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ΠΡΟΔΟΣΙΑ No.12 「タイムリミットについて」

どうも!エッセイのコーナーです。

プロドシア No.12 タイムリミットについて


 あらゆるものにはタイムリミットがあると、ここ数カ月の間そう強く感じている。
 約三年(無断休部期間を含む)間の放送部での活動が終わり、いよいよ進路選択という最悪の一大イベントの気配に四方八方を囲まれ、嫌が応にもその準備をしなければならない。季節は夏。七月がやってきた。
 七月だ。六月初めに入会した源さんの「YELLOW MAGAZINE +」が三度目の更新を迎え、四月から続いていた米津さんのツアー「空想」も先日ファイナルを迎えた。
 もう2023年は半分も終わってしまったのか、と思うと、本当に一日が短く感じるようになった。
 どんな食べ物にも賞味期限があるように、頭の中で思い浮かぶモノにも消費期限がある。作品制作のためにプロットを書いては消してを繰り返していたとき、「めちゃくちゃいい話ができたぜ!」と息巻いて、その日出来た構成を一晩置いて次の日にまた見返すと、たちまちのうちに自分の中で熱が冷め、この作品になんの思い入れもなくなってしまう、ということがよくあった。
 最近も曲作りの間に「やべえくらいいい歌詞が書けたぜ!」といい気になって眠りにつくと、翌朝聴き返したときに恥ずかしくなるくらいの歌詞だったことが判明してしまう。まだ加工次第では美味しく調理することができるのだろうが、頭の中でこの賞味期限を超えてしまったものは、僕は捨て去りたくなってしまう。

 でも時間は過ぎ去っていく一方であって、その期限というのがいつ来るのか解らないままどんどんと近づいてくる感覚に怯える日々を過ごす。岩屋の山椒魚とはまさにこのことだろう。今だって、この駄文をだらだら書き連ねているが、いつその賞味期限が来て投げ出したくなるのか判らない、腹の中を蛞蝓がせりあがってくるような感覚がある。

 製作が終わってからも部室に顔を出して作業をしているのだが、今までより後輩たちとの距離を感じてしまうようになった。「部活」というもののタイムリミットを過ぎてしまった以上、引退する身である僕とこれからも現役である彼らとの間では考え方にもそりゃ差異はあるだろう。あと半年で学校で授業を受けることも終わってしまう。
 
 大人になったら、このタイムリミットに怯えなくて済むようになるのだろうか。と、昨晩考え込んで眠るのが遅くなってしまった。
 もしなくなるならそれはそれで寂しいな。今の僕はそのタイムリミットに急かされながら生き急いでいるが、これがなくなってしまえば後ろから罵声なりクラクションなりが鳴らされる、傍から見たら甚だ邪魔な車のような人間になってしまうような気がする。

 思えば作品制作中、この日々がいつまでも続くといいなとさえ思っていた。これまで生きてきた十八年の生涯の中で、紛れもなく「自分史上最も忙しい期間」だったここ数カ月、忙しい日常で睡眠時間をすり減らしていく生活を翻って考えてみると、この非日常的な生活の中にいられることが堪らなく楽しかったように思える。今とは打って変わって、ただ目の前のことに打ち込んでいるだけでいていいことを、そのタイムリミットが許していてくれたのだろうか。

 タイムリミットに急かされていたつもりが、なんだか逆に、タイムリミットに庇護されていたような気分だ。

 前回の更新から日が浅く、まだ幸いして曲作りをしている最中だ。自分を戒めるためにも、救うためにも、いっそのことタイムリミットを設けてみては。
 そんなことを思う七月だ。

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