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◆言葉の意味を真剣に再考する時間<号外1>

ブラックパールは、魔除けの意味と効果があります。 周囲の「邪気」や「悪意」を、強力に防ぐでしょう。 危険な「罠」や「事故」を回避する、お守りとしても人気です。 不幸を遠ざけ、幸運の未来へ導くでしょう。

Yahoo!検索「ブラックパール 意味」より

※今回の投稿は、「人が何をどう信じているか」ということが“後世に与える影響”について述べる内容であり、存在や信仰心を否定するものではありません。その点、誤解のないようにお願い致します。

◆人が意味を施したものを信じる根拠とは

【1】パワーストーンを身に着けても人生は良くならないことを誰もが自覚している

 昔からずっと冷めた目で見ていたパワーストーンの広告。「これを身に着けていればあなたも億万長者になれる!さぁ、いますぐ手に入れよう!」みたいなやつね。添付されているビジュアルには万券の束を両手に広げた男と腕を組む女の姿。週刊少年雑誌、少女漫画雑誌、大人向け週刊誌なんかにはほぼ100%こうした広告が掲載されていた。

 こういうことがまかり通っていた時代なんだよね。中には、こういうものにのめり込んで手放せなくなってしまっている人もいただろう。あれだけ広告費を投入できたのには、おそらくはそれだけの実入りがあったからにほかならない。とんでもない詐欺広告だよね。今はどうなんだろうね。

 巷にはパワーストーンショップは当たり前のようにあるし、今ではオンラインショップもある。宝石の観点から言うと、古くから社会に浸透した文化であることがわかる。ダイヤ、パール、サファイア、ルビーなど、様々な宝石がジュエリー技術によって美しく輝くアクセサリーへと姿を変え、数十万から中には億単位のものも世に存在することとなっている。

 某ホテルの代表取締役が全身にあらゆる宝石を身に着けている姿は、正直言うと実に滑稽だなという印象を受ける。お金が有り余って仕方なくそのような姿になってしまっているのかもしれないけれども、“その人にはその人なりに信じてることがある”という解釈をすれば、その自由意思は認めることもできる。

 誕生石の一覧を検索すると、1月から12月までそれぞれ宝石が決められていて、それぞれに意味が添えられている。半年前くらいだったか、誕生石に新たな宝石が追加されたとかいうネットニュースを見たことがある。では、一先ず一覧を見てみよう。

1月 ガーネット
2月 アメシスト、クリソベリル・キャッツ・アイ(NEW)
3月 アクアマリン、サンゴ、ブラッドストーン(NEW)、アイオライト(NEW)
4月 ダイヤモンド、モルガナイト(NEW)
5月 エメラルド、ヒスイ
6月 真珠、ムーンストーン、アレキサンドライト(NEW)
7月 ルビー、スフェーン(NEW)
8月 ペリドット、サードオニックス、スピネル(NEW)
9月 サファイア、クンツァイト(NEW)
10月 オパール、トルマリン
11月 トパーズ、シトリン
12月 トルコ石、ラピスラズリ、タンザナイト(NEW)、ジルコン(NEW)

https://www.huffingtonpost.jp/entry/birthstone_jp_61c12427e4b0d637ae8570cb

 誕生石が追加された理由は、コロナ禍によりジュエリー業界が大打撃を受けたため、消費者の選択肢を増やすことでより多くの人たちに興味を持ってもらいたい、ということらしい。へーって感じだね。私は9月が誕生月なので、サファイアとクンツァイトの意味を見てみた。

◆サファイアの宝石言葉には「誠実」「慈愛」「徳望」といった意味合いがあり、ほかにも平和を祈り、一途な想いを貫くというメッセージが込められているといいます。 古代から哲学者、聖人の石と言われ、神の恩恵や慈愛を受け精神の再生をもたらすと信じ、聖職者賢者にこそふさわしい石と考えられていたサファイア

◆クンツァイトは、見返りを求めない無償の愛を教えてくれる石です。 自分への愛を教えてくれるのがローズクォーツだとすれば、他人へ愛情を注ぐことの大切さを気づかせてくれるのが、クンツァイトです。 広く思いやりの心を養ってくれますので、人への批判的な気持ちを抑制し、コミュニケーションを豊かにしてくれるでしょう。

