主体性を言う前に
教師は、子どもの反応を予想し、楽しい授業を夢見るが、しばしば子供の反応に裏切られ散々な目にあうことがある。感動する場面について言えば、教師が感動するだろう、と予想していたところで子供が感動しない、ということはよくあることである。 もし、それで子供を責めることがあったなら、それは、本末転倒と言わざるを得ない 。なぜなら、人は自分が良いと思うもの、価値があると認めるもの、にしか感動しないからであり、その価値観は成就感を味わうという前提なしには得られないからである。
そうした本末転倒は主体性についても言えることである 。よく私たちは、主体的にやりなさいとか、自主的に、とか口にするけれども、元来、自主性とか主体性とかいうものは、そうした言葉かけを必要としないものであり、予め知的能力がついていさえすれば、子供は黙っていても主体的に行動するものなのである。
この場合の知的能力というのは「事実に関する能力」ではない 。「価値に関する能力」のことである。主体的に生きるためには、意思決定能力が要求され、それには価値観(それぞれの人の行動決定の基になっている主観的な考え方)が必要だからである。つまり、主体性についても、価値観を育てる前に主体的に生きなさいというのは、成就感の前に感動を、と同じで本末転倒の謗りを免れないのである 。
では、教育される側の子供にとっては、この問題はどうであろうか。発達段階からいって小学生の段階では、特に問題にならないが、高校生にとっては、深刻な問題である 。現に4割近くの高校生が、受験とかいうノウハウではなく、人格形成に関わること、どう生きたらいいかということについて悩んでいる。
つまり、自分のやりたいことが見つからないため、将来に希望を抱けないで、人生の選択すらできないでいるのである 。よく、私たちは、今の子供は体力や粘り強い意志力がないため飽きっぽいなどと子供を責めるが、それは、体力や意志力がないためではなく本当にやりたいものがないからではないだろうか 。
この問題の解決には、子供が現在の生活に成就感を持ち、将来に希望を持って生きていけるようにすることが何よりも大切である。それが、先の価値的な能力(それは選ぶ能力と言い換えてもいいだろう)を育てることになるのではないだろうか。 私たち小学校教員もこの問題に対して 安穏としてはいられない。なぜなら、高校生の悩みの素地を作るのは私たちだからで ある。
教聖ペスタロッチは、教育は子供を幸せにすることだと喝破している。そして子供が人として幸せに生きるために必要な能力として、頭、胸、手の三つを挙げ、その調和的発達を目指すことが、教育の眼目であると説いている 。
頭は知的能力であり、前述の「事実に関する能力」と「価値に関する能力」の二つである。日本人は前者の能力は優れているが、後者の能力は劣っている。つまり、調和ではなくバランスを欠いているのである。だからといって、屁理屈を言う子供にしようと言っているわけではない。ここで大事になるのが、胸の教育である。
胸は心情であり、幸せを感じるところである。そのためには、感情を純化し、情操(より高い価値に反応する感情)を育てていくことが必要であり、また、行動の原動力となる感情をコントロール する先の知的能力も合わせ持つことが大切である。つまり、頭と胸は表裏一体の関係にあるのである。頭と胸の能力がつけば、価値的な判断が身につき、願いを実現させたいと思うのは人情である。故に次に必要となる能力は手である。
手は、行動力である。体力と意志力の錬磨によって、夢を実現させようとする 。いわゆる自己実現である 。表裏一体の関係にある頭と胸、これに手を加える。頭と胸と手と、これが教育の三位一体であり、どれ一つ欠いてもいけない 。
ペスタロッチの言を待つまでもなく、今日の教育は調和を欠いており、その修復が求められている 。人間として必要な能力を育てるためには、もちろんスローガンだけではいけない。それを実現させるための方法原理を明らかにしていくことが、私たち教員一人一人に今、強く求められているのである。(1991)
(上記の報告文は、元大妻女子大学教授 金子肇先生の講演を聞いてまとめたものです。)
1 全人教育
教育の理想は真、善、美、聖、健、富の六つの価値の創造にある。すなわち、学問、道徳、芸術、宗教、身体、生活、六方面の人間文化をコスモス(Cosmos)の花の如く調和的に豊かに形成する全人格的教育、知情意の円満なる陶冶を目指す教育でありたい。
(See you)