【食文化】薩摩芋焼酎にある歴史
2020年代は、人類史に残る局面を迎えそうです。そんな中、効能を注目されつつあるものがあります。
それは酒によるコミニケーションです。飲みニケーションなんて過去のものになりつつあると言われていたものの、それが一気に消えてしまいかねない状況になりました。このインパクトは世界的なものであり、イギリスのパブも対策を迫られているとか。
「オンライン飲み会」で満足できるの? 飲食産業はどうなる?
人類とは、原始的に作って飲んでいたころから、酒とともに生きてきたと、皮肉にも証明されたのです。
『三国志』の英雄による飲みニケーション。
イギリス人の酒とパブによるコミニケーション。
ここまで取り上げておいて、我が国の飲酒文化を無視するわけにもいきません。
日本人と酒の関係を探り、飲みニケーションがいかに大切であったか、確認してみましょう。
日本酒はもちろん重要ですが、本稿ではもっと強くて、世界史的に見ても大変珍しいあの酒を考えてみます。
薩摩芋焼酎です。
芋の酒を飲むあいつら
幕末から明治にかけて、江戸っ子や東日本の人間を中心に憎々しげに口走った言葉があります。
「芋侍がよぉ!」
「あいつら、芋くせえ連中だよ」
“芋”と呼ばれた人々とは、薩摩出身者でした。薩摩芋から作った酒を飲んでいるわけのわからん連中ということです。
芋焼酎を愛飲しているくらいで、どうしてそこまで罵倒される? 薩摩出身者からすれば、不思議な話です。
ここは、政治的なこと以外に、その背景を分析してみましょう。
薩摩庶民の酒は焼酎
酒の歴史を見ていると、その用途にも格差があります。
・上流階級:あくまでコミニケーション。じっくりと味わい、珍しいものを飲みあい、ゆったりと歓迎する
・庶民:ちくしょう、こんなもん、飲まねえとやってらんねえぜ!
貴族がワインを優雅に楽しむ一方、庶民は辛い日常から逃避するために、強い酒で手っ取り早く酔っぱらうのです。
日本でもそういうことはありました。戦前のデンキブラン(※現代のものは粗悪ではありません)。
戦後のメチルアルコール。古関裕而の親友でもあった伊藤久男は、このメチルアルコールで顔面が変形しております。『エール』では描かれるのでしょうか。
現代を生きる日本人にとっても、ストロングゼロがおなじみでしょう。
明治35年(1902年)の本富安次郎の『薩摩見聞記』によれば、当時鹿児島で飲まれている酒の分類はこうなりました。
上酒:関西から取り寄せた高級酒
酒:みりんに似たもの。宴会の最初に儀礼のように飲む
泡盛:強い! 強烈な蒸留酒
焼酎:安価で一般的に飲まれるもの
お殿様や上級武士がはるばる灘あたりから清酒を取り寄せ、ここぞというときに口にする一方。半農状態で厳しい生活を送る下級武士は、焼酎を痛飲していたのです。
薩摩隼人のストイックさ、その強さ、智勇は有名です。しかしそれは、極東のスパルタとロシア人が驚愕したほど激しい、郷中教育によるものでもあります。プライドを育て、チームワークを学ぶ教育環境の先には、酒で飲んで盛り上がるコミニケーションが待っているのです。
ここで断っておきますが、本稿は薩摩芋焼酎およびそれを飲む方がワイルドであると、糾弾するためのものではありません。
当時の飲酒文化を考えてみたいと思います。
芋焼酎の背景には、薩摩の歴史と事情がある
薩摩といえば、芋焼酎――。
あの独特の香りがいい。悪酔いしない。適量なら健康にもよし! 鹿児島県内にはメーカーがひしめきあい、代表銘柄も数多くあります。黒ヂョカ、カラカラといった伝統的な酒器にも風情があります。
そんな芋焼酎の歴史は、華々しいスタートではありません。火山灰のせいか、稲作が厳しい薩摩の救世主となったのがサツマイモでした。それで酒を作ることが、やがて行われるようになってゆきます。
皮をむき、発酵後して三日後に絹の袋に移し、笹の葉の黒焼きを入れる。そんなふうに製法を洗練させつつ作られてゆくわけです。
焼酎だけに、蒸留装置も必要となってきます。これも簡単な話ではないのです。外様であり、幕府が目を光らせていたうえに薩摩藩の収入源は、密貿易でした。琉球や清と輸出入をする中で、焼酎づくりに必要な蒸留器や技術を得たわけです。
こうした技術は、酒を作るためのものでもありません。
蒸留酒とは、薬品や工業品を作る過程で得られたものを、飲用に転用することがよくありました。
薩摩藩には、条件が重なったのです。
・稲作よりもサツマイモ栽培に適した土地
・交易による蒸留技術の獲得
かくして、薩摩では芋焼酎が作られることになってゆきます。といっても、ご当地の変わった酒扱いでした。
江戸時代、薩摩を旅した人はいます。芋焼酎を飲んでみて、反応は別れております。
京都の医者であった橘南谿が記した旅行記『東西遊記』には、おいしいと気に入り、わざわざ蒸留器に入れて持ち帰ったと記されています。
あくまで自家製であり、販売できるほどにはならない。この状況を変えて、売り物になるように改善を始めたのが、島津斉彬の【集成館事業】でした。
とはいえ、島津斉彬が藩主として統治した期間は短く、その次の代ともなれば幕末の動乱に巻き込まれてゆきます。