Yahoo!検索「宝石名 意味」

 ちょっと一言いい?胸が痛い!(笑)一言に言うと、全て当てはまらない。ここに書いてあるような人であれ、という意味合いなのかもしれないけれども、残念ながらそのつもりもない。聖書か何かに書いてあるような内容だよね。出所はキリスト教だろうか。聖職者とか賢者なんて、私には到底当てはまらない。その理由を書いていくよ。

【2】信仰心と人生の因果

 現代に存在しているあらゆる宗教のうち、長い歴史から言うとキリスト教、仏教、ユダヤ教、ヒンドゥー教、イスラム教が挙げられる。世界中には、私たちが知らない宗教や、各宗教が枝分かれして細々と宗派が数百と存在していて、ここ日本でも600以上もの宗教が存在しているとか。

 冒頭にも記した通り、私はこうした様々な宗教、宗教思想、宝石やパワーストーンに込められた意味などを否定する気は毛頭ない。ただその存在のみを認めている。でもね、何にせよそれらを信じるか信じないかは個人の意思に委ねられているもので、私は信仰心はなく、どの宗教に属すこともしないし、宝石やパワーストーンの意味や効果を信じて購入しようなどといったことも考えない人間。

 つまらない正論を言うと、仮に何かの宗教に入信したとしても、石の効果を信じて手に入れたとしても、私の人生が好転するわけではない。そもそも、“信じる”とはどういうことなのかを再考する必要があると思っていて、自分が信じていること、他者が信じていること、その違いからどんなことが想定されるのか、といったことも考える必要があると思っている。

 というのも、世界のあちこちで起きている争い、そのすべてが信じていることの違いから生じているからだ。対立する二者の双方が互いに自分たちの正義を主張することで言い争いが起こり、時には人が傷付き、命まで失われる。何かを信じている者たちが、そのように争っているのである。

 そして、その争いにおいて勝った者(たち)の正義がまかり通ることになる。もちろん、日本も例外ではない。自民党が長年政権運営をしているのは、得票数を最も勝ち取っているからで、議席を一番多く手に入れた政党でもあるからこそ、連立政権である公明党との共闘により、自民党の掲げる正義が社会に受け入れられているから、というのが表向きの解釈となる。

 でも、各世代における人口比率からもわかるとおり、現政権は高齢者層を取り込むことで当選確率を上げている。単純に人口比率が低い若い世代が選挙に行くべきだとかいう議論はまったく論点がズレていて、仮に若者全員が選挙で投票したとしても、世論がひっくり返ることは向こう10年~20年はないだろうというのが現実。あまりに社会福祉に税金を費やした結果、豪華な老人ホームが全国に立ち並ぶことになり、先行き不安定な若い世代が未来に希望を持てない社会へと変わってきた。

 何も信じていないと言えば極端かもしれないけれども、少なくとも現在の18歳未満の人たちも、18歳以上40歳未満の人たちも、信じられるものがない状態が当たり前になっていると言っても過言ではない。かといって、宗教に入信したり、宝石やパワーストーンの効果に頼るのも私は違うと思っている。そんなに単純に救われるのなら誰もが宗教的な思想を信じるはずで、現在何かの宗教に入信している人たちの誰もが救われているわけでもないだろう。

【3】“信じる”って何?

 あくまでも個人的な解釈に過ぎないんだけれども、私自身は心底信じていることがなくて、逆に言うと“信じているものがある人たち”に対して客観的な解釈に留まっているんだよね。なんでかっていうと“何が理由で信じるに至ったのか”を掘り下げると、実はこれといって独自の意思によって信じ始めたわけではなくて、大半が既成の思想や環境における通念を「これはこういうものだ」と“刷り込まれているだけ”に過ぎず、“これを疑うこともしなくなってしまう”というのが“信じる”ということと同義ではないかとも思っている。

