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お先にどうぞ➰

演奏の出来がいいと、これ見よがしに並べられたCDが飛ぶように売れる。11月27日のドレスデン国立歌劇場室内管弦楽団の演奏会がそれだった。曲はオール・モーツァルト。生では、なかなかいい演奏に巡り会えないモーツァルトだが、東京オペラシティコンサートホールの響きの良さもあいまって、吉田秀和氏(元水戸芸術館長)の評論によるところの「fとpのふくらみを持たせた『アポロ的モーツァルト』」さながらの、息の合った、全身に心地よい演奏だった。

この出会いを思い出にと、早速CDコーナーに走ったが、そこは、すでに自分と同じ想いの人たちでいっぱいだった。この日演奏された「ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲k.364」、同じソリスト(Vn:イェルク・ファスマン Va:セブスティアン・ヘルベルク)による演奏が収められたCDは、残り3枚。それも、あっという間に2枚が売れてしまった。私は、開演前に、売り切れの為にありつけなかったサンドイッチの二の舞は御免とばかりに、とっさに最後の一枚を手にした。

すると、すぐ脇から、「今日演奏された曲の入ったCDはありますか?」の声。
「今、売り切れました。」
私は、透かさずポケットをまさぐってお金を出し、代金を支払って、そそくさとホールを後にした。

「このホールは、好きなんだけど、マイナーなんだよなぁ。有名なのがこないんだよ。」初台駅へ向かう途中、別の客が連れにそう言った。帰宅を急ぐ大勢の一団とともに、さっきのCDの一件に釈然としない想いを抱きながら歩いていると、エスカレーターの昇り口にさしかかった。

エスカレーターには、通常一段に二人乗れるのだが、みんなエスカレーターの左側に整然と一列に並んで乗っている。エスカレーターの右側が完全に空けてあるのだ。最初その意味がわからなかったが、じき、先を急ぐ人たちのために空けてあることがわかった。
密集した場所に住む人たちの、先を急ぐ人たちを気遣うマナーから生まれた知恵なのだろう。決して押し付けられたルールなんかではない。まさに、これこそが成熟した自由な社会そのものなのだ。

「開演前にサンドイッチにありつけた人、CDを手に入れた人、時代を先駆け早早と天国へ旅立ったモーツァルト、先を急ぐ人たち。さぁ、お先にどうぞ。」
成熟した自由な社会にそう誘われて、私はエスカレーターの右側を一気に駆け上がった。
                                                                  (1998)

(See you)