芋焼酎の改善にもそこまで注力できるわけもなく、道筋をつけたところで、まだまだ発展途上の芋焼酎が出回ることとなるのです。
京都で活躍する薩摩藩士も、故郷の味である焼酎を楽しんだことでしょう。
坂本龍馬の土佐藩も焼酎は親しみをもって飲まれるものでした。土佐藩士と薩摩藩士を交えての酒宴は、記録に残されています。
とはいえ、これもあくまで薩摩藩士同士や土佐藩士との交流であればこその、南 国的なカラリとした飲み会でして。
長州藩士との飲み会では、あわや死者が出そうな記録が残されているわ。「幕末鴻門の会」と呼ばれた飲み会は、あわや斬り合いになったと伝わります。
京都の女性たちからはモテないどころか、避けられるわ。
江戸っ子はじめ、東日本の人々からは「芋くせえ連中」と露骨に嫌われるわ。
和やかな話ばかりではありません。
奄美諸島からすれば薩摩藩の収奪は「黒糖地獄」そのものであり、明るく陽気なお酒の話にはならないことは、ご留意いただければと思います。
と、厳しいことを書いてしまいましたが。
それでもカラリと明るく、ワイルドで、芋焼酎をガーッと痛飲する薩摩隼人は、幕末明治以降の日本にインパクトを残したことは確かです。
あの大人物である西郷隆盛も、宴席では陰毛を火で炙る衝撃的な芸があったとか。川路利良も下半身がらみの豪快な逸話があることですし、そういうワイルドな気風が、芋焼酎ともどもあったということでしょう。
雪を見ながら日本酒を熱燗でしっとりと飲む。そういう飲み方も日本人の酒とのつき合い方ならば、芋焼酎を飲んで陽気に暴れることも、日本人の飲み方です。
幕末の薩摩を代表する人物である篤姫も、大奥で酒を嗜んだそうです。女中と酔ったこともあるそうですが、ただの「酒」とのことで、焼酎かどうかはわかりません。
薩摩から赤味噌は取り寄せたそうですが、芋焼酎はどうだったのでしょうか。身分を考えれば、おそらく芋焼酎は入っていなかったと思われます。
芋焼酎の歴史はまだまだ終わらない
島津斉彬が芋焼酎を洗練されたことは、確かなこと。とはいえ、格段の進歩を遂げ、今日に通じる香り高さと味わいが確立されるのは、技術の進歩や酒税との攻防あってのことでした。
一方で、前述の『薩摩見聞記』には「衣服ことごとく臭う」とまで記されております。もう少し、今日の洗練まではもう一押しです!
酒の歴史は、税との関係を考えることが欠かせません。令和時代、発泡酒が飲まれる背景にも、税制があることは指摘されております。
明治政府としては、鹿児島の芋焼酎にも課税したいところ。とはいえ、明治時代初期は、西郷隆盛はじめ薩摩閥の大物がこうした思惑に対抗し、保護を打ち出していたのです。けれども政治闘争の結果、薩摩閥の力が削がれてゆき、それも通用しなくなってゆきます。
『薩摩見聞記』が書かれたあとの明治末期、日露戦争後が起こりました。戦争後の経済伸長の中、芋焼酎ブームが起こりました。鹿児島も熱気に包まれます。政府は「酒税滞納」を理由にして、こうした酒蔵の摘発に乗り出します。
3000軒はあった鹿児島の酒蔵の多くが潰れ、残ったのは一割程度るという、「蔵つぶし」が巻き起こったのです。地元の人々は新聞社のジャーナリズムを用いて抵抗します。この「蔵つぶし」こそが、鹿児島の大正デモクラシーの発端であったとみなす意見もあるのです。
けれども、こうした締め付けをくぐりぬけた酒蔵は、体力がつきます。洗練性を増し、技術力を高めてゆくのです。酒の発展には、科学の進歩が欠かせません。
イギリスで国民的な酒としてウイスキーが発展するように、日本でも芋焼酎がそうなってゆきます。
砂糖を添加する甘さではなく、酒独自の味わいを求める。
研究室を酒蔵が作り、ウイスキーや他の酒で身につけた技術も導入する。国際交流も、技術を高めました。
戦争や不況といった困難をくぐりぬけ、税制。政治情勢。デモクラシー。そういった歴史を経て、芋焼酎はさらなる進歩を遂げてゆくのです。
芋を用いた蒸留酒は、世界的に見てもそこまで豊富ではありません。
サツマイモの収穫時期や保存の都合もあり、安定して供給するにはかなりの手間と技術が必要です。
芋焼酎とは、世界的に見ても歴史が長く、かつ珍しい。そんなサツマイモの甘くて辛い蒸留酒と言えます。
芋焼酎は、日本のコンビニで簡単に手に入りますし、お値段も手頃ではあります。そうなってくると、庶民の酒だと気軽に飲めてしまいますよね。
けれども、歴史、文化、風土、技術……さまざまな要素が詰まっているのです。
2020年代、コロナ後の時代には、きっと酒そのもの、酒との付き合い方も変わってゆくことでしょう。
けれども、酒のくぐりぬけてきた歴史を思えば、きっとこれからも前に進めるはずだと思いたくなるのです。
皆で笑い合いながら芋焼酎を飲む。そんな日がくることを祈りつつ、今は自宅で飲むことで我慢しましょう。
【参考文献】
鮫島吉廣『焼酎の履歴書』
桐野作人『さつま人国誌 幕末・明治編』
鹿児島商工会議所『かごしま検定』
他
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