 でもこれは、何も信じるなということではなくて“常に疑うことはしたほうがいいよ”というメッセージだと受け取ってもらえるといいかなと思う。時には、自分が信じてきたことを他者から否定されたりバカにされたりすることもあると思うんだけれども、そういう時は争いの合図として受け止めるのではなくて“そう考える人もいる”と思って対話をすればいいんだよね。

 なんかさ、株やFXなんかの情報商材とか、通販の健康食品とか健康グッズとか、数十年間社会にベッタリと粘着してきたものではあるけれども、信じて状況が好転した人たちなんてほとんどいなくて、蓋を開けてみたら騙されていたとか全く効果がないものだったとかいうオチで、あちゃーって残念な経験をしたことのある人たちを量産してきたのが平成時代だったんじゃなかろうかと思うんだよね。

 最近では教育の在り方にも仕事の在り方にもどんどんインパクトのある意見が飛び交うようになって、実態が徐々に変化しつつあるようになってきているけれども、これも、なんで今になってそういうことになっているのかというのは、“信じてきたことが実はおかしいぞ”と議論を迫られるほどに社会において通用しなくなってきたことが浮き彫りになったからなんだよね。

 “誰か”の何らかの作為によって人が信じ込んでいることって、信じ込んでいる本人の弱みに付け込まれていたり、本人の怠惰な部分に付け込まれていたり、もう一つ言うと、(年上や先輩たちの)“誰か”が強いられてきた同じような経験を「オレたちもやってきたんだからお前たちもやるのは当たり前だ」とか「みんなやってるんだからお前もやれ」みたいな口ぶりであたかもそれが常識かのような認識を植え付けられていたり、所謂「バイアス」を断ち切れない人たちが操られやすいのかもしれないね。

 小さい頃にさ、「サンタさんは存在する!」って信じていた人ってどれくらいいるんだろうね。私はね、信じるも信じないもなく、3歳くらいの頃に父親から「サンタなんかいない、プレゼントは親が買ってきてやってるんだぞ」って言われてたんだよ。これもこれで捻くれてるなーと思うけど、一度くらいは信じてドキドキしてみたかったとは思う。どうせある程度の年齢になれば気付くことだし。サンタは存在すると信じていても別に何のがいもないわけだからね。

 それでもだよ?勉強や資格に関してはこれらを疑うことなく、散々「勉強しろ」とか「資格を取れ」とか言われたけれども、「お前らが大人になる頃は大変な世の中になっているぞ」と言いつつも勉強や資格がどんな未来に繋がるのかみたいなことまでは、たぶん親でもわからなかったから言えなかったんだろうね。私は親の言葉を全否定する気はなかったけれども、信じるに値するものが見えなかったのもあって、勉強にも資格にも自分の意思が伴うことがなかった。

 大体わかるよね、平成の30年間を思い返せば、複雑になり過ぎて混沌とした社会になっていった。そういう社会で「これだ」と信じられるほうがリスクだったろうなと。

 私もいろいろやってみたよ。大学時代にはミスドのアルバイト(3か月)、年末年始の年賀状配達(1回)、コンビニのアルバイト(2年)、昔あったグッドウィルの日雇い計4日(八百屋とスーパーでのクリスマスケーキ販売、ティンバーランドのブーツの倉庫整理)、KDDIが光回線の“ひかりONE”を販売を開始した当初に業務代理営業(2か月)、派遣会社5年(電動工具の製造工場の資材管理、自動車部品工場の品質管理、建設用鉄筋の溶接工場)、パチンコ運営会社2社(うち1社は管理職)、QR決済の未加盟店営業。

 経験としてはどれも視野を広げてくれるものではあったし、行く先々で裏側を知ることもできた。でも、もう私たちの世代の多くは在る場所に飛び込むことくらいしか選択肢がなかったんだよね。大抵の人たちがそう。どこに行っても上のポストは昭和的な考え方で凝り固まったおじさんおばさんしかいなくて、働いている人たちが何に耐え、何に対して我慢しているのかと思ったら“旧態依然とした在り方”だったんだよね。それでみんな居酒屋で愚痴を言い合うのが社会人だみたいなことが常態化していることを知ったわけ。

