賀茂川を渡れたのか?ってところですね。
三好側が賀茂川を渡る橋を封鎖してたらちょっと難しいかもしれません。


②堀川北大路エリア

細川屋敷があったとされるエリアのすぐ西には堀川通という京都市内を南北に伸びる道があります。
そこから北進した所にも

・紫野上鳥田町
・下鳥田町
・紫野上御所田町
・紫野東御所田町
・紫野西御所田町

と、「田町」とつく町が集まるエリアがあります。

堀川通をそのまま北に25分くらい真っすぐ進めば辿りつきます。

余談ですが、この紫野一帯は紫式部ともゆかりがある場所。
源氏物語にも出てくる「雲林院」というお寺や、紫式部墓所があるエリアでもあります。

そして近くには忠興の叔父でもある玉甫紹琮が住持を務めた大徳寺があります。
けれど永禄の変の当時、玉甫紹琮が大徳寺にいたかはわからないんですよね…いたのかな…

個人的にはこちらの方が川を渡らずに真っ直ぐ進めばよいし、洛中からすぐ離れられるこのエリアだったんじゃないかな?と勝手に考えています。


最後にまとめ


正直このほかにも〇〇田町とつく町名たくさんあるんですよね…!
全てさらおうと思ったらかなりしんどいです。

なので今回は細川家とのゆかりの場所だったり、お寺などアジール(自由領域」「避難所」「無縁所」などとも呼ばれる治外法権が認められたエリア)になり得そうな場所が近くにある所を候補地として調べてみました。

結局のところ、忠興が乳母とどこで過ごしたかはわかりませんが、町屋とはいえ住み心地のよく、そこまで遠くない場所で過ごしていたらいいなと思います。

参考になるかな?
全部調べてみたいぜ!調べた結果有力なルートが分かったぜ!という方がいたらぜひ論文でなくてもいいので発表していただけると細川家のオタクが喜びます。いやマジで。


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