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インドに呼ばれて


「インドに呼ばれる」というフレーズを聞いたことはあるだろうか。


普通は、ぼくたちが目的地(旅行先)に行く。つまり、ぼくたちの意思で目的地に行くのだけど、インドの場合は違うと言われている。


ぼくたちの意思に関係なく、「インドの意思に私たちが呼ばれて行く」というのだ。


もっと言えば、インドに呼ばれないと私たちはインドに行けないらしい。


この言葉をいつ知ったのかは思い出せない。けど、ふと最近この言葉を思い出した。今私はとてつもなく仕事に追われている。社会人2年目で、1年目を必死に乗り切ったが、正直、2年目はますますキツい。


ぼくは小学校の時、何かの文集で将来の夢に「サラリーマン以外」と書いた記憶がある。少し変わり者なので、みんなと同じが嫌だったのもある。でも一番は自分のやりたいこと、自分らしさを出せることがしたい気持ちがあったのかもしれない。


だから、やりたいこと、なりたいものを探してはきた。
環境問題に関心があったときは、環境問題専門家に。歴史に興味があった時は学芸員に。自分を生かせる生き方がしたいと思っていた。


でも、気がつけばサラリーマンになっていた。時間の流れはあっという間だ。なって気づいた。サラリーマンは立派だ。お客様に喜んでもらえる様に、相手の立場で話し行動する。部下を守るため、頭を下げ、問題が起これば速やかに駆けつけ対処する。そんな姿は本当にリスペクトできる。


仕事はキツくても、そこから逃げることはしたくないと思っている。悔しいし負けた気がするから。



その一方で、ふともしかしたらインドに呼ばれているのでは!?と思ったことがあったのも事実だ。

長期休暇に新疆ウイグル自治区に一人で行ったり、友人と2人でヒッチハイクで東京まで行ったり。その途中で車に乗せてくれたブラジル人の親戚家族みんなとBBQしたり。土日休みにはせっせと冒険家や写真家の講演会に行ったり、海外放浪系の本を読みあさったり。


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最近ネットサーフィンしていていた時、ある人が書いたnoteを読んだ。インドで三年前に見た景色があって、その景色が自分の中に焼き付いているという。私がインドに行ったのも1年半以上前だけど、忘れられない景色があったなぁとすごい共感した。

共感と同時に、インドでのその瞬間は鮮明に覚えているんだけど、体感として少しづつ薄れてきている。このままでは、インドは、あの景色は、遠くに行ってしまいそうで。時間がたてば、自分と切り離されそうな気がする。
 

そう思うと、あの景色がどうしても見たい。まだまだ知らない景色も、もっとみたい。そんな気持ちばかり湧いてくる。


一年半前、インドに初めて行ったときも、どうしてもどうしてもインドに行きたかった。たまたま行った神戸のインドフェスで仲良くなった友人がいて、遊ぶたびにインドの話を楽しそうにされて、なんかいいなーて思って、そんなとき就活が始まって、自分の過去振り返ったら何も出来てない気がして、インドに行けば何かある気がして、どうしても行きたくなった。


何もできていないのに、もうすぐ社会人になって色々な事に制限がかかってしまうと思えて、急に嫌になった。将来のことはしっかり考えたかったから、就活は人一倍しっかりやった。だけど、そんな気持ちだから「やらなきゃ」と「やりたい」が喧嘩して、しんどくなって何もやる気がなくなる程病んだ。なんとか就活が終わってインドに行けた。自分的にはインドに行くまで劇的な日々だった。

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こう思うと1年半前、ぼくはインドに呼ばれていたんだろう。そして、今またインドに呼ばれている気がする。


インドが呼ぶ力は絶対的で、苦しい経験を通して、ぼくをいつも粉々にすることで、インドはぼくを呼ぶのかもしれない。


ちょっと無理やりな呼び方だけど。インドらしい。


もしくは、知らず知らずのうちに、ぼくたちがインドを呼んでいるだけなのかもしれない。


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