 そりゃー働いていても楽しいわけないよね。変わろうとしない組織で働いている人たちは常に不満タラタラで、どれだけ職場の人間の愚痴に付き合わされてきたことか。私なんかは元々イヤなら見切りをつけてさっさと辞めてしまえばいいっていう考え方だから、辞める時に惜しむことも惜しまれることもなく、さっさと次に行って転々としてきた。

 総じて、日本において働くというのは絶望や失望のほかに裏切りや嫉妬が渦巻いていて、足の引っ張り合いなんかも未だに横行している。コロナ禍が始まってからというもの、職場環境はさらに悪化しているようで、メンタル削られて精神を患ってしまう人たちや自ら命を断つ人たちが後を絶たない。そんなことになるくらいなら経済的には厳しくても慎重に仕事を探したほうがいいと思うんだよね。

 月収や年収に釣られて入社した会社で現実を見て即辞めていく若い人たちが特別ヘタレとかいうことでもない。というより、そもそもそういう判断をしている若い人たちをけなしたり見下したりすることこそがナンセンス。今は、選択自体が非常に困難を極める時代で、間違えることも多いと思うんだよね。SNSが社会に浸透して、何かしら問題があるとすぐにネット上に晒されるということもあって抑止効果も働いているとは思うけれども、世に公表されているものなんて氷山の一角に過ぎない。

 バカバカしくなって会社を辞めるという判断は、むしろ重要な感性だろうと思う。アニメ「キングダム」に出てくる廉頗大将軍が趙を追放されることになって内乱が起きた時に言っていたよね。

「バカの下で働くことほどバカなことはないぞ?あの王はダメじゃ。前の王も相当じゃったが、今度はたまらぬ。」

集英社 週刊少年ジャンプ「キングダム」18巻より

 国を背負って戦う趙国三大天の廉頗でさえ、国の大王を信じられなくなったら堂々と他国へ亡命する。つまりこれが何を意味するかというと、“現在自分が置かれている環境に何一つ信じるものがないのであればしがみつく必要はない”ということ。

 では、改めて“信じる”とは何かを考えると、自身が生きるこの世界、国、社会、学校において、“信じられるものがあるとしても疑うことを忘れるな”ということだろうと私は解釈する。もう一つ付け加えるとするのであれば、“家庭”も。

【4】家庭内ヒエラルキーほどバカなことはない

 まずここで触れる過程について補足しておくと、いま私が思う家庭の在り方は、実体験を踏まえた上で認識が固まってきたものであり、一般的な家庭の在り方を主張するものではないが、共通する部分について意識を向けていただけるとありがたい。うちの家庭だけがそうであるということではなく、他にも多くのうちのような、もしくはうち以上の家庭はあるかもしれない。

 これも私が3~5歳くらいのことだったと思うんだけれども、兄のことを下の名前で呼んでいたら、ある日、母親から「お兄ちゃんと呼びなさい」と言われて、その時から呼び方を改めた。でも、私が兄のことを下の名前で呼んでいたのは、両親や一番上の姉がそう呼んでいたからマネしていただけであって、特別そのことが悪いことだという認識はしていなかった。

 「どの家庭でも同じでしょ」という声が聞こえてきそうではあるけれども、私の認識は違った。なぜなら、末っ子だった私からすれば、姉も兄も同じ家族であり、たまたま私より数年先に産まれただけであって、それが敬う理由にはならないと思っていたからだ。むしろ、対等ではないのかと。

 今でも長男である父と電話で話すと「長男だから」という言葉を口々に言うけれども、位の高い家系でもないのに未だにそういう考え方で語る様子が私はいつも納得がいかなかった。長女だから、長男だからという前提で語られている姉や兄もきっと常に納得していたわけではなかったかもしれないけれども、それでもどこか“姉だからしっかりしないといけない”とか“兄だから弟には負けたくない”とか、そういうふうに刷り込まれているようにも見えていた。

 兄とスーパーファミコンの格闘ゲーム「ストリートファイター2」で遊んでいた時のこと。兄はリュウ、私はケンというキャラクターで戦っていて、両者とも扱う技は同じで、波動拳、昇竜拳、竜巻旋風脚。リュウの昇竜拳はほぼ垂直にジャンプするのに比べ、ケンの昇竜拳は若干曲線を描くようにジャンプする違いがある。私は十字キーの操作時に感じる左親指の関節の痛みに耐えつつも、波動拳と昇竜拳を交互に連打。ガードをしていても徐々にダメージを受け、ゲージが減っていくため、所謂、兄がガードしたままダメージを削って倒すということをしたのだ。

 このハメ技に腹を立てた兄は私の右側頭部を殴った。あれは多分本気で殴ったのだろう。相当痛かった。私は一気につまらなくなり、それから兄弟でゲームを楽しむことはなくなり、兄から誘われても付き合うだけにして、言われるがままにやっていた。「ファイナルファイト」も「聖剣伝説2」も「聖剣伝説3」も。私よりもゲームへの熱の入れ方が強かった兄は、思い通りにならないと攻略本を買ってきてそれを見ながらやっていた。それを見ていて、「攻略本を見ながらやってもおもしろくはない」と思って、それ以来、認識が変わることはなくなった。

 兄弟でやるゲームこそ対等なはずなのに、何かというと兄であるが故の暴力を振るわれてイヤな思いしかしなかった私は、家庭内における縦の関係から出る言葉を心底嫌った。それは今も同じで、家庭内ヒエラルキーほどバカなことはないと思っている。

 跡継ぎ問題とか遺産相続問題とか、世間では度々トラブルが起きているようだけれども、うちはそういう家系でもない。数年前のある日、兄と電話で口喧嘩になった時に、「親の葬式の時の喪主は俺だ!」と唐突に怒鳴りつけてきたのだけれども、“やりたければやればいいんじゃない?オレがやるなんて一言もいってない”と言い返した。長男であることがそんなに重要なのだろうか、私が次男であることはただそれだけで喪主の権利はないんだと言いたかったのだろうか、たぶんそうなんだろうけれども、私にはそもそもそういう観念がないものだから、イマイチよく理解できない物言いだった。

 日本くらいじゃないの?アメリカで言うブラザーやシスターなんていうのは形式上の意味よりも“仲間”や“同士”という意味合いのほうが強く、家庭内でも名前で呼び合い、細かく立場を分けるようなことはなく、対等に接している家庭がほとんどではないだろうか。体育会系を愚弄する気はないけれども、敢えてそれに染まろうとすることにも理解が及ばない。なぜなら、“敬う”とは強制されるものではなく、相手に対する想いが心の内から敬意として湧いてくる心の所作だと考えているから。

 それが通用しない縦社会の日本では、年齢、性別、経歴、組織内でのポジションが重視され、“だから偉い”という理由付けに扱われ続けてきた。でも、どんなに上司や先輩に対して不満を抱いていたとしても、建て前を重んじ、不満を本音で言うことがタブー視されてきたため、本音を言えば立場を失うリスクを同調圧力によって抑え込むことが当たり前になっていた。反吐が出るね。早くこういう古い体制を消し去ってしまいたい。

 昔、父親から「毎日メシを食わせてもらえることを当たり前だと思うなよ」と何度も言われてきたことも、いま思えば子供に対してこれを言う親というのは、威厳を無くすし、子供が親を敬う気持ちさえも削り取ってしまうものなのだということがわかる。“家族として対等に接してはもらえない”ということに、私は心底残念な思いをしていた。

 対等に接してもらえたなら、もっと親のために進んで手伝いもしただろうし、何より、もっと心を開いて話したかもしれない。父親の一方的な知識自慢の話ではなく、こちらからもっと話したかった。大人になってからも、本音を言うようになったのはつい最近だ。子供に10年間空手をやらせてきたことは間違いだったと認めさせたのは、父親の子に対する暴力があったからこそ。

 空手に心酔した父が信じたものまで否定する気はない。でも、格闘技を段位まで極めた人間が、弱い立場である自分の子供に手を上げ、骨折や打撲をさせる姿を見せたことは、“空手をやる意義”を喪失させた。そのことを父親にちゃんと理解させて、その間違いを認めさせた。自分の身を守るだけではなく、“弱き者を守るための格闘技”をそんなふうに扱う父親が、どんなに空手について語ろうと、少なくとも私には一つも響くことはなかった。父は、家庭を持った当初からいろいろと失敗していた。

 父は父なりに、威厳を保つべく、大黒柱として仕事に専念していたのは確かで、仕事上の能力も関係各所に認められるものを持っていることも事実だった。何より、そばにいる母が一番そのことを今でも語るのは、母もそのように認めているからであり、信頼しているからにほかならない。でも、夢を語ることもできないほどに家庭内には常にストレスが漂っていて、正直私はそういう家庭を見ていて幸せというものを感じたことはなかった。

 私自身にも非があるとするならば、そういう父の顔色を窺っている母、両親の姿を見ていて感じていた疑問を素直に投げかけるべきだったのかもしれない。こんなのは家族ではない、と。私が小6の時に一度だけ両親が離婚を考えたことがあったのだけれども、「お前らはどっちについて行くんだ」と父から言われた姉と兄は口を閉ざしたままで、父は「お前はどうする」と私に聞いてきた。

 そんな判断を子供にさせる親はどうかしてると思ったけれども、私は横に首を振った。その理由は、離婚してほしくないからではなく、当然ながら両親が離婚したあとの未来が見えなかったからだ。あの時、もし仮に私が首を横に振らなかったらどうなっていたんだろうと今でも思う。

 なんだかんだ言っても、家庭における窮地はその時くらいで、それ以外のことは乗り越えた。ただ一つ言えるのは、あの時離婚していたら、今の両親は、今のような暮らしはできていなかったということ。

 なんでそういう時だけ子供の意見を聞こうとしたんだろうか。もっとどうでもいい話をしたかった。子供は親とどうでもいい話をしたいものなんじゃないかね。

 あとさ、放任主義って言葉があるでしょう。これは、放っておいても自分からあれこれと動くくらい活発な子に対しては有効だと思うんだけれども、そうではない大人しい子供を放っておくと、「自分の子供が普段何を考えているのかわからない」ってなるんだよね。その状態で「お前変わったやつだな」と言って片付けるのは子供の成長に繋がらないどころか、むしろ傷付ける言葉でしかない。何度言われたことかわからない。“変わってるから何?”と思う反面、家庭内でそういう扱いを受けたことには本音を言いそうになったこともあるくらい苦しい思いをした。

 自分の子供はまともだと思い込みたいのかもしれないけれども、私は変わっているというより、歪んで育ったと思っている。家族に対して心を開けない者が社会に出て人に対して心を開けるようになるはずもなく、そのことでもかなり苦労をした。

【5】令和時代は“上書き”の時代

 家庭を持つことはないだろうけれども、自分としての家庭の理想像は、夫婦も親子も兄弟も“家庭内ではずっと対等”がいいと思った。これが、私の実体験から出た答えだ。大河ドラマとか江戸や明治を描いた映画の影響としては悪い意味で家庭内ヒエラルキーの刷り込みを助長した可能性はあるかもしれない。毎週日曜日の20時にはNHKの大河ドラマをよく観ていたからね。そういう意味でも、両親だけを責めることはできない。ちなみに、小さい頃に観ていた大河ドラマはまったく理解できずに観ていた。

 もしかすると人は、“長年信じてきたこと”を疑ったり、別のものへ上書きする機会を見つけられずにいたのかもしれない。今の時代だからこそ、人々の声が影響力を持つようになり、議論が活発になされるようになっているだけで、昭和や平成初期には価値観を改める機会というのがなかったことにも大いに起因しているかもしれない。

 もちろん、それぞれの時代において社会に浸透した価値観は異なるわけで、それを疑ってばかりもいられない時代もあっただろうということはわかる。特に今は、社会が加速的に変化している時代。当然、人々が持つ価値観もこれに引っ張られる形で上書きを迫られている。

 今を生きている40歳以下のすべての人々は、何を信じていいかわからない世代でもある。その上で、50代60代の人たちが古い価値観で刷り込もうとするのはやっぱり良くない。もうその歳にもなると価値観も凝り固まって変えられない人も多いだろう。

 知床の観光船沈没事故は痛ましい結果となっている。なんでも、乗客の中には、船の上でプロポーズをする予定だったカップルも乗船していたらしく、非常に悲しく思う。

 この事故が起きてしまった原因は船の管理会社に問題があったとされていて、全国の同業者への監査が執り行われている。そこで私が一つ思ったのは、ムードを意識したプロポーズや旅行そのものに対する考え方を改める必要性があるのではないかということ。 

 ハネムーンは海外で・・・というのも、今このご時世であればなおさら、起こり得るリスクは昔と今とではまるで異なるわけで、わずか1週間や2週間の期間で重大な事件や事故に巻き込まれでもしたら、結婚どころの話ではない。

 確かに、昔ほど大げさな冠婚葬祭も今となっては自粛傾向にあり、ブライダルプランや葬儀プランもコンパクト化し、安価なものも増えている。でもまだ上書きが足りていないようにも見て取れる。昭和の頃の古き良き風習は、令和時代においては上書きすることが必要なのではないかと思う。もはやそれどころでもなくなってきている。

 冒頭でも書いた通り、今、ジュエリー業界は財政逼迫に喘いでいるため、「結婚式で指輪を・・・」という概念がなくなってしまうと、経営することすらも難しくなるかもしれない。それでも、いよいよ別の概念を創出させても良い頃なのかもしれないというのは、この令和時代に議論がなされてもいいと私は思う。

 給料3か月分で購入する指輪は単価が高いから買えない、そういう人たちが実際に増えているという現実も踏まえると、今までのままこの先もやっていくのは困難だろうということは肌感でわかる。であれば、「指輪の代わりになるもの」を新しい風習として根付かせることができる良い機会になるかもしれない。

 モノ消費からコト消費へ移り変わり、今は「スル消費」へと移り変わっている。人々の消費行動がその性質を変化させているのだから、モノ消費やコト消費が難しいならスル消費でいろんな風習を代替していけばいいかもしれない。

 お歳暮やお中元のギフトなんて、会社内では敢えて禁止している企業が増えてきて、今ではすでに常態化している。年末年始の年賀状も今はもう書く人が減り続けている。どちらも「本音を言うと贈られてきても困る」というものであることを公に言い始めた人たちも増えてきていて、こうした一方的にモノを贈るという行為がタブー視されてきている。日本が好景気の時に盛んだった風習はどんどん辞めていったほうがいい。

 「昔はこうだった」「会社組織はこういうものだ」「縦社会だから」「親だから」「兄だから」「男だから」「女だから」・・・こういう前振りで物事を決めたり、相手の選択肢を制限したり、相手の意思を代替したりして、それがさも当然であるかのような言い回しをする人たちに対しては、徹底的に反論していいと思う。場合によっては「なんか昭和的ですね・・・」と一言だけ言えば相手はそれ以上言わなくなる。

 立場至上主義を廃止しない限り、社会はどんどんバランスを崩していくことになる。正論っぽい妙で古い語り方をする人たちは、今後逐一やり玉に挙げられる可能性もあるけれども、現状はまだ“新しい価値観”を提言する人たちが批判の対象になっている傾向が残っている。それももうすぐ潮目が変わることだろうね。“誰もが立場を無視して古さに疑問を呈する”、そういう時代。

【6】認めるべき価値観は上書きしてはならない

 石は石。古いものは古い。ダメなものはダメ。などといった極端なことを言い出すと、議論しても何も生まない。宗教だろうと、パワーストーンだろうと、ダメだと言われてきたことだろうと、そこには必ず「認めるべきもの」が含まれている。

 そこから学びとなることはあるだろうし、ダメと言われてきたことのうち、「別にいいんじゃないの?」と言えるようなことは認めていかないといけない。

 例えばだけど、「遅刻」については“社会人としてダメ”と今でも言われているけれども、遅刻をしてはいけないことが社会通念として浸透していることを疑わないことがそもそもおかしいとも言える。時間にルーズな人は思いのほか多い。でも、その人の立場や能力までも排除していい理由にはならない。

 だったら、いっそのこと“遅刻をしてもお咎めなしの社会”にしてしまえばいいのではないかね。学校や会社で遅刻をしたことをブチブチと説教されたことのある人がどれだけいるかわからないけれども、およそその数だけ遅刻をした人がウソを言った回数にもなっている、よね?お腹が・・・体調が・・・頭が・・・風邪で・・・と。

 中には、それくらいで休んでたら仕事にならないから今から来なさい、と言うのが今までは当たり前だったと思うんだけれども、もうそういう考え方も上書きされつつある。

 いや、むしろね、遅刻をした人を数十分とガミガミ説教をしている時間が会社にとってロスで、これを遅刻した本人のせいにした言い方で説教している人たちこそ要らないと思うんだよね。遅刻の説教のために少なくとも2名分の人件費がかかってしまう。これを年に何回やるつもりなんだろうね。

 なんだったら、遅れた分だけズラして勤務すればいいよね。もうすでに「働きたい日に働いて、働きたい時間だけ働く」ということを会社の就業規則にしている会社もあるくらいだ。それができるのなら願ったり叶ったりで、モチベーションも上がるでしょう。頑張れる日と、何かしらの事情で短時間で帰りたい日とあるでしょう。その事情まで問い詰める必要はないよね。

 遅刻という概念そのものも消し去ってしまえばいい。時間にルーズだからってその後の機会まですべて奪う権利は会社にはない。今思えばとんでもないこじつけだよね。そりゃーね、打ち合わせとか商談とかの予定には間に合う必要があるだろうけれども、今だったら直接会わなくてもオンラインでできるわけで、滅多に遅れることもなくなるでしょう。

 人の価値をそんな小さいことで捨てるような会社はもう残っていけない。緩く長くやっていくほうがまだ生き残れる。そういう会社は離職率も下がる。無駄に厳しさを押し付けるような会社は大して良い仕事もしてないから、なくなっても社会はダメージを受けない。ホント、過労死労災だけはなくそうよ。そんな死に方をさせるなんて奴隷と一緒だからね。

 “社会人として”・・・笑っちゃうね。そんな大義がないと働けないならそんな会社は辞めたほうがいいよ。真面目ぶってるだけで古い慣習に付き従って動いているだけの人たちだから。ホントお疲れ様だよね。真面目な無能と怠惰な有能だったら後者を残してうまく仕事してもらったほうがいい。

 基本、説教したがる人は下の人たちからは信頼されていないから。でも中には、無駄ではないうまい説教の仕方を心得ている人もいるから、そこは見極めが必要。

◆最後に・・・

 疑うことも、否定も、常に必応なことではあると思う。なんかこう、「否定はしてはいけない」みたいな風潮もあるけれども、否定しないことには議論が進まないこともあるからね。で、否定するのなら代替案が必要だから、否定しっぱなし、批判しっぱなしにならないように、認めるべきところは認めていく、そういう質の高い議論が増えるといいね。

 価値観の上書きに正しいも間違いもない。理に適った意見かどうかくらいはわかるはずだから、そこを意地になって抵抗するみたいなことは避けたほうがいい。もっと柔軟に議論を重ねて社会を変えていけたらいいね。何の整合性もない価値観や常識やルールみたいなものはどんどん上書きしていこう。

 でも、これをするには普段からアンテナ張って自分の思考も回転させて上書きしていかないことには、ただ誰かの話を聴いているだけではできないこと。

 パワーストーンや宝石は見た目が美しいし、添えられている意味も中にはいいものがあったりするけれども、そこにわざわざお金を払ってモノを私有する必要があるかどうか位は判断しようね。手に入れても一時の優越感しか感じられないまま次々と増えていくから。で、こういうものを“一方的に贈る行為”も変に誤解を与えたりすることもあるから気を付けよう。中には、ブランドバッグとか贈っても質屋行きで現金に替えるカネの亡者みたいな人もいるし、思っている以上に変な目で見られたりすることもあるからね。まぁ、そうだな、昔流行ったミサンガくらいならいいかもしれないけれども・・・。

 自分が知らない昔の誰かがそうと決めた価値観や規則や習慣など、まず疑おう。「え?なんで?」くらいでもいい。そこに添えられている意味が理に適っているのなら信じてもいいかもしれないね。

※最後まで読んでくださりありがとうございました。ではまた次回☆

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